ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第268回)

2021-07-24 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐3〉革命三派の抗争とバアス党の台頭
 1958年のイラク共和革命直後の革命政権内の力学において、共産党が伸張し、カーシム首相をはじめ、政権全体が準共産党政権化していったことは、他党派の共産党への反発を強めた。その最初の内爆的現れは、早くも革命翌年の3月、イラク北部の中心都市モースルで発生した武装蜂起であった。
 このモースル蜂起はナセリスト派を中心にバアス党も相乗りする形で発生した大規模な反乱事件であるが、背後でエジプトが糸を引いているものと見られた。これに対する政権の反応は素早く、反乱は4日で鎮圧され、反乱参加者らは共産党武装党員により殺戮された。
 このように、この時期のイラク共産党は独自の武装組織を擁し、一種の解放区である革命市を建設するなど、その増長著しく、多くの反発を買っていたが、モースル蜂起鎮圧後はますますその権勢は強まったのであった。
 しかし、カーシムは基本的に無党派の軍人首相であり、完全な共産党一党支配体制を樹立することは困難な中、元来カリスマ性に欠けるカーシム首相の権威も揺らいでいき、政権に対する他派の反発は抑え切れなかった。中でもバアス党は組織力にすぐれ、次第に武装組織を伴った最大の体制内野党勢力として台頭していく。
 その最初の表れは、1963年2月のラマダーン月(断食月)に発生したクーデターであった。バアス党系の最有力軍人アフマド・ハサン・アル‐バクルが主導したこのクーデターは、共産党系の最有力軍人であったジャラル・アル‐アワカティ空軍司令官の殺害という象徴的な出来事を皮切りに、政権側との2日の戦闘の後、首都制圧に成功、新政権を樹立した。
 カーシム首相は国外亡命を条件に降伏したが、バアス党政権は騙し討ちで、カーシムを略式の銃殺刑に処した。しかし、実質的な裁判なしの「処刑」は事実上の殺害であり、銃殺後の遺体映像がさらされるなど、ラマダーン月にふさわしからぬ苛烈な流血クーデターとなった。
 こうして成立したアル‐バクルを首班とするバアス党政権は早速共産党員狩りの赤色テロを断行、推計で5000人を殺戮したと見られている。こうした反共弾圧措置に反発した共産党は、63年7月、首都バグダードのアラーシド基地を拠点に党員の下士官も加わった反乱を起こしたが、失敗に終わった。この反乱の背後にはソ連があったみなされ、バアス党政権とソ連の間は緊張関係に陥った。
 このアラーシド反乱を乗り切り、共産党を無力化することには成功したバアス党政権であったが、今度は政権内のナセリスト派との間で確執が表面化する。この時期、大統領にはカーシム政権下で失権していたナセリストのアブドッサラーム・アーリフが就いていたが、実権はアル‐バクル首相以下のバアス党に握られ、ナセリストは逼塞していた。
 こうした非対称な力関係を打破するべく、軍部内ナセリスト派が1963年11月に決起、バアス党の権力基盤ともなっていた武装部門・国民防衛隊を攻撃、壊滅させることにより、バアス党政権を打倒した。代わってアル‐バクルから実権を奪ったアーリフ大統領を中心とするナセリスト政権が樹立されたのである。
 この63年11月クーデターはナセリストの決起であったにもかかわらず、エジプトの関与がなく、イラク軍部内ナセリスト派独自の決起行動として実行されたと見られる。
 こうして、1958年イラク共和革命はその後の過程において、共産党・バアス党・ナセリスト派の三派が権力闘争を展開する中、各党派が政変により順に権力を掌握していくことになる。
 ただ、こうした権力闘争はすべて軍部内の党争を軸に展開されていくことが一つの特徴である。これは共産党を含め、当時のイラクの主要党派が軍部内に基盤を持つことで力を得ていたことによる。
 他方、この過程では、汎アラブ主義のエジプトと共産主義のソ連が介在し、互いに糸を引いており、政変にも何らかの支援的関与があったと見られるが、こうした外国勢力の思惑が絡んだパワーゲームが戦われたことは、革命の自律的な展開を妨げたであろう。
 このパワーゲームはアーリフ大統領が66年に航空機事故で死亡し、兄で同じく軍人のアブドッラフマーンが跡を継いだ後もなお続くが、最終的な勝者となるのは、雌伏の後、1968年7月の革命に成功したバアス党であった。この68年バアス党革命については、後に派生章で改めて論じる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | テレビ観戦拒否宣言 »

コメントを投稿