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近代革命の社会力学(連載補遺37)

2022-10-24 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(2)ラナ家専制支配体制と近代ネパール
 1951年立憲革命前、およそ一世紀にわたりネパールを統治したラナ家は元来、インドのラージャスターン地方からの移住者であり、シャハ王朝で代々軍人として奉仕して実力者となり、1846年の政争に端を発した王宮虐殺事件後、実権を掌握した。
 この事件の詳細は省くが、当時弱体な国王に代わって事実上の最高執権者となっていた第二王妃の専制下で起きた熾烈な権力闘争の果てであり、事件を収拾した将軍ジャンガ・バハドゥル・ラナは第二王妃により宰相に任命されるも、返す刀で国王と第二王妃をインド亡命に追い込んで全権を掌握した。
 その後、自ら据えた新国王を傀儡化しつつ、要職を親族で固めて一族独裁体制を確立したジャンガ・バハドゥルは、西欧視察旅行の経験からネパール近代化の必要性を悟り、「国法」(ムルキー・アイン)と称されるネパール初の近代法典を制定するなど、ネパール近代化の先鞭をつけた。
 ジャンガ・バハドゥルは宰相職をラナ家の世襲とすることを国王に認めさせるとともに、19世紀初頭の対英戦争の敗北以来、ネパールの外交を制約していた英国(東インド会社)を体制保証人とすべく同盟関係を強め、1857年の東インド会社支配下インドにおける反英大蜂起でも兵力(通称グルカ兵)を提供し、武力鎮圧に助力した。
 以後、ラナ家支配体制はインドが東インド会社支配から英国統治に移った後も、第一次世界大戦やアフガニスタン戦争で一貫して英国に協力したため、この間のネパールは事実上英国の衛星国家あるいは属国であったとみなすこともできる。
 ラナ家専制支配体制は世襲とはいえ、自動的な親子世襲ではなく兄弟世襲を基本としたため、兄弟家系間の権力闘争が流血の政変につながることもしばしばであり、特に20世紀初頭には立憲君主制を志向した時のラナ家宰相が弟のクーデターで失権するというように、一族間でのイデオロギー対立も見られた。
 その後、英国との関係性に関しては、1923年の条約によってネパールの独立性が明確に承認されたが、その後もラナ家支配体制の親英路線は不変であり、第二次大戦に際しても、ネパールは連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、日本ともビルマ戦線で交戦した。
 第二次大戦後にインドが独立すると、1950年にはインドとの間に平和友好条約を締結、両国間でのビザなし渡航や相互に自由な居住・労働・財産取得・通商などを認め、事実上インドとの一体性を強化する親印政策へ赴いた。
 しかし、この条約は一見した対等性の中にインドに有利な要素が含まれており、ネパールでは不評であった。そのことが主因ではなかったにせよ、条約締結の翌年の立憲革命でラナ家支配体制は終焉した。
 こうして、ラナ家支配体制の新たな保証人となるかに思われたインドはネパール立憲革命にも間接的に寄与しており、インド独立という第二次大戦後の南アジアにおける地政学的大変動は、ネパール立憲革命の背景としても、重要な意味を持っていた。


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