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近代革命の社会力学(連載第379回)

2022-02-09 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(5)続く政情不安と残存課題
 フィリピン民衆革命と同年同月に先行したハイチ民衆革命には少なからぬ類似点が認められるが、最大の相違点は、フィリピンの場合、革命後に旧体制の中途半端な継続はなく、完全な政権交代がなされたことである。その点、革命が選挙直後のタイミングで発生したことは革命後の政権発足を円滑なものとした。
 しかし、コラソン・アキノ新政権は元来、反マルコスでまとまった八野党の寄り合い統一組織を基盤としていたところ、マルコス政権打倒の目的を達成した結果、統一組織内の不協和音が鳴り始め、88年には解散された。
 さらに、マルコス派内部から造反した功績で引き続き国防相に留任したエンリレは元来マルコス最側近という出自を持つ異分子であったため、間もなく大統領とも不和となり、辞職した。不和の最大要因は、アキノ政権が共産ゲリラ勢力との和平を追求した点にあった。
 その点は革命時にエンリレが擁護した改革国軍運動にとっても同様であり、彼らはアキノ政権下でも軍内の反対分子となり、成功例はないものの、旧マルコス派とも連携しつつ、たびたびクーデターを起こした。結局、6年間の任期中、アキノ政権は少なくとも7回のクーデター未遂に見舞われるという政情不安が常態化することとなった。
 こうした不安定な政権運営は革命政権にはしばしばありがちのことであるが、政治歴なしの主婦出身というアキノ大統領の指導力不足も大いに影響していた。とはいえ、造反の功績から国軍参謀総長に昇格し、その後国防相も務めたフィデル・ラモスがクーデターの鎮圧に努めたため、政権は任期を全うすることができた。
 アキノ政権は民衆革命によって当選を確定させることができたという点では革命政権の性格を持っていたが、実際のところ、アキノには民衆の代表とは言えない面があった。自身は強力な華人系地主財閥コファンコ家の出自で、暗殺されたことで彼女を政治的シンボルに押し上げた夫の故ベニグノ・アキノも富裕な名士階級出自という点では、アキノ政権は伝統的な支配階級から出ていた。
 そのため、ほとんど首都マニラに集中した86年民衆革命では蚊帳の外にあった農民層は87年1月、首都マニラで大規模な抗議デモを組織し、農地改革を要求した。これに対し、軍が発砲、13人が死亡した事件はアキノ政権下最大の汚点となった。
 政権はこれを機に農地改革に乗り出し、1988年には無産農民の所得向上を図るための総合的農地改革法を施行し、最終目標として約800ヘクタールの農地配分を目指したが、アキノ政権下では170万ヘクタールの配分にとどまった。
 農地改革はその後の政権にも継承されてはいったものの、地主階級の反対で改革は骨抜きにされ、本質的な農地解放には遠く、大地主制がなお残存するほか、農地の小口分配はかえって小土地貧農化を促進した面もあった。
 かくして、86年民衆革命は、時のマルコス独裁体制の打倒という目的は果たし、民主化(正確には、マルコス以前の民主制回復)という成果は得たが、歴史的な宿痾である不平等な社会経済構造全般の変革には届かず、課題を積み残した。こうした限界は上部構造のみの政治革命全般に見られる限界性に通じる。


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