ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第47回)

2019-12-03 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(2)イタリア諸邦の革命
 第二次欧州連続革命の口火を切ったシチリアは、第一次連続革命でも舞台の一つとなったこともあり、時のボルボーネ朝両シチリア王国の君主フェルディナント2世は、啓蒙専制君主としてウィーン体制下では比較的リベラルで進歩的な政策を実行していたが、1830年代後半から、再び立憲君主制要求運動に直面した。
 これに対して、フェルディナンドは抑圧で応じたが、47年には南イタリアで民衆暴動が起きたのに続いて、48年1月にシチリアで農民を主体とする大規模な民衆蜂起が勃発した。その結果、フェルディナンドは譲歩し、民主的な憲法の制定と立憲君主制への移行を受諾したが、君主に議会の監督権が留保されるなどまさに妥協の産物となった。
 シチリアの革命に続き、48年3月にはオーストリア支配下にあったミラノとベネチアでも反オーストリアの民衆蜂起が発生し、共和国が樹立された。両共和国は、オーストリアとの戦争に備えてサルデーニャ国王カルロ・アルベルトに援軍を要請した。
 カルロ・アルベルトは第一次欧州連続革命当時、サルデーニャの革命政府と折衝した経験のある人物で、保守的ながらある程度民主的な傾向を持つ君主であった。共和制には反対しながらも、おそらくはサルデーニャへの革命波及を防ぐため、彼はミラノ・ベネチアの両共和国を援助することにした。
 その結果、対オーストリア戦争が開始されるが、カトリック国オーストリアとの関係維持を優先するローマ教皇からは協力が得られず、当初は援軍を出した両シチリア王国も戦線離脱すると、いったん撤退していたオーストリア軍が盛り返し、サルデーニャ軍を破り、休戦協定が締結された。
 一方、革命の波はついにイタリアの特殊領域であるローマ教皇領にも波及した。時のローマ教皇ピウス9世もまた比較的リベラルな人物で、ある程度民主的な憲法を制定するなど、改革姿勢を見せていたが、フランスの二月革命後は革命の波及を恐れ、反動化した。
 48年11月にピウス9世側近で教皇領内務大臣ロッシが暗殺されたのを機に民衆蜂起が起きると、ピウスもいったん革命軍に軟禁された後、49年2月にローマを脱出し、ガエータへ亡命した。こうして、ローマ教皇領でも史上初の市民革命が成功し、ローマ共和国が樹立された。
 さらに当時ハプスブルク分家が統治していたトスカーナでも共和革命が発生した。時のトスカーナ大公レオポルド2世もまた、ある程度民主化に譲歩を示してはいたが、反オーストリア蜂起を抑えられず、49年2月に国外亡命し、共和国が樹立された。このトスカーナ共和国は新生ローマ共和国とも同盟関係を結んだ。
 こうして、イタリア全土の主要な領邦で共和革命ないしは立憲革命が次々とドミノ的に連鎖する状況となったが、オーストリアないしオーストリアに支援された旧体制側の軍事的な反撃に耐えられた革命体制は存在しなかった。
 発端となったシチリアでは、ハプルブルク分家出身の継妃を持つフェルディナンド二世が独力で反撃に出て、49年3月に革命的な国民議会を解散したのに続き、同年4月に一方的に独立宣言したシチリアには軍を送って砲撃するという強硬手段で粉砕した。その後は、国際的孤立を招くほど革命勢力に対する徹底した報復的弾圧を実行した。
 北イタリアでも、後ろ盾のサルデーニャが再開された対オーストリア戦争に敗れ、カルロ・アルベルトが49年3月に退位を余儀なくされると、まず4月にトスカーナ共和国が降伏したのに続き、ローマ、ミラノ、ベネチアの共和国も順次降伏した。
 こうして、イタリア諸邦における連続革命はいずれも一年程度の命脈に終わった。第一次連続革命当時と同様、イタリア半島が分裂状態のままでは、態勢を立て直した強大なオーストリア軍に対抗して革命政権を維持することはそもそも不可能であった。
 とはいえ、サルデーニャ王国はカルロ・アルベルトの退位後も独自的な存在として存続し、やがて島嶼の同王国を起点に本土でもイタリア統一運動が活発化していくことになる。その意味で、イタリアにとっての第二次欧州連続革命は、1860年代に成る統一国家樹立への地殻変動の始まりでもあった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿