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近代革命の社会力学(連載補遺24)

2022-10-03 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(3)「独立党」の形成と日本へ/の接近
 閔妃政権が清国の武力を借りて壬午事変を鎮圧し大院君を排除したことは、ひとまず開国・開化派の勝利を意味していたが、閔妃政権は借りを作った清国への従属を強めていったため、この時期の政権主流派は、清国に奉仕しつつ開国・開化を推進する立場であった。
 この立場は「事大党」とも呼ばれるが、正確には「親清開化派」である。これに対して、清国への従属に反発し、清国から自立しつつ、より急進的な近代化を推進しようとするある種の野党が台頭し、「独立党」と呼ばれるが、これも正確には「脱清開化派」である。
 このグループは、その事実上の指導者である金玉均をはじめ、朝鮮王朝の伝統的支配層を成す両班階級に出自する青年を主体とした急進的な開化主義者から構成されていた。その中には、朴泳孝のように王女を配偶者とする王室外戚も含まれるなど、基本的に体制内部のエリート階層に出自する者が多い。
 その点、日本の明治維新を担った地方藩の青年下級武士層のように、体制の周縁部から台頭した人士による革命とは担い手を全く異にしていたことが、革命事象としての両者の結末を分ける要因ともなったであろう。
 そうした相違にもかかわらず、「独立党」人士は日本の明治維新を朝鮮近代化の範とみなし、日本と結んで朝鮮の近代化を推進せんとする構想を抱いた。そのため、金玉均らは初め、開化派の仏教僧・李東仁を日本に密航させて、日本の実情視察を行ったほか、金玉均自身も国王の勅命を得て、日本に遊学した。
 その際、福沢諭吉と親交を深め、福沢の紹介で明治政府の高官を含む多数の有力者とも懇親する機会を得た。福沢自身もこれを機に朝鮮近代化運動に強い関心を寄せるようになり、「独立党」人士を積極的に支援した。
 体制エリート層に発した「独立党」は当初から革命を構想していたわけではなかったが、そのメンバーはまだ若く、体制内で枢要な地位に就くことはかなわず、朝鮮王朝では伝統の体制内党争を通じて「事大党」を抑え、政権を掌握することは至難な情勢であった。
 一方、壬午事変後、清国の朝鮮干渉が強化される中、修好条規以来の対朝影響力の低下を余儀なくされた日本としても、日本と結んで朝鮮の近代化改革を目指す「独立党」は新たな親日派として利用価値が高かった。そのため、明治政府の井上馨外務卿以下、日本外交当局も「独立党」の支援に傾斜していく。
 こうした両者の利害の一致は「独立党」の日本への接近とともに、日本の「独立党」への接近を促すこととなった。そうした相互力学の中で、「独立党」による武力革命への流れが急速に生じるが、当時の内外情勢に鑑みれば、それは拙速な決起を予感させるものでもあった。


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