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近代革命の社会力学(連載追補3)

2022-11-16 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐2〉独立革命への急転
 今日のベルギーにほぼ相当する南ネーデルラントにおける反オランダ感情が独立革命に展開した触発契機は、1830年に復活ブルボン朝が打倒されたフランス七月革命であった。当時は新聞メディアの発達期であり、七月革命の時々刻々は新聞を通じて南ネーデルラントにも伝えられ、関心を呼んでいた。
 そうした中、1830年8月、ブリュッセルの王立モネ劇場で上演されたオペラ『ポルティチの物言わぬ娘』の公演後に民衆暴動が突発した。このオペラはナポリの反スペイン蜂起を題材とする愛国的なフランス歌劇であったことが、市民の反オランダ感情に着火したのである。
 その経緯から「オペラ座の反乱」とも呼ばれる民衆蜂起が独立革命に急転していったのであるが、このようにベルギー独立革命は芸術が革命の引き金となった稀有の事例であるとともに、音楽の持つ潜在的な革命触発力を示唆している。
 その後、短期間で南ネーデルラント全域に広がった蜂起に対して、オランダ当局は軍を動員して鎮圧に当たり、ウィレム1世の次男フレデリック王子指揮下のオランダ軍は9月末、市街戦でブリュッセルの制圧を試みるも、革命派民兵の激しい抵抗にあい、失敗した。
 同月26日には、独立派のブルジョワ人士から成る臨時政府が樹立された。臨時政府は28日に中央委員会を設置し、同10月4日に独立を宣言し、11月には制憲国民会議選挙を実施した。
 行き詰ったオランダ国王ウィレム1世は欧州主要国に外交的介入を求め、同年11月にはロンドンにオーストリア、イギリス、フランス、プロイセン、ロシアの主要国から成る国際会議が招集されるが、諸国は議論の末、ベルギーの独立を承認したため、ウィレムの期待は外れた。
 こうしてベルギー独立は国際的にも承認を得たものの、オランダは大いに不満であり、引き続き武力による奪還を図り、最終的にウィレム1世治世末期の1839年まで独立承認を拒んだ。
 一方、革命参加者には労働者階級が多かったにもかかわらず、ベルギー臨時政府は基本的にリベラルなブルジョワ派であり、立憲君主制を志向していた。そのため、翌1831年2月に制定された憲法は王権が制約されたイギリス式の立憲君主制を規定したが、全体として、当時としては最も先進的な成文憲法となった。
 問題はオランダ国王に代えて誰を君主に推戴するかであったが、当初は七月革命で王位に就いたフランス国王ルイ・フィリップの次男で、独立戦争にもフランス軍部隊を率いてベルギー側で参加したヌムール公ルイに即位を要請した。しかし、これはベルギーがフランスに吸収されることを恐れたイギリスの反対で実現しなかった。
 そのため、一時的に摂政を置いたうえ、イギリスの仲介を経て、イギリス王室の親類筋でもあるドイツ系ザクセン‐コーブルク‐ゴータ家出身のレオポルドを初代国王に招聘する運びとなった。こうして、1831年7月、レオポルドが初代ベルギー国王として即位し、独立ベルギー王国が正式に成立した。


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