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近代革命の社会力学(連載第328回)

2021-11-12 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(4)ラオス社会主義革命

〈4‐2〉第三次連合政権の瓦解と革命
 ベトナム戦争の裏戦場となっていたラオスでは、1971年初にホー・チ・ミン・トレイルの破壊を目的として、アメリカ軍に支援された南ベトナム軍主体の侵攻作戦(ラムソン719作戦)が展開されたことで、戦線が公式にもラオスに拡大された。
 しかし、この作戦はラオス領内に潜伏していた北ベトナム軍の激しい反撃により失敗し、同年3月には撤退を余儀なくされた。これにより、ラオスの内戦にも力学的変化が生じ、同年末までに左派武装組織パテト・ラーオが王国政府軍に対し、軍事的な優位に立った。
 そうした中、アメリカのニクソン政権のベトナム撤退計画も加速され、1973年1月にベトナム和平協定(パリ協定)が締結されると、それに伴い、同年2月、ラオスでも対立三派の間で和平協定が成立し、翌74年に再び連合政権が樹立された。
 これは50年代、60年代の連合政権に次ぐ第三次連合政権であり、首班は引き続き中立派王族のスワンナ・プーマであった。連合の試みとしては最後のものであったが、この時点で、連合政権の軸は軍事的優位を確立した左派に移っていた。
 そうした中で、1975年4月にカンボジア首都プノンペン、南ベトナム首都サイゴンが相次いで社会主義勢力の手に落ち、革命が成功すると、その余波はすぐにラオスにも及んできた。連合政権内の右派が標的となり、首都ヴィエンチャンで反右派抗議デモが起きたことを契機に右派が政権を離脱した。
 その結果、パテト・ラーオが首都を制圧する中、左派と中立派のみが残留した連合政権は75年11月に総辞職を決定、12月には、すでに形骸化していた君主制も廃止し、社会主義に基づく人民民主共和国の樹立が宣言された。
 これにより、ラオスでは共和革命かつ社会主義革命が同時的に成立することとなった。新たな体制は左派ネーオ・ラーオ・ハク・サットの指導政党で、他名称共産党でもある人民革命党による一党支配体制とされ、実権を掌握する首相には同党のカイソーン書記長、儀礼的な元首である国家主席には王族出身ながら左派に属してきた「赤い殿下」スパーヌウォンが就いた。
 左派と行動を共にした中立派はネーオ・ラーオ・ハク・サットの後継組織として革命後の1979年に結成された翼賛組織であるラオス国家建設戦線に吸収され、中立派指導者のプーマは政府顧問の名誉職で遇されたが、政治的には無力化された。


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