ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第263回)

2021-07-16 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(1)概観
 1952年のエジプト共和革命により台頭したナーセルのアラブ社会主義が中東に風靡すると、アラビア半島から北アフリカのマグレブ地域まで含めたアラブ諸国において、1950年代末から60年代にかけて、連続的な社会主義革命の波及的潮流が生じた。
 これを年代順に挙げれば、チュニジア(1957年)、イラク(1958年)、北イエメン(1962年)、南イエメン(1967年)、スーダン(1969年)、リビア(1969年)という広範囲に及ぶ。
 さらに、1954年に始まるアルジェリア独立革命/戦争もエジプト共和革命に触発されており、60年代のシリアとイラクに勃発したバアス党(アラブ社会主義復興党)による革命も、広くは同じ潮流に属する。
 こうした地政学的な広範囲に及ぶアラブ世界における革命潮流を、アラブ連続社会主義革命と包括することができる。とはいえ、革命の性格やイデオロギーに関しては、各国でかなりの差異がある。
 革命の性格という点に関して見れば、チュニジアとイラク(58年革命)、北イエメン、リビアの各革命は、君主制を廃する共和革命の性格をも持っていた。南イエメンの革命は、イギリスからの独立革命の性格が強いものであった。
 イデオロギー的な面でナーセルのアラブ社会主義の直接的な影響が強いのは、イラク(1958年革命)、北イエメン、スーダン、リビアの各革命であるが、このうち、北イエメンの革命は共和革命としての性格が強く、革命後は王党派との長期の内戦に進展した。
 南イエメンの革命は、間もなくマルクス‐レーニン主義を標榜する一派が実権を確立したため、1990年の南北イエメン統一まで、アラブ世界で唯一のマルクス‐レーニン主義国家として、ソ連の衛星国的な立場を保持した。
 潮流の末期に勃発したスーダンの革命は最終的に社会主義からイスラーム主義に大転向し、同年のリビアの革命も70年代以降、革命指導者ムアンマル・アル‐カザーフィの直接民主制を標榜する特異なジャマーヒリーヤ思想に転回した。
 チュニジアの社会主義は当初よりナーセルのアラブ社会主義とは距離を置き、独立運動指導者にして初代大統領ともなるハビブ・ブルギバの独自的な社会主義理念に基づいていたが、これも70年代以降、撤回されていった。
 シリアとイラクのバアス党革命も、バアス党創設者であるシリア人ミシェル・アフラクの思想的影響下にあり、世俗主義の立場を採りながらも、イスラームの精神性をも尊重する独自のイデオロギーに根ざし、ナーセル主義とは時に対立した。
 このように差異を伴いながらも、一つの時代的な潮流となったアラブ連続社会主義革命であるが、1967年の第三次中東戦争でエジプトが率いるアラブ連合軍がわずか六日でイスラエルに完敗してナーセルの威信が衰え、追い打ちをかけるように、彼が1970年に急死すると収束に向かう。
  当のエジプト自身、副大統領からナーセルを継いだアンワル・アッ‐サーダート大統領の下で社会主義は撤回され、親西側の自由市場経済化の方向へ舵を切り、最終的には宿敵イスラエルとの和平へと大転回していくのであった。
 実際のところ、そもそもナーセルのアラブ社会主義にしても、社会主義以上に、西欧列強からの独立とイスラエルとの対峙という状況下で、ナーセルの英雄的威信を背景に、アラブ民族の自立と連帯を訴える汎アラブ民族主義に重心があったため、社会主義革命としての実質には希薄な面が否めなかった。
 そうした意味で、アラブ連続社会主義革命はナーセルに始まり、ナーセルに終わると言って過言ではないほど、ナーセルの個人的なカリスマ性の作用に依っていたところに特徴があり、その特徴が革命の持続性を制約したであろう。
 本章では、アラブ連続社会主義革命に包括される諸革命のうち、先行して論じたアルジェリアの独立革命とシリアとイラクのバアス党革命を除く諸革命を扱い、連続革命の中では異色的なバアス党革命に関しては、連続革命の支流として派生的な章立ての中で論じることとする。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | ワクチン・プロパガンダ合戦 »

コメントを投稿