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近代革命の社会力学・総目次Ⅰ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

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序説
 ページ1

一 北陸一向宗革命

(1)概観 ページ2
(2)越中・加賀の旧体制 ページ3
(3)一揆衆の形成と革命の成因 ページ4
(4)一向宗革命体制の構造 ページ5
(5)一向宗革命体制の終焉 ページ6

二 17世紀英国革命

(1)概観 ページ7
(2)革命前英国の社会変動 ページ8
(3)革命主体としての議会 ページ9
(4)革命諸派の分岐状況 ページ10
(5)国王処刑への力学 ページ11
(6)軍事的共和制への収斂 ページ12
(7)王政復古から名誉革命へ ページ13

三 アメリカ独立革命

(1)概観 ページ14
(2)独立前北アメリカ植民地と本国 ページ15
(3)集団的革命家の形成 ページ16
(4)独立戦争の力学 ページ17
(5)独立派黒人の寄与 ページ17a
(6)女性たちの動静 ページ18
(7)持続する立憲革命体制 ページ19

四 18世紀フランス革命

(1)概観 ページ20
(2)旧体制の動揺 ページ21
(3)民衆蜂起と革命の開始 ページ22
(4)革命諸派の形成 ページ23
(5)君主一家処刑への力学 ページ24
(6)革命的独裁と恐怖政治 ページ25
(7)二極化する民衆 ページ26
(8)革命における宗教力学 ページ27
(9)革命の軌道修正 ページ28
(10)反動化と帝政への変質 ページ29

四ノ二 18世紀オランダ革命

(1)概観 ページ29a‐1
(2)国民議会の設置まで ページ29a‐2
(3)憲法党争 ページ29a‐3
(4)反動的軍事介入から崩壊へ ページ29a‐4

五 ハイチ独立革命

(1)概観 ページ30
(2)植民地サン‐ドマングの人種別階級構造 ページ31
(3)革命の初動とブードゥー教 ページ32
(4)フランス革命への呼応と暫定自治 ページ33
(5)帝政とその崩壊 ページ34
(6)南北分裂から再統一へ ページ35

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(1)概観 ページ35a‐1
(2)復刻絶対君主制の両義性 ページ35a‐2
(3)対ロシア敗戦から革命へ ページ35a‐3
(4)ベルナドッテ朝と立憲君主制の展開 ページ35a‐4

六 第一次欧州連続革命

(1)概観 ページ36
(2)1820年スペイン立憲革命 ページ37
(3)1820年ポルトガル立憲革命 ページ38
(4)イタリア・カルボナリ党革命 ページ39
(5)1830年フランス七月革命 ページ40
(6)余波としての周辺革命・二次革命 ページ41
(7)ベルギー独立革命 
   〈7‐1〉南ネーデルラントの特殊性 ページ41a‐1
   〈7‐2〉独立革命への急転 ページ41a‐2
   〈7‐3〉独立革命後の諸状況 ページ41a‐3

六ノ二 ギリシャ独立革命(準備中)

六ノ三 メキシコ独立/第一次共和革命

(1)概観 ページ41b‐1
(2)ヌエヴァ・エスパーニャの支配構造 ページ41b‐2
(3)メキシコ独立革命の過程 ページ41b‐3
   〈3‐1〉司祭の蜂起~1815年
   〈3‐2〉革命への反転~1821年
(4)第一帝政と共和革命 ページ41b‐4
(5)第一共和政とその破綻 ページ41b‐5

六ノ三ノ二 テキサス独立革命

(1)概観 ページ41b‐6
(2)テキサス開拓とアメリカ人入植者団 ページ41b‐7
(3)独立革命への過程 ページ41b‐8
(4)テキサス共和国の成立とアメリカ編入まで ページ41b‐9

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(1)概観 ページ42
(2)イタリア諸邦の革命 ページ43
(3)フランス二月革命
   〈3‐1〉オルレアン朝体制の限界 ページ44
   〈3‐2〉未然革命:改革宴会
   〈3‐3〉革命政府の樹立と展開 ページ45
   〈3‐4〉反動化から第二帝政へ ページ46
(4)オーストリア三月革命 ページ47
(5)ハンガリー三月革命 ページ48
(6)ドイツにおける革命
   〈6‐1〉諸邦の革命 ページ49
   〈6‐2〉フランクフルト国民議会
   〈6‐3〉共和革命から反革命へ ページ50
(7)革命余波の諸状況 ページ51

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(1)概観 ページ51a‐1
(2)自由主義革命から「改革戦争」へ ページ51a‐2
(3)傀儡第二帝政と第二次共和革命 ページ51a‐3
(4)20世紀メキシコ革命への展望 ページ51a‐4

八 フランス・コミューン革命

(1)概観 ページ52
(2)敗戦と第二帝政の崩壊 ページ53
(3)パリ包囲戦と第二次革命の胎動 ページ54
(4)コミューン革命への展開 ページ55
(5)パリ・コミューンの権力構造と施策 ページ56
(6)革命の挫折と反革命テロル ページ57

九 日本近代化革命:明治維新

(1)概観 ページ58
(2)「開国」と革命への胎動 ページ59
(3)倒幕運動の始動と担い手 ページ60
(4)無血革命成らず革命戦争へ ページ61
(5)革命政府の展開と権力闘争 ページ62
(6)明治政府の革命的政策展開 ページ63
(7)自由民権運動の対抗 ページ64
(8)立憲帝政への保守的収斂 ページ65

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(1)概観 ページ65a‐1
(2)朝鮮王朝晩期の情勢 ページ65a‐2
(3)「独立党」の形成と日本へ/の接近 ページ65a‐3
(4)革命的決起と挫折 ページ65a‐4
(5)未遂革命の余波 ページ65a‐5

十 ブラジル共和革命

(1)概観 ページ66
(2)ペドロ2世の革新的治世 ページ67
(3)1889年11月共和国宣言 ページ68
(4)打ち続く内乱・内戦 ページ69
(5)寡頭的共和制への収斂 ページ70

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(1)概観 ページ71
(2)白人既得権益層と「銃剣憲法」 ページ72
(3)共和革命への急進展 ページ73
(4)「共和国」から合衆国準州へ ページ74

十二 フィリピン独立未遂革命

(1)概観 ページ75
(2)革命的地方名望家階級の形成 ページ76
(3)1896年第一次独立革命 ページ77
(4)1898年第二次独立革命から対米戦争へ ページ78
(5)キューバ独立戦争(革命)との対比 ページ79

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(1)概観 ページ80
(2)ロシア立憲革命(第一次革命)
   〈2‐1〉革命集団の台頭 ページ81
   〈2‐2〉日露戦争と「血の日曜日」 ページ82
   〈2-3〉民衆革命の展開 ページ83
   〈2‐4〉「改革」と抑圧 ページ84
(3)イラン立憲革命
   〈3‐1〉属国化と革命機運 ページ83
   〈3‐2〉第一議会の開設と憲法制定 ページ84
   〈3‐3〉第二議会と列強の反革命介入 ページ85

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)
   〈4‐1〉青年トルコ人運動 ページ86
   〈4‐2〉立憲革命の展開 ページ87
   〈4‐3〉革命の迷走と三頭体制 ページ88

十四 ポルトガル共和革命

(1)概観 ページ89
(2)共和主義者の結集 ページ90
(3)10月5日革命への展開 ページ91
(4)革命的政策展開と共和党の分解 ページ92
(5)第一共和政の崩壊過程 ページ93

コメント

近代革命の社会力学・総目次Ⅱ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(1)概観 ページ93a‐1
(2)革命前史 ページ93a‐2
(3)開発独裁体制の矛盾 ページ93a‐3
(4)ブルジョワ民主化革命の始動 ページ93a‐4
(5)反革命と再革命 ページ93a‐5
(6)農民革命運動の挫折 ページ93a‐6
(7)革命の保守的収斂 ページ94a‐7

十六 中国共和革命:辛亥革命

(1)概観 ページ94
(2)前段階的ナショナリズム ページ95
(3)近代的ナショナリズムと中国同盟会 ページ96
(4)地方蜂起から密約革命へ ページ97
(5)革命の横領過程 ページ98
(6)革命の挫折と軍閥支配 ページ99
(7)「護法革命」の不発 ページ100 
(8)革命の余波 ページ100a

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(1)概観 ページ100b‐1
(2)清朝藩部の半自治的支配構造 ページ100b‐2
(3)辛亥革命と「五族共和」理念 ページ100b‐3
(4)モンゴル独立革命とその帰趨 ページ100b‐4
(5)チベット独立革命と近代チベット国 ページ100b‐5

十七 1917年ロシア革命

(1)概観 ページ101
(2)革命勢力地図 ページ102
(3)共産主義運動の転移 ページ103
(4)大戦から革命へ ページ104
(5)二月革命:共和革命 ページ105
(6)反革命とボリシェヴィキの台頭 ページ106
(7)十月革命:社会主義革命 ページ107
(8)ボリシェヴィキ党のクーデター ページ108
(9)前皇帝一家虐殺への力学 ページ109
(10)内戦・干渉戦の力学 ページ110
(11)ソヴィエトの形骸化とソヴィエト連邦の成立 ページ111
(12)革命の輸出 ページ112
(13)革命の余波 ページ113

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(1)概観 ページ114
(2)民族主義と社会主義の交錯 ページ115
(3)社会主義労働者共和国の樹立 ページ116
(4)白衛軍の勝利とその後 ページ117

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(1)概観 ページ117a‐1
(2)民族主義勢力と共産党の連合 ページ117a‐2
(3)革命政権の内紛と混迷 ページ117a‐3 
(4)「モスクワの裏切り」から崩壊へ ページ117a‐4

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(1)概観 ページ117b‐1
(2)自治の撤廃とロシア白軍の占領 ページ117b‐2
(3)人民党の結成から再独立革命へ ページ117b‐3
(4)社会主義体制の樹立とソ連衛星国家体制の確立 ページ117b‐4

十八 ドイツ革命

(1)概観 ページ118
(2)帝政ドイツと社会民主党の台頭 ページ119
(3)水兵反乱からレーテ革命へ ページ120
(4)レーテと社民党のせめぎ合い ページ121
(5)急進派の蜂起と敗北 ページ122
(6)バイエルン革命とその挫折 ページ123
(7)ワイマール共和国の保守的転回 ページ124

十九 オーストリア革命

(1)概観 ページ125
(2)オーストリア社労党の独自路線 ページ126
(3)多民族帝国の解体 ページ127
(4)ドイツ‐オーストリア臨時政府の展開 ページ128
(5)革命の挫折と革新的ウィーン市政 ページ129

十九ノ二 ハンガリー革命

(1)概観 ページ130
(2)独立革命:アスター革命 ページ131
(3)ハンガリー共産党とソヴィエト革命 ページ132
(4)ソヴィエト共和国の挫折と反革命 ページ133

二十 エジプト独立‐立憲革命

(1)概観 ページ135
(2)ウラービ運動とその挫折 ページ136
(3)ナショナリズムの再興まで ページ137
(4)第一次世界大戦から独立革命へ ページ138
(5)1923年憲法と立憲君主制の展開 ページ139

二十一 トルコ共和革命

(1)概観 ページ140
(2)大戦参加と「統一と進歩」政権の瓦解 ページ141
(3)大国民会議の創設と解放戦争の始まり ページ142
(4)解放戦争から革命へ ページ143
(5)世俗的共和国の創出 ページ144
(6)共和体制の限界とその後 ページ145

中間総括Ⅰ:第一次世界大戦と革命 ページ146

二十二 タイ立憲革命

(1)概観 ページ147
(2)近代的エリート階級の成長と人民団の結成 ページ148
(3)人民団の決起と新政府 ページ149
(4)打ち続く権力闘争 ページ150
(5)武官派の優位と疑似ファシズムへの転化 ページ151

二十三 チリ社会主義革命

(1)概観 ページ152
(2)大恐慌とチリの社会経済危機 ページ153
(3)社会主義者の軍民連合 ページ154
(4)「百日社会主義共和国」の施策と内紛 ページ155
(5)早まった革命の瓦解と事後的結党 ページ156

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(1)概観 ページ156a‐1 
(2)チャコ戦争と社会変動 ページ156a‐2
(3)軍民連合革命への転回 ページ157a‐3
(4)「軍事社会主義」とその自壊 ページ157a‐4
(5)パラグアイ二月革命との対比 ページ157a‐5

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(1)概観 ページ157
(2)人民戦線とアナーキズムの台頭 ページ158
(3)革命の展開過程 ページ159
(4)革命統治の構造 ページ160
(5)革命的施策の展開 ページ161
(6)人民戦線政府による革命回収措置 ページ162
(7)内戦の内外力学 ページ163
(8)共和派の敗北とファシズム体制の確立 ページ164

二十六 グアテマラ民主化革命

(1)概観 ページ165
(2)ファシズム体制の成立と抵抗運動 ページ166
(3)民衆蜂起から軍民連合革命へ ページ167
(4)革新民政の樹立 ページ168
(5)反革命クーデターから「30年軍政」へ ページ169

二十七 コスタリカ常備軍廃止革命

(1)概観 ページ170
(2)革命への急転回 ページ171
(3)カリブ軍団の結成と活動 ページ172
(4)革命‐内戦と平和福祉国家の建設 ページ173

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(1)概観 ページ174
(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命
   〈2‐1〉パルティザンの結成 ページ175
   〈2‐2〉パルティザンの政治組織化と解放 ページ176
   〈2‐3〉ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国 ページ177
   〈2‐4〉自主管理社会主義への道 ページ178
(3)アルバニア・レジスタンス革命
   〈3‐1〉レジスタンス組織の結成 ページ179
   〈3‐2〉レジスタンスの曲折と勝利 ページ180
   〈3‐3〉社会主義体制の樹立と鎖国化 ページ181
(4)ギリシャ・レジスタンス革命
   〈4‐1〉レジスタンス組織の結成 ページ182
   〈4‐2〉革命政府の樹立と戦後構想 ページ183
   〈4‐3〉内戦激化への過程 ページ184
   〈4‐4〉内戦終結と革命の挫折 ページ185

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(1)概観 ページ185a‐1
(2)独立運動と共産主義運動の交錯 ページ185a‐2
(3)独立同盟の結成と八月革命の成功 ページ185a‐3
(4)第一次インドシナ戦争から分断国家へ ページ185a‐4
(5)ラオス独立革命との交差 ページ185a‐5

三十 中国大陸革命

(1)概観 ページ186
(2)革命根拠地の建設 ページ187
(3)抗日レジスタンスの展開 ページ188
(4)解放から内戦へ ページ189
(5)共産党の勝利と人民共和国の樹立 ページ190
(6)最初期革命政権の展開 ページ191
(7)共産党支配体制の確立と揺らぎ ページ192
(8)革命の余波 ページ193

三十一 インドネシア独立革命

(1)概観 ページ194
(2)日本軍政と民族主義の解放 ページ195
(3)独立宣言から独立戦争へ ページ196
(4)独立革命の諸相 ページ197
(5)「指導された民主主義」への道 ページ198

中間総括Ⅱ:第二次世界大戦と革命 ページ199

コメント

近代革命の社会力学・総目次Ⅲ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(1)概観 ページ199a‐1
(2)ラナ家専制支配体制と近代ネパール ページ199a‐2
(3)インド独立運動の脱革命的性格 ページ199a‐3
(4)反専制運動の始動 ページ199a‐4
(5)立憲革命への展開と反革命 ページ199a‐5
   〈5‐1〉立憲革命の力学
   〈5‐2〉反革命と専制王制の復活
(6)共産主義運動の台頭 ページ199a‐6 

三十二 エジプト共和革命

(1)概観 ページ200
(2)第一次中東戦争と自由将校団の台頭 ページ201
(3)反英蜂起から共和革命へ ページ202
(4)革命政権の展開~スエズ危機まで ページ203
(5)スエズ危機の超克とアラブ社会主義の潮流 ページ204
(6)革命の余波 ページ205

三十三 アルジェリア独立革命

(1)概観 ページ206
(2)植民地アルジェリアの支配構造 ページ207
(3)民族解放戦線の結成と独立宣言 ページ208
(4)独立戦争の展開Ⅰ~1958年まで ページ209
(5)独立戦争の展開Ⅱ~終結まで ページ210
(6)独立と初期政権 ページ211
(7)二次革命と社会主義体制の確立 ページ212

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(1)概観 ページ213
(2)スターリン主義国家の成立 ページ214
(3)脱スターリン化と政治混乱 ページ215
(4)民衆蜂起の革命化と挫折 ページ216
(5)限定的自由化への収斂 ページ217

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(1)概観 ページ218
(2)国民革命運動の台頭 ページ219
(3)選挙結果回復闘争から革命的蜂起へ ページ220
(4)革命前期:1952年‐56年 ページ221
(5)革命中/後期:1956年~60年~64年 ページ222

三十六 キューバ社会主義革命

(1)概観 ページ223
(2)バティスタ独裁への軌跡 ページ224
(3)青年革命運動の形成 ページ225
(4)冒険的革命蜂起―失敗から成功へ ページ226
(5)最初期革命政権の展開 ページ227
(6)反米親ソ化からソ連型社会主義体制へ ページ228
(7)革命の余波 ページ229

三十七 韓国民主化革命

(1)概観 ページ230
(2)朝鮮半島分断と二つの独裁体制 ページ231
(3)学生革命への力学 ページ232
(4)第二共和国とその挫折 ページ233

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(1)概観 ページ234
(2)ルワンダ革命/ブルンディ革命
   〈2‐1〉ベルギー領ルアンダ‐ウルンディ ページ235
   〈2‐2〉「フトゥ・パワー」とルワンダ共和革命 ページ236
   〈2‐3〉トゥツィ強硬派とブルンディ革命 ページ237
(3)ザンジバル革命
   〈3‐1〉オマーン系ザンジバルと共和革命 ページ238
   〈3‐2〉タンザニア合邦とアフリカ社会主義 ページ239
(4)ウガンダ革命
   〈4‐1〉君主制内包共和国の独異性 ページ240
   〈4‐2〉社会主義革命とその挫折 ページ241

三十九 アラブ連続社会主義革命

(1)概観 ページ242
(2)チュニジア革命
   〈2‐1〉独立から共和革命へ ページ243
   〈2‐2〉社会主義への転化と撤回 ページ244
(3)イラク革命
   〈3‐1〉親英イラク王国と自由将校団の結成 ページ255
   〈3‐2〉共和革命と最初期革命政権 ページ256
   〈3‐3〉革命三派の抗争とバアス党の台頭 ページ257
(4)南北イエメン革命
   〈4‐1〉南北イエメンの分断 ページ258
   〈4‐2〉北イエメンにおける近代化の遅滞 ページ259   
   〈4‐3〉北イエメン革命と長期内戦 ページ260
   〈4‐4〉北イエメンにおける第二次革命 ページ261
   〈4‐5〉南イエメン独立革命 ページ262
   〈4‐6〉南イエメン一党支配体制への進展 ページ263
(5)スーダン革命
   〈5‐1〉独立から1964年民衆革命へ ページ264
   〈5‐2〉自由将校団革命から反革命的転回まで ページ265
(6)リビア革命
   〈6‐1〉独立から自由将校団革命まで ページ266
   〈6‐2〉直接民主制理論と個人崇拝政治の乖離 ページ267

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(1)概観 ページ268
(2)シリア独立とバアス党の台頭 ページ269
(3)バアス党の軍内党派化 ページ270
(4)シリアの1963年3月8日革命 ページ271
(5)イラクの1968年7月17日革命 ページ272
(6)シリアにおける革命の「矯正」 ページ273
(7)イラクにおける革命の横領 ページ274

四十 中国文化大革命

(1)概観 ページ275
(2)文化大革命の開始時と経緯 ページ275
(3)紅衛兵運動と革命委員会 ページ276
(4)文化大革命の転回 ページ277

四十一 バングラデシュ独立革命

(1)概観 ページ278
(2)東西パキスタンの離隔と格差 ページ279
(3)総選挙から独立革命への急進 ページ280
(4)独立の達成と混迷 ページ281

四十二 タイ民主化革命

(1)概観 ページ282
(2)反共ファシズム体制の破綻 ページ283
(3)憲法要求運動から革命へ ページ284
(4)革命の挫折と半民主化 ページ285

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(1)概観 ページ286
(2)コンゴ革命 ページ287
(3)ソマリア革命 ページ288
(4)ダオメ=ベナン革命 ページ289
(5)マダガスカル革命 ページ289
(6)コモロ革命 ページ299
(7)セーシェル革命 ページ300

四十四 エチオピア社会主義革命

(1)概観 ページ301
(2)帝政晩期のエチオピア社会 ページ302
(3)民衆騒乱から軍事革命の始動まで ページ303
(4)臨時軍政評議会の成立と初動 ページ304
(5)廃皇帝「処刑」から権力闘争へ ページ305
(6)「赤色内戦」から独裁権力の確立まで ページ306
(7)オガデン戦争:ねじれた干渉戦 ページ307
(8)一党支配体制の後発的樹立と大飢饉 ページ308

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(1)概観 ページ309
(2)独立運動組織の結成から蜂起まで ページ310
(3)ゲリラ戦と解放区の統治 ページ311
(4)独立の達成とその後 ページ312

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(1)概観 ページ313
(2)ファシズム体制の遷延と限界 ページ314
(3)植民地戦争と国軍運動の形成 ページ315
(4)革命と救国評議会の樹立 ページ316
(5)革命の急進化局面と自壊 ページ317
(6)革命の中和化から収束へ ページ318

四十七 インドシナ三国同時革命

(1)概観 ページ319
(2)同時革命の動因:第二次インドシナ戦争 ページ320
(3)ベトナム統一社会主義革命
   〈3‐1〉南ベトナム解放組織の結成と展開 ページ321
   〈3‐2〉戦勝と統一革命 ページ322
(4)ラオス社会主義革命
   〈4‐1〉 内乱とベトナム戦争の連動 ページ323
   〈4‐2〉 第三次連合政権の瓦解と革命 ページ324
(5) カンボジア社会主義革命
   〈5‐1〉半王政‐半社会主義の60年代 ページ325
   〈5‐2〉右派クーデターから内戦へ ページ326
   〈5‐3〉革命と狂信化 ページ327
(6)三国同時革命の「その後」 ページ328

四十八 バヌアツ独立革命

(1)概観 ページ329
(2)言語分割と独立運動の混迷 ページ330
(3)英語圏勢力による革命 ページ331
(4)メラネシア社会主義の展開 ページ332

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(1)概観 ページ333
(2)近代化改革とその限界 ページ334
(3)人民民主党の結党と分党 ページ335
(4)1973年共和革命 ページ336
(5)1978年社会主義革命 ページ337
(6)権力闘争とソ連の軍事介入 ページ338
(7)長期内戦から体制崩壊へ ページ339
(8)革命挫折の余波 ページ340

五十 イラン・イスラーム共和革命

(1)概観 ページ341
(2)パフラヴィ―朝と「白色革命」 ページ342
(3)革命運動の隆起 ページ343
(4)共和革命への力学 ページ344
(5)女性の動静 ページ344a
(6)共和革命の成功 ページ345
(7)イスラーム共和制の樹立まで ページ346
(8)干渉戦争とファッショ化 ページ347
(9)軌道修正から半民主化へ ページ348
(10)革命の余波 ページ349

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(1)概観 ページ350
(2)独立と独裁 ページ351
(3)人民革命政府の樹立と展開 ページ352
(4)アメリカの侵攻と革命の挫折 ページ353

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(1)概観 ページ354
(2)ソモサ一族独裁と抵抗運動 ページ355
(3)革命までの過程 ページ356
(4)革命政権の展開と反革命運動の始動 ページ357
(5)革命の民主的終了とその後 ページ358

中間総括Ⅲ:東西冷戦と革命 ページ359

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(1)概観 ページ360
(2)ライベリア革命
   〈2‐1〉解放奴隷支配体制の動揺 ページ361
   〈2‐2〉下士官革命から内戦へ ページ362
(3)ガーナ革命 ページ363
(4)ブルキナファソ革命 ページ364
(5)ウガンダ革命
   〈5‐1〉混迷と救国革命運動の隆起 ページ365
   〈5‐2〉非政党民主主義とその変節 ページ366

五十四 ハイチ民衆革命

(1)概観 ページ367
(2)デュヴァリエ世襲体制の弱体化 ページ368
(3)民衆蜂起と外圧 ページ369
(4)革命の収束と収束しない混迷 ページ370

五十五 フィリピン民衆革命

(1)概観 ページ371
(2)寡頭民主制から開発独裁制へ ページ372
(3)開発独裁体制の腐食と揺らぎ ページ373
(4)不正選挙と民衆蜂起、軍の離反 ページ374
(5)続く政情不安と残存課題 ページ375

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近代革命の社会力学・総目次Ⅳ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(1)概観 ページ376
(2)ポーランド「円卓会議」と平和的体制移行 ページ376
(3)ハンガリーの党内政変と国境開放 ページ377
(4)東ドイツ解体革命
   〈4‐1〉教条主義体制と「ベルリンの壁」 ページ378
   〈4‐2〉革命への蠕動 ページ379
   〈4‐3〉抗議行動の拡大と党内政変 ページ380
   〈4‐4〉「ベルリンの壁」打壊から東ドイツ解体へ ページ381
(5)チェコ/スロヴァキア分立革命
   〈5‐1〉「プラハの春」の残響 ページ382
   〈5‐2〉学生・知識人決起から体制崩壊へ ページ383
   〈5‐3〉チェコとスロヴァキアの分離 ページ384
(6)ブルガリア革命
   〈6‐1〉長期指導部とトルコ系迫害政策 ページ385
   〈6‐2〉環境市民運動から革命へ ページ386
(7)ルーマニア革命
   〈7‐1〉一族独裁体制の確立 ページ387
   〈7‐2〉経済的下部構造の揺らぎ ページ388
   〈7‐3〉革命勃発から大統領夫妻処刑への力学 ページ389
   〈7‐4〉救国戦線政府の権威主義化と分裂 ページ390
(8)アルバニア革命
   〈8‐1〉独裁者の死と限定改革 ページ391
   〈8‐2〉学生・労働者蜂起から遅発の革命へ ページ392
(9)モンゴル革命
   〈9‐1〉ソ連衛星国体制と体制内改革 ページ393
   〈9‐2〉草原の国の無血革命力学 ページ394
(10)革命の帰結 ページ395
(11)革命の余波 ページ396

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(1)概観 ページ397
(2)体制内改革の限界 ページ398
(3)バルト三国独立革命 
   〈3‐1〉ペレストロイカと蠕動 ページ399
   〈3‐2〉三国独立運動の始動
   〈3‐3〉三国同時革命への展開 ページ400
   〈3‐4〉連邦の反革命介入とその失敗 
(4)新連合条約と保守派クーデター
   〈4‐1〉新連合条約の起草と国民投票 ページ401
   〈4‐2〉共産党保守派クーデターと民衆の抵抗 ページ402
(5)ソ連邦解体への急進 ページ403
(6)革命の余波①:対内的 ページ404
(7)チェチェン独立革命とその挫折 ページ405
(8)革命の余波②:国際的 ページ406
(9)革命の帰結 ページ407
   〈9‐1〉独裁制と独占資本の出現 
   〈9‐2〉ロシアの社会再編 

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(1)概観 ページ408
(2)エチオピア救国/エリトリア独立革命
   〈2‐1〉多民族糾合革命 ページ409
   〈2‐2〉エリトリアの独立
(3)ソマリア救国未完革命 ページ410
(4)ルワンダ救国革命 ページ411
(5)ザイール=コンゴ救国革命 ページ412
   〈5‐1〉反共独裁体制の破綻 
   〈5‐2〉地政学的革命と新たな内戦 

五十九 ネパール民主化革命

(1)概観 ページ413
(2)立憲専制君主制と抵抗運動の閉塞 ページ414
(3)革命運動の始動と展開 ページ415
   〈3‐1〉政党決起の初動的失敗 
   〈3‐2〉民衆蜂起への急転
(4)共産党の統合化と毛沢東主義派の台頭 ページ416

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(1)概観 ページ417
(2)メキシコ革命理念の後退 ページ418
(3)非政党型革命組織と武装組織 ページ419
(4)サパティスタ自治域の樹立 ページ420
   〈4‐1〉樹立までの経緯
   〈4‐2〉自治の構造
(5)革命の反響と展望 ページ421

六十一 インドネシア民衆革命

(1)概観 ページ422
(2)アジア通貨危機とスハルト体制の動揺 ページ423
(3)民衆蜂起から半革命へ ページ424
(4)翼賛体制の終焉と残存課題 ページ425
(5)革命の余波‐東ティモール独立 ページ426

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(1)概観 ページ427
(2)セルビア革命
   〈2‐1〉新ユーゴスラヴィアの成立とコソヴォ紛争 ページ427
   〈2‐2〉民衆革命への力学 ページ428
   〈2‐3〉革命の不純化‐アメリカの操作的関与 ページ429
(3)グルジア革命
   〈3‐1〉構造汚職と政情不安 ページ430
   〈3‐2〉民衆革命への力学 ページ429
(4)ウクライナ未遂革命
   〈4‐1〉独立から地政学的分断へ ページ430
   〈4‐2〉未遂革命と親欧派政権の誕生 ページ431
(5)キルギス革命 ページ432
(6)諸革命の「その後」 ページ433
(7)諸革命の余波 ページ434

六十三 レバノン自立化革命

(1)概観 ページ444
(2)宗派内戦からシリアの支配へ ページ445
(3)民衆革命への力学 ページ446
(4)限定的な成果と続く外国の干渉 ページ447

六十四 ネパール共和革命

(1)概観 ページ448
(2)内戦から復刻専制君主制へ ページ449
(3)共和革命への力学 ページ450
(4)マデシ地方自治闘争の並行 ページ451
(5)毛派主導政権の成立とその後 ページ452

六十五 キルギス民主化革命

(1)概観 ページ453
(2)縁故独裁の再現前化と革命への急転 ページ454
(3)革命政権の樹立と展開 ページ455
(4)地域間/民族紛争の惹起 ページ456

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(1)概観 ページ456
(2)アラブ社会主義体制の転向あるいは変質 ページ457
(3)チュニジア革命
   〈3‐1〉ポスト・ブルギバ改革の限界 ページ458
   〈3‐2〉民衆革命への急転 ページ459
   〈3‐3〉革命の中和的収斂
(4)エジプト革命
   〈4‐1〉ムバーラク体制の安定と閉塞 ページ460
   〈4‐2〉チュニジア民衆革命の波及 ページ461
   〈4‐3〉軍の政権掌握から民政移管まで
(5)イエメン革命
   〈5‐1〉統一イエメンと選挙制独裁 ページ462
   〈5‐2〉緩慢な革命過程 ページ463
   〈5‐3〉南北再分裂と持続的内戦への転化
(6)リビア革命
   〈6‐1〉「無職者」独裁体制の特異性 ページ464
   〈6‐2〉政治経済「改革」とその挫折
   〈6‐3〉民衆蜂起から内戦・干渉戦へ ページ465
   〈6‐4〉ガダーフィ惨殺と国家の分解 ページ466
(7)シリア(未遂)革命
   〈7‐1〉権力世襲と体制内改革の挫折 ページ467
   〈7‐2〉民衆蜂起の開始と展開 ページ468
   〈7‐3〉革命組織・自由シリア軍の結成と展開 ぺージ469
   〈7‐4〉革命勢力の多岐分裂と革命の挫折 ページ470
(8)モロッコ半革命 ページ471
(9)革命の余波 ページ472
(10)イスラーム主義の伸長 ぺージ473
(11)革命の総体的挫折:アラブの冬 ページ474

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(1)概観 ページ475
(2)クルド人勢力の糾合と決起 ページ476
(3)革命自治体制の樹立と地政学的展開 ページ477
(4)革命自治体制の制度と政策 ページ478
   〈4‐1〉民主的連合主義
   〈4‐2〉協同経済体制
   〈4‐3〉女性科学理論と実践

六十七 ウクライナ自立化革命

(1)概観 ページ479
(2)親欧政権の分裂と親露政権への交代 ページ480
(3)親露政権の抑圧と対露従属化 ページ481
(4)民衆革命への急転と革命の中和 ページ482
(5)革命の帰結 ページ483

暫定結語

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近代革命の社会力学(連載追補8)

2022-12-26 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(5)女性の動静
 イスラーム主義をイデオロギー的基調とするイラン共和革命の大きな特徴として、多様な階級からの女性の参加が見られたことがある。このことは、イスラーム主義は女性の政治参加に否定的と認識されている通念に反する特徴である。
 その点で、イラン共和革命は「ジェンダー革命」と評されることもあるが、実のところ、イランでは20世紀初頭の立憲革命にも女性の参加が見られ、革命を契機に女性の権利の拡大が進んでいた。
 こうした流れは共和革命で打倒されたパフラヴィ―朝主導の近代化改革にも引き継がれ、1966年にはイラン女性運動のセンターとなるイラン女性機構(以下、女性機構)が設立され、70年代にはファラ・パフラヴィ皇后自ら穏健なフェミニストとして女性の権利の擁護に立った。
 そうした積み重ねの上に1979年の共和革命を迎えるのであったが、その点では、革命の絶対的とも言える指導者であったホメイニが女性の革命への参加を積極的に呼びかけたことも、ジェンダー革命を促進する動因となった。
 もっとも、こうしたホメイニの好意的な言動が革命を全社会化するためのレトリックだったのか、真に女性の政治参加を促進する意図に基づいていたかの評価は分かれ得るが、ともかくも、1979年革命では女性は革命運動に座を占め、デモに参加した。
 特に子連れの母親デモはパフラヴィー朝による革命の武力鎮圧を躊躇させる効果を持ち、革命を成功させる力学的な要因となったほか、家庭で夫を説得して革命に参加させることで革命過程を促進する触媒としての女性の役割には大きなものがあった。
 また、反パフラヴィー朝運動家で、イスラーム主義者としてホメイニ側近に名を連ねたマルジエ・ハディッチのように、革命体制のインサイダーとして活動する女性革命家の存在もあった。
 とはいえ、革命における女性の役割は非組織的であり、フェミニストの間でもイスラーム主義に対する態度は分かれ、思想的な統一は見られず、女性の参加はあくまでも民衆革命の下支えにとどまったとも言える。
 事実、いざ革命が成功すると、ホメイニ体制は厳格なイスラーム主義の教義に基づき、女性のヒジャブ着用義務のほか、一夫多妻制の奨励、パフラヴィー朝時代の近代的な離婚法の廃止などの復古的な政策を打ち出していった。
 一方で、革命体制は女性を政治的に排除することはせず、如上ハディッチは革命後の1987年に創設された一種の女性政治団体イスラーム共和国女性協会(以下、女性協会)の総裁となり、これにはホメイニの長女で哲学博士号を持つザーラも事務総長として参加するなど、イラン革命のジェンダー革命としての性格は維持されている。
 もっとも、革命後、イスラーム主義と相反する女性機構は解散したうえ、イスラーム主義の枠内での女性権利擁護を目指し、ヒジャブの着用を支持する女性協会も国会にほとんど議席を得られないなど、革命後の女性の政治的地位は閉塞している。
 他方で、医療や教育分野をはじめとする職場における女性の参加は革命後に飛躍的に増加しており、1979年共和革命のジェンダー革命としての成果は両義的であり、イラン女性は次なる革命の潜勢力となり得る条件を保持していると言える。

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近代科学の政治経済史(連載第37回)

2022-12-23 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

交通工学と軍事工学の交錯
 ナチス科学の中でも評価が高く、今日でもその成果が継承されているのは工学分野であるが、とりわけ車両製造に関わる自動車工学や鉄道工学を含めた広義の交通工学分野である。
 ただ、ナチスにとっての交通工学はロシアをも視野に収めた欧州征服によるゲルマン帝国の建設という軍事的野望の達成と密接に関連しており、民生増進のための単なる科学技術政策の手段ではなく、軍事工学との境界線が曖昧で、両者交錯していたことを特徴とする。
 特に注力されたのは、高性能自動車の開発と自動車の普及であった。ナチス政権は最初期の1933年に早くもオーストリア生まれの自動車工学者・技術者フェルディナント・ポルシェに高性能の小型大衆車の設計を依頼、ポルシェを支援してフォルクスヴァーゲン・タイプ1の開発と量産を成功させている。
 こうした大衆車製造の中核として、ナチス政権が国策会社として設立したのが、その名も「大衆車」を意味するフォルクスヴァーゲンを冠したフォルクスヴァ―ゲン社であった。同社はナチス体制崩壊後も解体されず生き延び、現在の多国籍企業フォルクスワーゲンとして継続している。
 こうした大衆車開発と同時に、ナチスは自動車の高速化にも注力し、同じくポルシェの設計でアウトウニオン社が開発したカーレース専用車アウトウニオン・レーシングカーも開発、カーレーサーのベルント・ローゼマイヤーを擁して、カーレースの振興も図った。
 さらに、高速化した自動車が走行する自動車専用道路網として、ナチス台頭前のワイマール共和国時代から構想のあったいわゆるアウトバーンの建設計画を本格化させ、ナチ党員の土木技術者フリッツ・トートを建設総監に任命、第二次大戦開戦時までに3000キロを超える道路網の建設に成功した。
 一方、アウトバーンの鉄道版とも言える高速鉄道網ブライトシュプールバーンも計画されるが、こちらは第二次大戦開戦後の軍事目的が濃厚で、実際、この計画は征服地域の開発と密接に関連していた。それだけに、大戦の進行と戦局の悪化に伴い、未完に終わった。

ナチス軍事科学の「成果」
 前節冒頭で記したように、ナチス交通工学は当初から帝国を築くための軍事目的を濃厚に含んでいたため、戦争開始とともに、フォルクスヴァ―ゲン社やその他のドイツ自動車メーカー各社も軍用車両を開発・製造する軍需資本に転換され、工場では強制収容所のユダヤ囚人を動員した死の強制労働が行われた。
 そうした民生工学と軍事工学とをつなぐ接点となったのが、如上トートが創設したいわゆるトート機関であった。同機関は大戦前の1938年に設立されたが、開戦とともに軍需に比重が置かれ、ジークフリート線や大西洋の壁等の軍事的な防衛線や潜水艦基地などの軍事構造物の構築を指揮監督した。
 しかし、トートは科学技術者としての合理的な判断に基づき、リソースに限界のあるドイツが英米ソとの総力戦に敗北することを予見し、講和を提言していたが、所詮は技術屋で党内発言力の弱いトートの提言は無視され、失意の中、1942年の航空機事故で死亡した。
 ナチス軍事科学は、軍事科学プロパーの分野でも、陸海空軍それぞれに投入される高性能の兵器を生み出したが、中でも特筆すべきは、今日の巡航型、弾道型双方のミサイルの祖型を成すミサイル兵器の開発である。
 巡航ミサイルの祖型となるV1ミサイルはドイツ空軍が開発したもので、パルスジェットエンジンを搭載した簡素な構造を持つ低コストの飛行爆弾であり(機能的には現代の無人爆撃機の祖とも言える)、いまだ精密誘導は困難ながら、対敵報復兵器としては機能した。
 一方、V2はドイツ陸軍が開発した液体燃料による世界初の弾道型ロケットミサイルであり、その開発功労者はロケット工学者のヴェルナー・フォン・ブラウンとその先駆者でブラウンが助手を務めたヘルマン・オーベルトであった。
 オーベルトはナチス政権成立前から液体燃料ロケット開発の第一人者であったが、兵器として完成させたのは陸軍の支援を受けたブラウンと、陸軍兵器局で開発責任者を務めたロケット技術者ヴァルター・ドルンベルガーらのチームであった。
 ブランンやドルンベルガーらドイツのロケット工学者・技術者は戦後、戦犯に問われることなく、彼らの知見の流用を企図していたアメリカへの出国が許され、多くはアメリカに定住してアメリカの航空宇宙開発に寄与している。こうして、ナチス軍事科学の「成果」は、戦後、敵国によって再利用されることとなった。

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近代科学の政治経済史(連載第36回)

2022-12-21 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

極限的優生学と大量「安楽死」作戦
 人種学と並ぶナチス科学のもう一つの柱は、優生学であった。以前の稿でも見たように、優生学は20世紀前半に多くの国で風靡し、障碍者の強制不妊政策として体現されていたから、優生学自体はナチス科学の専売特許ではない。
 ナチスにおける優生学の特質は、通常優生学における強制不妊の対象とされる障碍者を超えて、遺伝病患者、アルコール依存症者や性犯罪者にまで広く対象範囲を拡大したこと、さらには将来誕生する子どもを絶つ断種にとどまらず、「生きるに値しない」と烙印を押された現に生存している障碍者等の強制安楽死(=殺戮)にまで及んだ手段の非人道性にあった。
 その点、「生きるに値しない」という価値規準に立っての優生学はナチスの専売特許ではなく、ナチス政権成立以前からドイツ医学界に登場しており、1920年には精神医学者アルフレート・ホッヘが刑法学者カール・ビンディングとの共著『生きるに値しない生命を終わらせる行為の解禁』で、重度精神障碍者などの安楽死政策を提起していた。
 この著作はナチスの強制安楽死政策に直接的な影響を与えたと見られているが、このような過激な優生学説は学界では少数説であり、多くの優生学者は断種措置で必要充分、強制安楽死は無用な非人道的手段とみなしていた。
 しかし、「生きるに値しない者」の安楽死という構想は、ナチス人種学に由来する「民族の純血性」の保証というイデオロギーにも合致したため、ナチスは障碍者等に対する強制安楽死政策に向かうこととなった。
 それに先立ち、ナチス政権は初期の1933年に強制断種の対象範囲を大幅に拡大する遺伝病子孫防止法を制定していたが、政権中期の1939年からは公式に強制安楽死作戦を開始する。
 このいわゆるT4作戦は1939年から41年にかけて大々的に実施されたが、作戦が公式に終了した後も、精神病院や強制収容所を中心に、現場の医師レベルの判断により、非公式の「安楽死」が継続された(いわゆる野生化した安楽死)。
 その対象範囲は圧倒的に精神障碍者に集中しているが、児童も一部含まれたほか、「野生化した安楽死」の時期には、労働に適しない反社会分子にまで拡大されていった。こうして拡大化された極限的優生学は、ナチスによる優生学の政治利用の極限を示している。

死の医学と人体実験
 ナチス極限的優生学は、医学の観点から見れば、人を生かすのではなく、反対に死なせる「死の医学」ととらえることができるが、ナチスの「死の医学」は極限的優生学に限らず、非人道的な数々の人体実験の実施という形でも発現した。
 そうした「死の医学」を象徴する医学者・医師は、戦後、ニュルンベルク継続裁判の一環として実施された「医師裁判」で裁かれた23人(ただし、一部は実務担当の親衛隊将校)が代表している。
 ナチスの人体実験は強制収容所の収容者を対象に事前の同意なくして行われたもので、内容も多岐に及ぶが、中でも中心人物でありながら逃亡したため起訴を免れたヨーゼフ・メンゲレ(南米に逃亡・長期潜伏中に病死)による双生児への人体実験が悪名高い。
 メンゲレは、アウシュヴィッツ絶滅収容所の双生児1500人を対象に、双生児を人工的に抱合して結合双生児を作製するなどの奇矯で非人道的な人体実験を行ったほか、収容所の絶滅対象者の選別にも関わったことから、「死の天使」の異名を取った。
 ちなみに、メンゲレの恩師であるオトマー・フォン・フェアシューアは代表的な優生学者として、遺伝生物学・人種衛生学研究所所長やカイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所所長を歴任し、特に断種政策における対象者選別の実務にも積極的に協力した。
 また、血液検査によるユダヤ人の判定という奇矯な研究にも着手し、弟子のメンゲレを通じて収容所のユダヤ人の血液標本を取り寄せるなど、人体実験にも間接的に関わっていたが、フェアシューアはそうした関与を隠して戦後の起訴を免れ、遺伝学者として生き延びた。
 こうしたナチス「死の医学」は医学の政治的悪用事例の一つであり、ナチス科学における科学と政治の混淆を体現するものでもあった。メンゲレを含め、関与した多くの者がナチス親衛隊員であったことも首肯できるところである。

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近代科学の政治経済史(連載第35回)

2022-12-19 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

疑似科学としてのナチス人種学
 ナチスのイデオロギーの中核はいわゆるアーリア人種優越思想であるが、それは総帥ヒトラーの自伝にしてナチスの宣伝書もある『我が闘争』でも展開されている。しかし、ヒトラー自身は科学者ではないから、科学学説としての展開ではない。
 ナチス人種学におけるアカデミックな主導者は、ナチ党員で「人種学教皇」の異名を取ったハンス・ギュンターであった。ギュンター本来の専攻は比較言語学であり、科学者としては独学に近い人物であったが、専攻を転じて生物学・人種学の教授となった。
 ギュンター本来の専攻であった比較言語学においては、19世紀に共通祖語が再構されたインド‐ヨーロッパ語族(印欧語族)として包括される民族集団をアーリア人と同定することが通説化してきたことに触発され、専攻を転じた可能性はある。
 ただし、ナチス人種学におけるアーリア人は、インド人やイラン人等まで広く包摂される比較言語学上のアーリア人とは範囲を異にしており、ヨーロッパ人(白色人種)の中でも特に金髪・長頭・碧眼を形質的特徴とするとされる北方人種に限局されていた。
 ナチス人種学はそうした人種分類のみにととまらず、アーリア人種を最上位の優越人種とみなしつつ、それ以外の人種を劣等的とみなす徹底した人種階層化を行ったことに特徴がある。その点で、これは科学的な人類学ではなく、政治色を帯びた特異な人種学であった。その意味で、科学の衣をまとった疑似科学である。
 このような疑似科学としての人種分類学の源流としての人種理論は近代科学が創始された17世紀頃から西欧・北米社会に普及しており、少なからぬ科学者が主唱することもあったため、DNA解析に基づく人類遺伝学が確立されるまでは、科学と疑似科学の境界線上にある領域であった。
 とはいえ、明確な人種優劣評価を伴う疑似科学的な人種学=アーリアン学説はナチスが台頭した1920年代から30年代にかけての西欧、特にドイツで隆盛化しており、そうした時流を巧みに政治利用したのがナチスであったとも言える。
 実際、アーリアン学説を展開した論者の大半は、如上ギュンターをはじめ、真の意味での科学者ではなく、むしろ人文系の学者・知識人たちであった。その19世紀における先駆者と見られるのが、フランスの文学者・外交官アルテュール・ド・ゴビノーである。
 ゴビノーは主著『諸人種の不平等』で、アーリア優越主義を最初に説いた人物と目されているが、この著書は科学書というよりは文明書であり、ユダヤ人に関しては、むしろ優越人種の一種とみなし、文明推進者として称賛していた点で、ナチス人種学の直接的源流とはみなし難い。
 ユダヤ人を文明破壊者と指弾する強硬な反ユダヤ主義と対になる形でアーリア人種優越思想を核心とするナチス人種学は、当時のドイツに渦巻いていた反ユダヤ主義の風潮をも併せ利用する形で、ナチスが独自に形成したものと言えるだろう。
 ナチスは、こうしたアーリア優越主義‐反ユダヤ主義のイデオロギーに基づき、ユダヤ人の計画的殺戮(ホロコースト)を断行したのであるが、一方では「純血」アーリア人種を殖やす目的から、未婚アーリア人女性の出産施設レーベンスボルン(生命の泉)も創設したことは、今日あまり知られていない。
 レーベンスボルンではしばしばドイツ占領地域からアーリア人種の条件に合致する子どもを拉致し、アーリア人家庭の養子とする強制養子縁組の仲介も実施されており、まさにナチス人種学の実践施設としての意義を持っていた。
 こうしたアーリア人増殖とユダヤ人絶滅とはナチス人種学実践の車の両輪と言え、レーベンスボロンもアウシュヴィッツに象徴される絶滅収容所もともに、ナチス権力の最大基盤である親衛隊が管理運営したことも必然的であった。

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近代革命の社会力学(連載追補7)

2022-12-18 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(6)共産主義運動の台頭
 ネパールの近現代史で興味深いことは、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、立憲革命→民主化革命→共和革命と三段階に及んだ革命の過程で共産主義運動が台頭し、多岐にわたる分派活動から伸長した毛沢東主義派と政府軍との内戦を経て、最終的な共和革命により毛派が議会政治の枠組み内で政権党にまで至った運動力学である(拙稿)。
 その端緒となったのは、1949年における共産党の結党である。この初期共産党は元来、当時の野党勢力の中心にあったネパール国民会議のプシュパ・ラール・シュレシュタが中心となって創立された。
 シュレシュタの結党動機は国民会議内部の権力闘争や当時のラナ宰相家独裁体制との妥協的な姿勢に幻滅したことにあったと見られるが、初期共産党はインドのカルカッタで結党された小さな亡命政党に過ぎなかった。
 しかし、シュレシュタはマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』やレーニン、毛沢東の基本文献の翻訳紹介を積極的に行い、イデオロギー的な面でネパールに共産主義運動を根付かせる最初の播種の役割を果たした。
 そうした中で、国民会議を中心とした反専制運動が沸騰すると、ネパール共産党は他の左派系諸派と連合して統一民主戦線を結成し、1951年の立憲革命にも参加した。とはいえ、国民会議に比べれば、立憲革命への寄与は限定的であった。
 革命後の新政権にも共産党が参加することはなく、1952年1月に国民会議強硬派のクンワル・インドラジット・シンハが武装蜂起し、共産党を含む挙国一致内閣の成立を要求したことを契機に、共産党も連座して非合法化された。
 その後、1956年、共産党は立憲君主制を容認することで非合法化を解除され、1959年総選挙では初の議席を獲得するも、1960年のマヘンドラ国王による反革命的な非常措置の発動により、他党とともに再び非合法化されるなど、紆余曲折を辿る。
 翌1962年、共産党は復刻した専制王制への対応をめぐって分裂し、多様な指導者に率いられた分派が多数形成されるが、それによって共産主義運動総体が低迷することなく、1990年の民主化革命へ向けて離合集散しながら運動が継続されていくのであった。
 ネパールの共産主義運動はインドの分派的な共産主義運動の影響を多分に受けていたが、建国時から共和制が確立されていたインドの国政レベルでは少数党派の域を出なかったインドの共産党諸派とは異なり、ネパールでは半封建的な専制王制への抵抗において共産主義諸派が総体として重要な位置を占め続けた点で、社会力学に相違があったと言える。

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空中弾道兵器の廃絶こそ

2022-12-15 | 時評

与党が「敵基地反撃能力」の保有を軸とする防衛費の大幅増大策を決めようとしているが、以前の稿でも述べたとおり、「敵基地反撃」は観念論であり、実際にそれを憲法9条の枠内で実行することは不可能である。

辛うじて可能だとすれば、第一撃を受けた後、第二撃以降を阻止するための自衛行動として反撃する場合だけであるが、現代の最新鋭弾道ミサイルなら第一撃が領土内の陸地に命中すればそれだけでも相当な被害を生じることは避けられないうえ、第二撃以降がどこから撃ち込まれるかの予測を瞬時的確に行うことは不可能である。

そこで、そもそも第一撃を受ける以前に先制的自衛行動として「反撃」するならば、これは憲法9条が禁ずる武力行使そのものであるから、紙切れ三通で決められることではなく、正面からの憲法改正を必要とする。

改憲を歴史的宿願とする与党が相変わらず正面から改憲を提起せず、〝解釈改憲〟の手法で9条を空洞化するやり方に固執する理由は定かでないが、「敵基地反撃」はそれを文字通り実行する気なら、もはや〝解釈改憲〟という伝統の術策では対応しきれないこと明らかである。*想定されるのは、例によって同盟主・米国からの手っ取り早い政策転換の要求、あるいは9条改憲にいまだ積極的と言えない連立相方党への配慮である。

こうした事実上の超法規的改憲策動に対する「反撃」も、野党や平和運動の弱体化に伴い、風前の灯火ではあるが、そもそもの問題の発端はミサイルに代表される空中弾道兵器の脅威にある。

空中戦は現代の戦争の軸であり、伝統的な陸戦や海戦以上に民間人の犠牲者を出す非人道的な戦法である。原爆投下はその歴史的最大級の事例であるが、現代戦ではミサイルに核弾頭を載せて飛ばすだけで、敵国に破壊的な打撃を与えることが可能となっている。

核弾頭を搭載していなくとも、高速ミサイル攻撃は地上の市民に避難する時間的余裕を与えないため、被害が拡大されやすいという点で、核兵器に準じるか、少なくともそれに次ぐ非人道的な飛び道具と言える。

こうした非人道的な空中弾道兵器を廃絶することは、核兵器廃絶と同等の意義を持つことである。将来的には全世界における全軍備の廃絶こそが恒久平和の道であるが、さしあたりは核兵器とともに空中弾道兵器の廃絶を求めることこそ、現時点で唯一の被爆国の「責任」である。

敵基地反撃の技術的な方法論とか、まして防衛費増大の財源問題といった与党内のやらせ論争に引きずられて、増税か国債かなどといった矮小な視点に野党がとらわれるならば、それは与党の思う壺であろう。

 

[付記]
与党が国防政策の法的及び財政的な大転換を本気で断行しようとするならば、憲法9条の改正発議を行って国民投票にかけるのが筋であり、今こそ自由民主党の党是である改憲に進む最大の好機となるはずである。その是非を最終的に判断するのは、国民である。

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〈反差別〉練習帳[全訂版]

2022-12-14 | 〆〈反差別〉練習帳

2011年‐12年度に公開しました本連載は、現在、別ブログ『差別克服講座』に全面改訂版(全訂版)を掲載しております。以下は、別ブログ記事へのリンクです。


全訂版まえがき&はじめに 

 ページ1

理論編
一 差別とは何か 

二 差別の要因

 ページ4
 ページ5

三 差別と言葉

四 差別に関する行為類型

 ページ8
 
五 差別と国民国家

六 差別救済のあり方
 
七 差別克服の視座
 ページ11
 
八 差別克服の実践練習
 ページ12
 ページ13
 
実践編
はじめに
 
Ⅰ 外見による差別

 レッスン1 容姿差別
 ページ15
 ページ16
 ページ17
   ページ18
 
 レッスン2 障碍者/病者差別
 ページ19
 ページ20 
 ページ21 
 ページ22 
 
 レッスン3 人種/民族差別
 ページ23
 ページ24
 ページ25
 
Ⅱ 性による差別
 
 レッスン4 性別差別
 ページ26
 ページ27
 ページ28
 ページ29
 
 レッスン5 性自認差別
 
 レッスン6 性的指向差別
 ページ33
 ページ34
 ページ35
 ページ36
 
Ⅲ 能力による差別
 
 レッスン7 知能差別
 ページ37
 ページ38
 ページ39
 
 レッスン8 職業差別
 ページ40
 ページ41
 ページ42
  
 レッスン9 年齢差別
 ページ43
 ページ44
 ページ45
 
Ⅳ 余所者への差別
 
 レッスン10 国籍差別
 
 レッスン11 犯歴差別
 ページ51
 ページ52
 ページ53
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近代科学の政治経済史(連載第34回)

2022-12-14 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

科学者の受難と海外流出
 ナチス科学は学術という以上にそれ自体が政治そのものであったから、ナチスのイデオロギーや政策に反する科学者は排斥されることになった。そのため、ナチス・ドイツ支配下では、多くの科学者がパージされ、あるいは自主的な海外亡命に追い込まれている。
 結果として、ドイツ科学界は相当規模での頭脳流出をも経験することにもなったわけだが、このことは、ナチス科学の政治的な偏向性と相まって、その質にも影響したであろうことは間違いない。
 こうした科学界パージは、ナチス政権によるユダヤ人の公職追放政策の一環として、前回登場したルスト科学・教育・国民教化大臣が主導した。科学界パージの対象となったカテゴリーは、その他の公職追放の場合に準じて、第一にユダヤ人科学者、次いで、反ナチスのドイツ人科学者であった。
 パージか自主亡命かを問わず、ナチス政権下でドイツを離れた科学者の中には、12人のノーベル賞受賞者が含まれていたが、中でも最も著名な科学者はアルベルト・アインシュタインである。
 彼はドイツ生まれのユダヤ人であるが、ナチス政権成立時はドイツに在住しつつもスイス国籍であったので、ドイツとの関わりはプロイセン科学アカデミー会員としての間接的なものであった。
 アインシュタインはナチス政権成立当時は海外滞在中であったが、迫害を恐れてドイツの自宅には帰還せず、第三国経由でアメリカに亡命・帰化し、プロイセン科学アカデミー会員も辞任した。その後、ナチスからは反逆者と認定され、強制家宅捜索を受ける嫌がらせもされている。
 一方、アインシュタインの友人で、第一次大戦中は毒ガス開発に尽力したフリッツ・ハーバーもユダヤ系ドイツ人で、1918年度ノーベル化学賞受賞者であるが、第一次大戦の功績から直接のパージは免れたものの、所長を務めていたカイザーヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所のユダヤ人研究者の削減要求を拒否して、自主亡命を余儀なくされた。
 ハーバーは、第一次大戦時にイギリスでコルダイト火薬原料の生成法を確立したハイム・ヴァイツマンが当時の英領パレスチナに設立した研究所の所長に招聘され、パレスチナに渡航する途上で急死した。
 また、1925年度ノーベル物理学賞受賞者であるジェームス・フランクはユダヤ人の公職追放に抗議し、当時務めていたゲッティンゲン大学教授職からの解雇を自ら要求し、事実上辞職、アメリカへ亡命した。
 原子のエネルギ―が連続的でなく離散的であることを示した「フランク‐ヘルツの実験」でノーベル賞をフランクと共同受賞したグスタフ・ヘルツは当時務めていたシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)教授職を解雇された後、フランクとは対照的に、ジーメンス研究員を経て、ソヴィエト軍の進駐後、ソヴィエトに「招聘」(半連行)された。
 こうしたパージとは別に、抗菌剤の開発で1939年度ノーベル医学・生理学賞を受賞したドイツ人の病理学者・細菌学者ゲルハルト・ドーマクは、当時ナチス政権が反ナチスのジャーナリスト・平和活動家カール・フォン・オシエツキーに1936年度ノーベル平和賞が授与されたことへの対抗措置としてドイツ人のノーベル賞受賞を禁じていたため、ドーマクも受賞辞退に追い込まれた(戦後に受賞)。
 ちなみに、アインシュタインやフランクといった亡命物理学者はアメリカに渡って原子爆弾の開発に従事し、アメリカがドイツに先立って核開発に成功するきっかけを作っており、ドイツからの頭脳流出は戦後の核兵器科学の素地にもつながっている。

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近代科学の政治経済史(連載第33回)

2022-12-12 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学

科学は政治的に中立たるべきであるが、20世紀には科学が政治に吞み込まれる事態がそれ以前の世紀よりも多発する。19世紀末から20世紀前半にかけての科学的な躍進は科学の政治的な利用価値をも高め、野心的な政治家・政治勢力の関心を呼ぶこととなったからである。その結果、20世紀前半期に成立した二つの政治体制下では科学と政治の結びつきが著しく強まったが、その一つはナチス・ドイツが大々的に行った科学の政治的悪用である。ナチスは科学を統制下に置きつつ、そのイデオロギーや政策遂行の手段としても大いに活用し、いくつかの分野では注目すべき成果も上げたため、ここに「ナチス科学」と呼ぶべき政治化された独自の科学世界が出現したと言ってよい。


ナチス科学の成立と概要
 ナチス科学とは特別な科学体系のようなものではなく、ナチスが政治的に利用(悪用)した科学的学説(謬論を含む)や科学的成果(人道犯罪を含む)の集積を包括して言うに過ぎない。
 しかし、ナチスは政権成立の初期から科学を政治的な統制下に置くことに関心を示し、1934年には帝国科学・教育・国民教化省を設置して、科学行政を開始している。この新設官庁は元来プロイセン州の科学・芸術・国民教化省にヒントを得たものであるが、中央省庁として設置するのはナチス・ドイツが初である。
 同省初代大臣となったのは、まさにプロイセン州科学・芸術・国民教化大臣から抜擢されたベルンハルト・ルストであった。ルストは哲学専攻のギムナジウム教師からナチス活動家となった政治家であるが、ナチス体制崩壊に伴い自害した1945年まで一貫して大臣職を務め、まさにナチスの科学及び教育行政の中心にあった人物である。
 教育も所管する立場から、ルストはナチのイデオロギーの基軸であるアーリア人種優越論を内容とする人種学を必修科目とするなど、教育のナチ化も推進した。
 帝国科学・教育・国民教化省には内部部局として科学局が置かれ、科学行政の中心部局を成した。初代局長にはナチ党員の数学者テオドール・ヴァーレンが就いたが、1937年以降は化学者のルドルフ・メンツェルが就き、彼がナチス科学における実質的な司令塔役を担い、後に原子爆弾開発計画にも関わった。
 また1937年には、航空学を除く科学的な基礎/応用研究に関する中央計画を立案する帝国研究評議会が設置され、その実務はメンツェルが担った。
 ただ、評議会の初代会長には軍人で軍事科学者でもあるカール・ベッカーが就いたように、この評議会はナチスが科学研究を軍事利用することを主たる狙いとする機関であり、実際、第二次大戦開戦後の1942年には帝国軍備弾薬省に移管されている。
 こうして、ナチスが科学を政治化していく過程で、ナチ化され、ナチスの政治目的に協力・奉仕する御用科学者の集団が形成され、彼らがナチス科学の中枢を構成した。
 そうしたナチス科学を分野別に分ければ、[Ⅰ]人種学(人類学)[Ⅱ]生物・医薬学(特に優生学)[Ⅲ]物理・工学[Ⅳ]軍事科学の四分野を数えることができる。

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近代革命の社会力学(連載追補6)

2022-12-11 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(5)パラグアイ二月革命との対比
1932年から35年までのボリビアvsパラグアイ間のチャコ戦争は、敗戦国ボリビアのみならず、戦勝国パラグアイでも、戦後の1936年2月に革命事象を引き起こした。
 タイムライン上は、ボリビア第一次社会主義革命(以下、ボリビア革命)より3か月先行しており、このパラグアイ二月革命がボリビアの革命を触発した可能性もある。
 ただし、パラグアイ二月革命(以下、二月革命)は厳密にはクーデターに近いもので、ボリビア革命より短期で挫折しているため、本連載では個別的には取り上げず、ボリビア革命との対比事象として言及する。
 他の南米諸国同様、19世紀初頭にスペインから独立したパラグアイは19世紀前半期には先住民族グアラニー人とスペイン人の通婚奨励政策や土地公有化政策などの独自政策を通じて、南米でも最も安定した国家となっていた。
 しかし、19世紀後半のブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ三国同盟との戦争に敗れた後は、国土の縮小と外国人による土地買占めなどにより、衰退期にあった。
 三国同盟戦争後に愛国的な保守政党コロラド党が結成され、政権政党となるが、1904年に中小地主と中産階級商人を代表する自由党がアルゼンチンから武装蜂起し、短期の内戦に勝利して以後は自由党政権の時代となった。
 自由党支配体制下では、自由主義経済と半封建的な地主制が同居する状況で、農民層は貧困に置かれていた。加えて、党内抗争が絶えず、頻繁な政変と政権交代に見舞われる政情不安が常態化した。
 そうした中で勃発したチャコ戦争に勝利したにもかかわらず、死者4万人を出した戦争によるパラグアイ社会経済の疲弊は甚大で、時のエウゼビオ・アヤラ大統領は指導力の欠如を批判された。
 これに対し、チャコ戦争復員軍人の処遇への不満を背景に、当時中堅・若手将校のリーダーとして台頭していたラファエル・フランコ大佐(当時はアルゼンチンへ追放中)を擁立するクーデターが成功し、自由党支配体制は崩壊した。
 この事象がクーデターでなく革命と称されるのは、フランコ支持者の蜂起には労働者、学生、知識人も加わっていたこと、フランコ政権下で大規模な農地改革(計画では200万ヘクタール農地の再配分)と史上初の労働法の制定などの革命的施策が断行されたことによる。
 しかし、こうした急進的な施策は地主層や中産階級の反発に直面する一方、権利を得た労働者のストライキが頻発がすると、フランコは政党を禁止し、同時代欧州のファシズムに傾斜した法令の制定により独裁化を図った。
 これによって、二月革命はファシズムの色彩を帯びるようになり、支持者離れから法令の撤回を余儀なくされたうえ、ボリビアとの間でなお継続中の講和会議で譲歩したことが軍の不満をも引き起こし、1937年8月のクーデターでフランコは政権を追われた。
 こうして二月革命は1年余りで挫折、以後、パラグアイでは1940年代の親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で、実質的な政権党としてコロラド党が復権する。二月革命支持者も二月党(フェブレリスタ)として残存し、一時モリニゴ政権に加わるが、正式の政党化は1951年まで遅れ、勢力を維持できなかった。
 コロラド党は、反モリニゴで結束し蜂起した自由党や二月党、共産党との1947年の内戦に勝利し、1950年代以後、新たな反共軍事独裁者アルフレド・ストロエスネルの下、長期支配政党の地位を確立する(拙稿)。
 その点、いったんは挫折した第一次社会主義革命以後、社会主義勢力が台頭し、1950年代に第二次社会主義革命を経験するボリビアとは大きく針路を異にしたことになる。

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近代科学の政治経済史(連載第32回)

2022-12-09 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

第一次世界大戦:軍事技術の見本市
 19世紀末の近代的科学技術の発達を背景とした軍事技術の刷新は20世紀に引き継がれ、同世紀最初の世界戦争となる第一次世界大戦として発現される。この大戦は、科学技術史の視点から見れば、参戦各国が自国のテクノロジーを披露し合う見本市のような様相を呈した。
 第一次大戦における軍事技術の革新を記述すれば、それだけで数冊分の書籍となるほどの内容があるが、ここでは、大戦の惨禍を特に倍加させた化学的な“成果”を選択略記する。
 とりわけ非人道的な兵器として登場したのが、有毒な化学物質を使用する化学兵器である。化学兵器は大戦前の1907年ハーグ陸戦法規でも実質的に禁止されていたが、塹壕戦の膠着を打開する手段として有効だったため、第一次大戦で本格的に使用された。
 実用的な化学兵器の開発では、化学兵器の父の異名を持つドイツのフリッツ・ハーバーやハーバーに先行するヴァルター・エルンストらの寄与が大きく、結果としてドイツが化学兵器の先進国となる。
 ハーバーはカール・ボッシュとともに窒素化合物の基本的生成法(ハーバー‐ボッシュ法)を確立して名を残した科学者であり、エルンストも熱力学第三法則の発見者として名を残しているが、第一次大戦に際しては、塩素を中心とした毒ガス兵器の開発に協力した。
 当時のドイツは化学工業が発展期にあり、化学兵器は戦時下で軍需資本に転化する化学工業資本により量産されたため、塩素・ホスゲン・マスタードなどを使用した主要な化学兵器の大半を調達できたのであった。
 ちなみに、皮膚をただれされる効果を持つマスタードガスは、ガスマスクの普及によって塩素ガスのような吸引性の化学兵器の効果が減殺されることに対抗し、防護困難なびらん性の化学兵器として開発されたもので、これまた19世紀末にドイツの化学者ヴィクトル・マイヤーが生成法を確立した。
 このように化学兵器開発で先行するドイツへの対抗上、対戦国である英米仏も化学兵器の開発・使用に走ったため、元来不充分なハーグ陸戦法規の禁止条項は有名無実となり、大戦を通じた化学兵器による死傷者は約130万人に上ったとされる。
 一方、無煙のコルダイト火薬を大量生産するうえでは、原料となるアセトンをデンプンか合成する技術を当時イギリスに居住していたユダヤ人化学者ハイム・ヴァイツマン(後に初代イスラエル大統領)が確立したことが寄与しているが、先のハーバー‐ボッシュ法による窒素固定技術も火薬の常時補給を円滑にした。
 このように、ドイツは化学兵器で優位にあったにもかかわらず、旧式の戦闘法である塹壕戦の膠着状況を完全に打開できるほどの効果を発揮せず、最終的には敗戦した。戦後の1925年にはジュネーブ議定書で化学兵器の使用(保有は可)が明確に禁止されたことにより、化学兵器への関心は後退していく。
 しかし、第一次大戦で先駆的に登場した戦車や戦闘機などの新たな移動機械兵器は戦後も引き続き開発・改良が進展し、また第一次大戦では想定されなかった放射性物質を利用した核兵器の理論構想など、戦後の軍用学術の中心は化学分野から物理・工学分野へと遷移していく。

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