ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

持続可能的計画経済論(連載第40回)

2018-08-28 | 〆持続可能的計画経済論

第9章 計画経済の世界化

(4)汎域経済協調機関
 世界共同体とは一つの国家のような統合体ではないため、世界経済計画といっても、それは領域圏の地域的なまとまりである五つの汎域圏間での経済協調関係を内包する。そうした汎域的な経済協調関係は、資本主義的な商業貿易に代わるものとして、持続可能的計画経済において極めて重要である。
 煎じ詰めれば、持続可能的計画経済とは、世界経済計画を基本に、個別的な領域圏計画経済と横断的な環域間経済協調が有機的に連関しながら運営されていくグローバルな経済システムと言える。
 その意味でも、経済協調圏としての汎域圏は重要な単位であり、そうした汎域間経済協調を担う機関として、世界経済計画機関とは別途、汎域圏経済協調会議のような実務機関を設置し、常時経済協調関係を維持する必要がある。 
 具体例を挙げれば、自動車なら世界経済計画に示された指針に従い、各々汎域圏内での中心的な領域圏が生産し、汎域圏内で融通し合う。その結果、自動車メーカーが世界的なシェアーを巡り競争し合うという関係はなくなり、生産活動はそれぞれの汎域圏内で完結することになる。
 ただし、それは硬直的なルールではなく、アフリカのように独自の自動車メーカーが存在しないところでは―もちろん独自に育成される可能性は資本主義経済下よりも開かれるが―、隣接するヨーロッパから調達するというように、汎域圏を越えた協力関係の存在も否定されるわけではない。
 さらに汎域圏のもう一つの重要な役割として、食糧農業分野での経済協調がある。共産主義的な食糧生産は貿易によらず、各領域圏で自給的にまかなうことが基本であり、現実にも共産主義はそれを可能とするが、農業の発達状況と生産量は地理的条件及び天候にも左右され、不均衡を完全には免れないことから、食文化に共通性のある汎域圏間で不足産品を融通し合う協力関係は不可欠である。
 そうした協力関係をグローバルに調整する専門機関として世界食糧農業機関が置かれる。これは現存国連機関である国連食糧農業機関(FAO)の業務を引き継ぐものであるが、この機関は調整機関にとどまり、現実の協力実務は汎域圏ごとに設置される食糧農業会議が行なう。

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持続可能的計画経済論(連載第39回)

2018-08-27 | 〆持続可能的計画経済論

第9章 計画経済の世界化

(3)世界経済計画機関
 グローバルな計画経済の実務機関となるのは、世界経済計画機関である。これは各領域圏の計画機関である経済計画会議の総本部に相当する機関でもあり、グローバルな計画経済が最終的に確立された暁には、同機関が策定した世界経済計画の総枠内で各領域圏の経済計画が策定されるシステマティックなものとなる。
 この世界経済計画機関は全世界の領域圏で構成する世界共同体の専門機関の位置づけを持つが、現存国連諸機関のような官僚制的行政機関ではなく、各領域圏の経済計画会議と同様に、生産企業自身の共同計画を策定する合議制機関である。
 その構造は各領域圏の経済計画会議の相似形となる。すなわち、世界経済計画機関の意思決定を担う執行部(上級評議会)は計画経済の対象となる環境負荷産業分野の生産事業機構の世界組織である生産事業機構体の代表者で構成される。
 生産事業機構体とは、例えば鉄鋼なり自動車なり計画経済の対象となる生産事業機構で作る世界組織である。資本主義経済にはこれに該当する組織は存在しないが、強いて現存する類似例を挙げるとすれば、世界鉄鋼協会(World Steel Association)とか国際自動車工業連合会(Organisation Internationale des Constructeurs d'Automobiles)といった国際的な業界団体をイメージすればよいと思われる。
 資本主義体制の下では、こうした国際業界団体はあくまでも業界ごとの国際的な利益代表組織であり、生産活動そのものの調整を行なうことは国際カルテルに当たり、むしろ禁止される。しかしグローバルな計画経済下の生産事業機構体は単なる業界団体ではなく、まさに世界計画経済の主体的組織となるのである。
 こうして生産事業機構体が世界経済計画機関を通じた審議のうえで策定した世界経済計画は、世界共同体の民衆代表・意思決定機関である総会(世界民衆会議)で審議を受けなければならない。その結果、可決された世界経済計画は、条約に準じた規範性をもって各領域圏を拘束し、各領域圏レベルでの経済計画の準拠指針となる。

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持続可能的計画経済論(連載第38回)

2018-08-21 | 〆持続可能的計画経済論

第9章 計画経済の世界化

(2)貿易から経済協調へ
 グローバルな持続可能的計画経済が実現された暁に世界経済上生じる最も大きな変化は、貿易という経済行為の消滅―「自由貿易」か「保護貿易」かを問わず―である。これはちょうど「一国」レベルでは商業が消滅するのとパラレルな関係にある。貿易とは海と陸の境界を越えた商業活動の謂いであることからすれば、当然の事理である。
 ただ、貿易が消滅するといっても、完全に「一国」レベルでの自給自足体制に移行するわけではない。食糧を含めた自給困難な物資の海外調達は継続される。しかし、それはもはや貿易という商業的な形態においては行われず、無償の経済協調という形態で行われる。
 ここで言う経済協調とは、資本主義経済下の経済協力のように「途上国」に対する「援助」として実施される恩恵的経済行為ではなく、原則的・日常的な互恵的経済行為として行われることに注意が必要である。
 そのような試みの不完全な先例として冷戦時代にソ連を中心とした社会主義経済圏の経済協調体制(コメコン)があったが、これは画一的な分担分業体制を採ったため、メンバー国の産業構造の偏りを生んだ。持続可能的計画経済における経済協調はそうした画一的な分業によらない柔軟な地域間協調である。
 実際、前節で述べた世界経済計画はそれ自体が経済協調の全般指針でもあるが、具体的な経済協調は地理的近接性を考慮して近隣経済協調圏のレベルで行われる。これも次章で改めて述べるが、世界を五つに区分した汎域圏がそのまま経済協調圏として機能する。例えば、日本の場合は汎東方アジア‐オセアニア圏が帰属経済協調圏となる。
 こうした経済協調の中でも、食糧に関しては人間の死活に直結し、自然条件に左右されるところが大きいため、通常の経済計画とは別途計画が立てられる必要があるが、具体的な経済協調はやはり汎域圏のレベルで行われる。
 また経済協調の一環として、エネルギー源となる天然資源の民際管理の問題がある。前章で論じたとおり、天然資源はナショナリズムに委ねず、何者にも属しない無主物として民際管理下に置かれるが、その管理機関として世界天然資源機関が置かれ、持続可能な共同採掘が行われる。世界経済計画はこうした資源の分配計画も包含するものとなる。

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持続可能的計画経済論(連載第37回)

2018-08-20 | 〆持続可能的計画経済論

第9章 計画経済の世界化

(1)グローバル計画経済
 前章まで、環境的持続可能性に重心を置く新しい計画経済―持続可能的計画経済―のあり方について論じてきたが、ここでの議論はさしあたり、「一国」のレベル―続く第10章で改めて論じるように、持続可能的計画経済はそもそも「国」という政治単位と両立しない―での計画経済を想定してきた。
 しかし、環境的持続可能性とは、正確に言えば地球環境の持続可能性―つまり、地球が少なくとも人為的な要因から死滅することのないように保持していくこと―を意味するから、持続可能的計画経済は特定の一国だけで実践され得るものではない。
 持続可能的計画経済は、その究極的な形態においては、まさに地球規模でグローバルに実践されなければならない。この点において、それは環境的持続可能性を一国の政策レベルの課題に矮小化する「環境政策論」とも、また気候変動や生物多様性等々特定の環境課題を個別の国際条約―しかも、批准/脱退は各国の個別判断任せ―を通じて協調しようとする近年の潮流とも異なり、よりいっそう徹底した世界化を目指している。
 そのためには、持続可能的計画経済の世界的な準則となる世界経済計画が必要とされる。それは前章までの議論で前提とされてきた「一国」レベルにおける経済計画の全体的な大枠(キャップ)となるものである。言い換えれば、「一国」レベルでの計画は世界レベルでの経済計画に基づく個別的な割当て(クォータ)の位置づけとなる。
 このような壮大な構想に対しては、果たして数十億人口を抱えるに至った現存地球上でそれほど大規模な経済計画を紛議なく実効的に策定することができるのかという「現実主義」からの疑問が示されるであろう。
 たしかに、これは人類がいまだ経験したことのない壮大な経済実験ではある。しかし、それも現存の主権国家体制を揚棄し、主権国家の連合体にすぎない現存国際連合に代わる「世界共同体」を創設することを通じて、実現の道が開かれると考える。その意味で、持続可能的計画経済と政治制度との関係は重要な論点となるが、これは次章の課題とする。

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持続可能的計画経済論(連載第36回)

2018-08-14 | 〆持続可能的計画経済論

第8章 計画経済とエネルギー供給

(4)エネルギー消費の計画管理
 持続可能的計画経済におけるエネルギー供給計画は、末端需要者のエネルギー消費のあり方にも影響を及ぼす。当然にも、資本主義経済下のように需要者が欲するだけ無制限に消費できるということにはならない。
 特に二次エネルギー源の中でも最も重要な電気の消費は厳正な計画供給制となるが、その場合、事前告知による計画停電のような全体統制的な方法とリミット制のような個別規制的な方法とがある。
 計画停電は大災害時等の非常措置としてやむを得ない場合もあるが、日常的にこうした全体統制的な供給体制を採ることは、電力供給システムが整備されている状況では不必要である。
 そこでリミット制が選択されるが、その適用方法は一般世帯と企業体のような大口需要者とでは異なる。大口需要者については、電力事業機構との個別協定により日量のリミットを設定するが、一般世帯では個別協定ではなく、予め通知された約款で定められた日量上限を超えた場合、事前警告のうえ自動的に停電するという方法によることになるだろう。
 実際、持続可能的計画経済が確立される将来には、こうした厳格なリミット制を支える技術革新が進み、末端需要者が電力使用量をリアルタイムで正確に把握でき、リミットに接近すれば警告されるような測定装置が一般世帯にも普及すると予測され、厳格なリミット制に現時点で想定されるような煩雑さはないものと思われる。
 同様のリミット制はガスにも導入されるが、持続可能的計画経済はオール電化とかオールガス化といった消費エネルギー構成の偏向は認めず、消費エネルギーバランスが考慮される。そのためにも、電力供給とガス供給は統合的な事業体(電力・ガス事業機構)を通じて包括的に行われることが考えられてよい。
 とはいえ、こうしたエネルギーの大量供給体制はいかに計画化を進めても環境的持続可能性にとって十分ではないから、エネルギー自給システムの普及も併せて考慮されなければならない。具体的には自家発電装置の常備や地方集落では薪火のような伝統的発火手段の復活・併用などである。

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持続可能的計画経済論(連載第35回)

2018-08-13 | 〆持続可能的計画経済論

第8章 計画経済とエネルギー供給

(3)エネルギー事業体
 一般世帯と企業体その他のエネルギー需要者に対するエネルギー生産・供給を任務とする事業体(エネルギー事業体)のあり方は、生産様式一般とも無関係ではないが、必ずしも必然的な関係にあるわけではない。
 すなわち資本主義生産様式にあっても、天然資源の共有化政策によりエネルギー事業体に関しては国有などの公企業体の形態を採ることはままあるし(特に石油などの資源事業体)、日本の電力事業体のように株式企業ではあるが、地域独占企業体としての特権を国から保障された公認独占企業体の形態を採ることもある。
 しかし、近時の新自由主義的なイデオロギーはエネルギー生産・供給の自由化にも及び、特に電力事業の民営競争化を志向する傾向が強まっている。
 これに対して、エネルギーの民際管理に基づく供給計画化が図られる持続可能的計画経済下のエネルギー事業体は、社会的所有型の公企業を基本とする。具体的には、第4章で見た生産事業機構の形態を採ることになる。
 例えば、電力であれば、電力事業機構である。このような企業体は地域ごとに分割するのではなく、全土統一的な事業体として設立されるが、いくつかの地方管区ごとに地方事業所が置かれ、ある程度の分権的な運営は図られる。
 また民際管理される石油をはじめとする一次エネルギー源は、商業的な輸入によるのでなく、各領域圏ごとの供給枠に従い計画供給されることになるため、その統一的な受け入れ窓口となる事業体が必要である。
 その点、前回指摘したように、経済計画会議の下部機関としてエネルギー事業体で構成するエネルギー計画協議会の直轄事業体として、供給資源の包括的な受け入れ窓口となる天然資源渉外機構を設置し、同機構が供給枠の交渉から海上輸送までを担当する。受給した資源の領域圏内での二次供給については、エネルギー計画協議会が担う。
 なお、原子力発電を用いない持続可能的計画経済は同時に原発廃止という歴史的な時間を要するエネルギー廃棄のプロセスをも含んでいる。こうした脱原発計画も世界規模で実施されるが、さしあたり領域圏内でも電力事業機構とは別途、原発廃止事業機構のような専門事業体が設置される。

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21世紀独裁者は選挙がお好き

2018-08-12 | 時評

かつて独裁者と言えば、クーデターのような不法な手段で政権を奪取して最高権力の座に就き、一度も選挙をしないまま、もしくは野党を排除した出来レースの茶番選挙によって長期間居座るということが普通だったが、21世紀の独裁者はもはや違う。

昨今の独裁者たちは以前はあれほど回避していた選挙を好むようになっている。固有名詞は挙げないが、このところ、世界中で選挙によって長期政権を維持する独裁者が増えている。この様変わりはどういうわけだろうか。

その秘密は新興国・途上国でも発達し始めているネット情報社会にある。かつては新聞・テレビくらいしかなかった選挙メディアがインターネットにより急速に拡大され、選挙過程で有権者を惑わすような情報操作が容易になったことが大きいであろう。

アメリカで疑惑が持たれているように、外国政府が選挙過程に情報操作介入し、選挙結果に影響を及ぼすことさえ可能になっているのであるから、自国内での情報操作くらい朝飯前のことである。

こうして形式上は合法的に虚構された選挙で当選を重ねれば、強い「民意」を得たことになり、むしろクーデター等の不法手段で政権に就いた場合以上に、「民意」に基づいて堂々と恣意的な権力行使が可能となるという点で、選挙は独裁体制を助ける。

筆者はかねて「議会制ファシズム」という概念矛盾的な用語を提示してきたが、「ファシズム」に限らず、様々なイデオロギーを帯びた「選挙制独裁主義」という政治手法が現実のものとなっている。裁判官でさえ選挙する選挙王国のアメリカにおいてすら、その傾向が増してきているありさまである。

しかし教科書的には、現在でも公職選挙こそ民主主義の最大の象徴と記され、そう信じられているから、「選挙制独裁主義」は概念矛盾であり、選挙がお好きな独裁者への批判は歯切れの悪いものとなる。

このあたりで、長く奉じられてきた「選挙信仰」に見切りをつけるべき時なのではなかろうか。選挙は民主主義を保障するものではない。それどころか、ネット情報社会にあっては、情報操作によって独裁者に「民意」のお墨付きを与えてしまう危険がますます高まっているのである。

その点、筆者はかねてより代議員免許制に基づく抽選制(くじ引き)を提唱してきた。抽選は遊戯のように見えて、実は誰からも異論の出ない最も公正な選出方法である。選挙制度への代替案として、真剣な論議の対象となることを期待したい。

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持続可能的計画経済論(連載第34回)

2018-08-07 | 〆持続可能的計画経済論

第8章 計画経済とエネルギー供給

(2)エネルギー供給計画
 前節で、共産主義的な計画経済下での経済計画の前提はエネルギー計画であると指摘した。持続可能的経済計画の実際については、すでに第3章で詳論しておいたので、本節はその補充的な位置づけとなる。
 そこで第3章で述べた持続可能的計画経済の要点を今一度振り返ると、そこには環境アセスメントが予め包含されており、従って、主として生産の量的な調節を目的とする「物財バランス」にとどまらず、環境的持続可能性に適合するエネルギー資源の選択、生産方法や生産品構造の規制にも及ぶ質的な「環境バランス」も組み合わされなければならないのであった。
 特にこの「環境バランス」の前提として、エネルギー計画が必要となる。その場合、エネルギー計画を経済計画本体と分離して独立に組むか、それとも経済計画の前提部分のような形で組み込むかという技術的な問題がある。
 エネルギー計画が経済計画の外部的規制ではなく、経済計画全体の内的前提となることを強調するためには、組み込み型が適切と思われるが、いずれにせよ、このようなエネルギー計画は、3か年の経済計画本体と同様に規範性をもって生産企業に適用される指針であって、単にエネルギー政策の基本方針を綱領的に掲げたものではない。
 またエネルギー供給は、エネルギー源の世界的な共同管理の制度とも密接に関連するため、世界レベルでのエネルギー源管理計画ともリンクしていなければならず、ここでは「一国エネルギー計画」は存立し得ない。
 内容的には、石油などの枯渇性エネルギーの節約と再生可能エネルギーの積極活用が基調となり、二次エネルギー源の中でも高度産業社会で最も比重の高い電力の環境持続的な総量規制はエネルギー計画の重要な柱である。
 ちなみに発電に関し、ひとたび事故が発生した際の環境破壊性において他に例を見ないことが実証済みの原子力は質的に見て持続可能的なエネルギー源とは評価できないため、持続可能的エネルギー計画からは除外される。
 こうしたエネルギー計画の策定主体も行政機関ではなく、生産企業体で構成する経済計画会議であるが、エネルギー計画の原案は、会議の下部機関として製油や電力等のエネルギー関連事業体で構成する「エネルギー計画協議会」で策定されることになる。

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持続可能的計画経済論(連載第33回)

2018-08-06 | 〆持続可能的計画経済論

第8章 計画経済とエネルギー供給

(1)エネルギー源の民際管理
 およそ高度産業社会がエネルギーを物理的な基盤としていることは、いかなる生産様式にあっても変わらない。しかし、エネルギー供給の理念と方法は、生産様式いかんと密接に関連している。
 その点、資本主義産業社会にあっては、エネルギーは物質的な生産活動の手段にすぎない。すなわち「初めに生産ありき」であって、想定された物質的生産活動に見合うエネルギーを供給しようと試みる。しかも、その生産活動は全体的な計画に基づいておらず、個別資本による利潤追求を目的とした競争的な経営計画の競合であるから、エネルギー供給に限界を設定することを忌避する。
 共産主義的な持続可能的計画経済の発想は、それとは逆である。すなわち「初めにエネルギーありき」であり、環境的持続可能性に配慮されたエネルギー供給計画の枠内で生産活動が展開される。言い換えれば、持続可能的計画経済下での経済計画の前提はエネルギー計画である。
 エネルギーはエネルギー源(ここでは、狭義のエネルギー源、すなわち一次エネルギー源を指す)から生み出されるから、持続可能なエネルギー計画の前提には、持続可能なエネルギー源管理、すなわち持続可能な天然資源管理がなければならない。
 資本主義社会には、そもそも「エネルギー源管理」という発想自体がなく、エネルギー源は枯渇の限界に達するまで恒久的に開発の対象であり、せいぜい天然資源の埋蔵国の政府や国営開発企業による間接的な開発コントロールがなされているにすぎない。
 近年はそうした間接コントロールすらも弛緩し、資源が投機の対象にすらされている。その結果は、石油を中心とするエネルギー源の価格変動による経済不安、そして資源の浪費・枯渇である。
 持続可能的計画経済は、こうした「エネルギー無政府状態」とは対極にあるエネルギー源の民際管理と結びついている。エネルギー源の民際管理とは、石油に代表されるエネルギー源はその埋蔵国に属するという「資源ナショナリズム」の国際常識と決別し、エネルギー源を無主物とみなし、人類全体の共同管理下に置くことを意味する。
 簡単に言えば、「天然資源は誰のものでもない」ということである。ただ、天然資源の民際管理を単なる理念でなく、実際に可能にするためには、地球規模での計画経済化を前提とした効果的な共同管理システムの構築を必要とするが、その詳細は次章の課題とする。

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熱波禍から計画経済へ!

2018-08-05 | 時評

世界中で熱波の被害が広がっている。「禍」と冠するべき明らかな異常気象であり、しかも自然的な要因のみならず、人為的な要因を抜きにしては想定し難い異常さである。

異常気象の被害は、貧困層や一般労働者階層に集中して生じやすいとも言われる。たしかに、海面上昇や洪水は一般的に高台の一等地に住む傾向の強い富裕層には及びにくい被害かもしれない。そうした意味では、気候変動にも階級的な側面は認められる。

しかし、熱波の被害は階級的に「平等」である。もっとも、冷房完備の邸宅・移動手段を利用しやすい富裕層は、熱波からの自衛上有利な立場にあるとも言えるが、年齢や既往歴などを考慮すれば必ずしも決定的な有利さではない。

この期に及べば、党派を超えて環境破壊的な市場経済からの決別を考えてもよいものだが、そうした議論はいまだに低調である。美しい理念と詳細な環境政策を標榜する先進的な環境諸政党も、相変わらず「市場経済と環境保護の両立」という予定調和論でお茶を濁し続けているようである。

他方、世界最大級の二酸化炭素排出国アメリカでは、気候変動の用語すら検閲削除しようとする強硬な反環境主義政権が出現し、大衆の喝采を浴びている有様である。

熱波に斃れても、最期の瞬間まで金銭的利益を追求したいホモ・サピエンスの動物的な衝動なのであろうか。しかし、ホモ・サピエンスが文字どおり「知恵あるヒト」ならば、市場経済はその本質上、環境的に持続可能でないという現実にそろそろ目覚めてもよい頃である。

そうして熱波を自然からの警告ビームと受け止め、改めて環境的に持続可能な計画経済の可能性を探ることである。標語的に言えば、熱波禍から計画経済へ!である。

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