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近代革命の社会力学(連載第321回)

2021-11-01 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(5)革命の急進化局面と自壊
 救国評議会体制で初代大統領に擁立されたスピノラ将軍の辞職は、革命の急進化に弾みをつけることになった。実際のところ、救国評議会は名目上の軍政機関であり、実権はすでに革命防衛部隊COPCONを率いるオテロ・デ・カルヴァーリョと、首相に就いていたヴァスコ・ゴンサルヴェシュら国軍運動指導者の手中にあった。
 単なる民主化にとどまらない社会主義革命を目指していた彼らは1974年末に長年の禁圧を解かれた共産党と連携しており、同党の指導者であったアルヴァロ・クニャル書記長も無任所相として入閣して、産業の国有化や農地改革などの革命的施策に乗り出していった。
 その下に実行された社会主義政策はソ連をモデルとした産業国有化と農業集団化という定番であり、とりわけ産業国有化は広範囲に断行されたが、長期的な成功の展望には乏しいもので、かえって革命前よりも経済的な後退をもたらした。
 こうした動きを懸念したスピノラ将軍は1975年3月に反革命クーデターに乗り出すが、これは自らが設置に関わったCOPCONによって鎮圧されるという皮肉な結果に終わり、スピノラはブラジルへ亡命した。彼は当地で反政府組織を結成してなおも反革命の機を窺ったが、成功しなかった。
 こうして保守派の反撃をかわした後、カルヴァーリョらは従来の救国評議会を革命評議会に改組し、よりいっそう明確に社会主義革命を推進する体制を構築した。一方で、革命一周年となる75年4月25日に実施された制憲議会選挙では穏健左派の社会党が第一党に躍進した。
 ポルトガル社会党は旧体制下の1973年、政権による弾圧を避けるため、当時の西ドイツで結党された反共左派政党で、その創立者マリオ・ソアレシュ書記長(元共産党員)は革命後、75年3月から8月までに植民地独立交渉担当の無任所相として入閣していたが、路線を異にする共産党との対立は深まった。
 そうした中、ついに1975年9月、対立の緩和を企図したゴメシュ大統領はゴンサルヴェシュ首相の罷免に踏み切った。この罷免は彼の支持勢力の怒りを誘発し、リスボンで大規模なデモが発生したのに続き、同年11月にはカルヴァーリョが主導する急進左派によるクーデターが発生した。
 このクーデターにはカルヴァーリョが率いるCOPCONや特殊部隊が関与していたが、全軍的な支持を得られず、軍内中道派の部隊によって鎮圧され、カルヴァーリョは投獄、COPCONは解体という結果に終わった。
 こうして、1975年は「リスボンの春」の革命プロセスにとって激動の年であったが、この年は共産党を媒介とする軍人主導の社会主義政権という特異な体制がもたらした革命の急進化局面が自壊した年でもあった。
 他方、革命の大きな動因であったアフリカ植民地問題に関しては前進があり、1975年度中にモザンビーク、アンゴラが完全独立を果たした。ただし、両国ともに、マルクス‐レーニン主義を標榜する勢力が独立後の政権を掌握したことで、西側や南アフリカ白人政権に支援された反共勢力との間で長い内戦に突入することになる。
 なお、アジアにおけるポルトガル植民地のうち、東ティモールでは1975年、独立交渉がまとまらない間に急進的独立派勢力が決起し、内戦となったため、交戦を避けるべくポルトガル軍は撤収した。しかし、その直後、領有権を主張するインドネシアが侵攻し、不法に併合したため、独立は2000年代まで持ち越された。

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