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近代革命の社会力学(連載第260回)

2021-07-09 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(3)ザンジバル革命

〈3‐2〉タンザニア合邦とアフリカ社会主義
 外人革命集団によって短時間で成功したザンジバル革命であったが、奇妙なことに、革命の主体となったアフロ‐シラジ党(ASP)の党首アベイド・カルメは大陸側にいて不在であり、革命後、オケロに呼び戻されて、革命評議会の議長に就任するという段取りとなった。
 カルメら党幹部が革命を事前に知っていたのかどうかは不明であるが、いずれにせよ、革命の成功は専らオケロと彼が指揮する外人革命集団の力によるところが大きかったことは確かである。実際、オケロは「元帥」を自称し、軍のトップに成り上がろうとしていた。
 一方、ザンジバル革命は東アフリカの小さな島国での革命にすぎなかったわりに、国際的関心事となった。その要因として、革命直後に発生した民族虐殺という人道危機もあったが、それ以上に、革命政権の中心に立ったASPがマルクス‐レーニン主義を標榜していたことから、ザンジバルが東西冷戦下でソ連圏に組み込まれる恐れがあったことが大きい。
 そうなれば、小国ながらザンジバルがイギリスの勢力圏でもあった東アフリカ全域の共産化の拠点となるのではないかという猜疑心からも、旧宗主国のイギリスは軍事介入を検討するなど、不穏な情勢となっていた。
 そうした中、カルメは、革命功労者ながら外国人であり、虐殺を扇動するなど粗暴なオケロを排除すべく、彼が一時ザンジバルを離れた隙に、オケロを「国家の敵」と名指し、再入国を禁止する措置を取った。そのうえで、対岸の大陸国タンガニーカの治安部隊の支援を受けて、外人革命集団の武装解除と秩序回復を速やかに進めた。
 そればかりでなく、カルメはイギリスからの圧力を受け、タンガニーカと合邦化する協議を進め、1964年4月に、タンガニーカ‐ザンジバル連合共和国の発足にこぎつけた。同連合共和国はさらに同年10月、タンザニアと改称し、今日のタンザニア連合共和国が形成されることになった。
 こうして、ザンジバル革命は、一年あまりでタンガニーカとの合邦プロセスを通じ、独立国家としてのザンジバルを解消するという異例の経過をたどった。このような経過は、オケロら過激な外人革命集団の増長とイギリスを中心とした列強の軍事介入という内憂外患を回避し、速やかにザンジバルの平和を回復するべく、カルメらASP執行部が採った妥協的対応の成果であった。
 ただし、合邦後も、ザンジバルでは独自の大統領の下、革命の名辞を残すザンジバル革命政府による自治が保障され、革命政府は外交・防衛・通貨などの主権に関わる領域を除き、広範な自主権を今日まで保持しており、完全に併合はされていない。その点では、アメリカ合衆国への完全な併合を結果したハワイ革命とは全く似て非なる経過である。
 ちなみに、合邦相手国となったタンガニーカは一足先の1961年、やはり旧宗主国のイギリスから平和裏に独立を果たし、ここでは、独立運動家で初代大統領となったジュリウス・ニエレレが独自に創案した農業共同体(ウジャマ―)を基本単位とする独自のアフリカ社会主義を実践しようとしていた。
 その支配政党は合邦前はタンガニーカ‐アフリカ民族同盟を称したが、合邦後、1977年になってザンジバル側のASPと統合し、新たにタンザニア革命党として再編された。党名に革命を冠するものの、タンザニアの成立自体は如上の平和的な協議の結果であり、名辞上の革命政党である。
 こうして政党の統合にまで進んだことで、ASPが標榜していたマルクス‐レーニン主義も過去のものとなり、ザンジバルがソ連型のマルクス‐レーニン主義国家となることはなく、ソ連とは一線を画すタンザニアのアフリカ社会主義に統合されることになった。
 こうしたプロセスは必ずしも反作用なしに進んだわけではなく、1972年には、初代大統領カルメが暗殺されている。関与者として、革命に際してはASPと連携した急進的なアラブ系左派政党ウンマ党の幹部らがタンザニア当局に逮捕されたが、証拠不十分のため、後に釈放され、未解明に終わっている。


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