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近代革命の社会力学(連載第318回)

2021-10-26 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(2)ファシズム体制の遷延と限界
 ポルトガルでは1910年共和革命の後、民主主義の確立に失敗し、戦間期に経済学者出身のアントニオ・サラザール首相がカトリック保守主義のイデオロギーに基づくファシズム体制―エシュタド・ノヴォ(新国家)―を樹立し、第二次大戦を越えて1960年代末まで抑圧的な独裁統治を続けた。
 この体制下では、「神、祖国、そして家族」というわかりやすいスローガンに象徴されるように、キリスト教会、国家、地主/財閥一族が支配の軸となり、早い段階から、労働組合やそれを支持基盤とする左派政党は厳しく禁圧された。反体制運動は左派右派を問わず、海外にも展開された秘密警察・国際国防警察によって弾圧され、国内はもちろん、国際的にも監視・抑圧された。
 他方、経済的には、フランコ独裁下のスペインと異なり、反共の砦として西側陣営から認知されつつ、戦後の1950年代から60年代を通じて、財閥企業体を通じた重工業化に成功した。
 それが暗転するのは、サラザールが執着した植民地政策である。前章でも見たとおり、アフリカ植民地で1960年代以降、独立戦争が同時的に勃発し、軍事費の増大が財政を圧迫した。
 それまで好意的だった国際社会もポルトガル植民地政策への批判に転じ、経済制裁も科せられる中、1960年代を通じて、ポルトガルが経済的に西欧最貧状態に落ち込むと、抑圧されてきた労働者や学生による反体制運動も活発化してきた。
 すでに首相在任が35年を越え、80歳に近い高齢に達していたサラザールは、1968年、静養中に椅子から転落して頭部を強打、一時意識不明となった。一命はとりとめたものの、意識不明の間に首相を解任され、憲法学者出身で植民地相ほかサラザール政権の要職を歴任してきたマルセロ・カエターノが後任に就いた。
 カエターノはサラザール政権時代の抑圧を緩和し、野党の活動を容認し、限定的な民主化の姿勢を打ち出した。しかし、植民地政策は護持し、むしろ鎮圧作戦を強化した。サラザールは関係者の予想に反して、その後、回復したが、本人は首相解任の事実を知らされないまま、1970年に死去した。
 こうして、「エシュタド・ノヴォ」は1960年代末以降、ポスト・サラザールの限定改革の時代に入ったわけだが、このような中途半端な体制改革の常として、保守派・革新派双方からの挟撃的な批判を受けることになる。
 片やサラザール時代の路線護持を求めるカトリック教会をはじめとする支持基盤の保守派に対し、解禁された社会党などの革新勢力が対峙し、カエターノ政権を揺さぶった。
 ちなみに、1921年創設のポルトガル共産党はサラザール政権下で徹底した弾圧を受けていたが、カリスマ性を備えたアルヴァロ・クニャル書記長のもとで地下活動を続け、60年代には学生運動のみならず、一部国軍将校の間にも支持者やシンパを獲得していた。
 とはいえ、これらの左派政党は長年の抑圧のゆえに十分な大衆的基盤を持っておらず、直ちに革命行動に入れる素地はなかった。そのおかげで、カエターノ政権は不安定化しながらも維持され、植民地戦争に注力することができた。しかし、二代の政権を通じての植民地政策への固執は体制の限界を助長することになる。
 対照的に、スペインでは高齢のフランコ総統がなお健在で、しかも、スペインは元来アフリカにわずかな植民地しか持たず、しかも1968年にはその一つ、西アフリカのギニア領(赤道ギニア)の独立を容認するなど、植民地戦争の圧迫がなかったことは、両体制の終焉を異なるものにした。


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