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近代革命の社会力学(連載第35回)

2019-10-30 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(6)南北分裂から再統一へ  
 ハイチ独立革命は1804年のデサリーヌの皇帝即位(ジャック1世)により終結したという見方もあるが、帝政がジャック1世の暗殺により短命に終わったことで、革命は再起動されたと言える。しかし、この再起動プロセスは、分裂と内戦含みのものとなった。  
 ジャック1世暗殺の真の黒幕はいまだに明らかでないが、混血ムラートの指導者となっていたアレクサンドル・ペションと黒人奴隷出自で元はデサリーヌ配下の将軍だったアンリ・クリストフが共謀したと見られている。  
 しかし、この二人は人種的な相違に加え、思想的にも共和制支持者だったペションに対し、クリストフは王制支持者という超えられない隔たりがあり、統一国家を構築し合う関係ではなかった。  
 結果として、ペションは従来からのムラート本拠地である南部に共和体制を樹立する一方、クリストフは革命発祥地もある北部に自らを王(アンリ1世)とする君主制を樹立した。こうして、帝政崩壊後のハイチは南北に異なる二つの政体に分裂してしまった。  
 南部共和国はペションが大統領として10年以上統治したが、彼は当初こそ民主主義を支持したものの、長期政権となる中で独裁的になっていた。その集大成となる1816年憲法は、形式上二院制を採用するが、議会の権限を制約し、終身大統領ペションに強大な権限を集中させるというお世辞にも民主的とは言えない内容だった。  
 ただ、土地改革に関しては進歩的で、帰農した革命軍兵士に土地を分配して好評を得たが、結果としてハイチ経済の土台であるプランテーションが機能しなくなり、経済的には損失を招いた。  
 一方、北部君主制は帝政の縮小版のようなものであった。もっとも、クリストフも当初は共和制を維持したが、1811年に国王アンリ1世として即位し、君主制に移行した。この北ハイチ王国はトゥーサンの暫定自治体制を君主制に変更したようなもので、カトリック以外の宗教を禁ずる一方、白人の土地所有を禁止しなかった。  
 アンリ1世はフランス流の貴族制を創設し、世襲王制の確立を目指したことによる贅沢趣向と、フランスが再侵攻してくるという強迫観念から、住民を動員した宮殿や城塞の建設に走り、反発を招いた。君臨者のストレスにさらされた彼は、1820年、自殺に至った。  
 南部共和国でも、1818年にペションが病死し、後継者としてやはりムラート出身の軍人ジャン・ピエール・ボワイエが立っていた。一方、アンリ王の王太子アンリ2世は年少のうえ、父王の死後、即位前に反対派の手により殺害された。  
 こうして北部王国が自壊したことで、ボワイエ率いる南部共和国が北部王国を無血のうちに合併し、ようやく統一共和国が樹立された。この後、ボワイエが新たな革命で追放された1843年まで長期政権を維持することになる。これにより、18世紀末に始まったハイチ独立革命のプロセスはようやく完結したと言える。
 とはいえ、フランスはなおもハイチ独立を正式に認めず、代償として賠償金の支払いをハイチ政府に請求し続け、ハイチもこれに応じざるを得なかったため、この「独立債務」が統一ハイチの経済発展を阻害する最大要因となった。  
 それとともに、革命を収束させた統一ハイチの樹立がムラート主導で行なわれたことで、以後はムラートが政治経済上の支配層となり、黒人層との階級格差構造を形成するとともに、革命軍を母体とする軍部の政治力が強大化し、頻繁なクーデターによる政情不安が恒常化していった。


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