ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

旧ソ連憲法評注(連載第1回)

2014-05-31 | 〆ソヴィエト憲法評注

 ソ連憲法(ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法)は、ソヴィエト連邦自体が解体・消滅した現在、すでに過去の法文献にすぎない。しかし、そこには現在、再び世界の憲法のスタンダードとなった古典的なブルジョワ憲法には見られない特徴も多々認められる。一方で、事実上ソ連憲法最終版となった1977年憲法には、ブルジョワ憲法の影響も認められる。いろいろな意味で、興味深い内容を持つのが、ソ連憲法である。本連載は、そうした旧ソ連憲法を改めて現時点で振り返り、その長短を総決算することを目的とする。
 ソ連憲法は、ロシア10月革命の翌年1918年に制定されたロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法を下敷きにして、ソ連邦結成の2年後、1924年に最初のものが制定された。以後スターリン政権時代の36年(スターリン憲法)、そしてブレジネフ政権時代の77年(ブレジネフ憲法)に大改正され、結果としてこの77年憲法が最後のものとなった。もっとも、ソ連末期ゴルバチョフ政権時代の88年と90年にもいわゆる「ペレストロイカ」の憲法的な担保として77年憲法に実質大改正に近い重大な修正が加わっており、これを含めれば、実質3回(ないし4回)改正されたことになる。
 年代順に並べると、このゴルバチョフ憲法が最終版となるが、これはソ連を社会主義的一党制から資本主義的議会制へ転換していく反革命的な―好意的にとらえれば民主的な―志向性を明確にしたものであったため、いわゆる社会主義的な憲法としては、77年憲法が最終版となるのである。
 その意味で、77年憲法にはソ連型社会主義国家の集大成としてのエッセンスが詰まっている。本連載では、この77年憲法(以下、単に「ソ連憲法」という)を逐条的に評注しながら、その先進性と限界性を明らかにしていく。日本語訳は『新ソ連憲法・資料集』(ありえす書房)の訳文に基づく(一部訳文変更)。

 

前文

 ソ連憲法前文は日本国憲法をはじめとするブルジョワ諸憲法とは大きく異なり、その内容はロシア10月革命の成果とその後の発展の総括・讃美に始まり、ソ連社会の中間到達点と未来展望を発展段階論に基づいてイデオロギシュに叙述する一種の論文の体裁を取っている。相当に長文であるので、ここでは全文表示せず、要約評注するにとどめる。
 一連の文章で記述された前文は大きく歴史的総括・現状認識・未来展望・憲法誓約の四つの部分に分けることができるが、その最初の部分では、「ロシアの労働者と農民が、ヴェ・イ・レーニンのひきいる共産党の指導のもとになしとげた十月社会主義大革命」によって作り出された「プロレタリアートの独裁を確立し、新しい型の国家であり、革命の成果の防衛および社会主義と共産主義の建設の基本的手段であるソヴィエト国家」が内戦と帝国主義的な干渉に勝利したうえ、ソ連邦を結成して「人類の歴史上はじめて社会主義社会がつくられた」ことを謳い上げる。
 その後、ソ連邦は大祖国戦争(第二次世界大戦)にも勝利し、さらなる社会主義的発展を経て、「ソヴィエト国家はプロレタリアート独裁の任務をはたしおえて、全人民国家となった」とされる。
 こうした歴史的総括に基づき、ソ連の現状を「発達した社会主義社会」と規定する第二の部分では、この「社会主義がそれ自身の基礎のうえに発展する段階」の諸特徴が記述される。すなわち、それは「強力な生産力および先進的な科学と文化がつくりだされ、人民の福祉がたえず向上し、個人の全面的発達にとり、ますます好ましい条件がつくられつつある社会」であり、「成熟した社会主義的社会関係の社会」であり、「愛国者であり、国際主義者である勤労者が高度の組織性、思想性および自覚をもつ社会」であり、「各人の幸福についての万人の配慮と万人の幸福についての各人の配慮が、生活のおきてとなっている社会」であり、「真の民主主義の社会」であるとされる。
 こうした現状認識を踏まえ、第三の部分は「発達した社会主義社会は、共産主義への道における法則にかなった段階である」であると規定し、ソヴィエト国家―「社会主義的全人民国家」―の最高目的は「社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設」にあるとする。すなわち、そうした未来の共産主義社会の実現の過程にある中間到達点が「発達した社会主義社会」だということであって、現時点はそのための準備段階にあるとされるのである。
 そのうえで、社会主義的全人民国家としての現ソヴィエト国家の任務を「共産主義の物質的、技術的基礎をつくりだし、社会主義的社会関係を改善し、それを共産主義的社会関係に改造し、共産主義社会の人間をそだて、勤労者の物質的および文化的な生活水準をかため、国の安全を保障し、平和の強化および国際協力の発展を促進すること」と規定する。
 最後に以上の趣旨を理解・実践するソヴィエト人民の憲法誓約で結ばれる。この部分はソヴィエト人民が憲法制定権者であることの宣言ともなっている。
 かくして、ソ連憲法前文の特色は歴史的な総括・現状認識とともに未来展望が明示される点にある。この点、ブルジョワ憲法の内容は本質的に反革命的であるので、このように未来に向けたさらなる発展方向が憲法前文に示されることは通常なく、その意味で静止的・現状保守的なのであるが、ソ連憲法は発展的・革新的な性格を持っていた。
 他方で、プロレタリアート独裁期を過ぎて全人民国家となった現ソヴィエト国家では「全人民の前衛である共産党の指導的役割が大きくなった」とし、共産党の指導性が宣言されている。これが、悪名高い「一党独裁」の典拠でもある。
 このような規定は実のところ、ソ連が立脚していると公称していたマルクスの政治理論に反するばかりか、同じ前文が別の箇所で発達した社会主義社会の特徴の一つを「真の民主主義」だとして「その政治システムは、・・・・・国家生活への勤労者のますます積極的な参加ならびに市民の現実的な権利および自由とかれらの義務および社会に対する責任との結合を保障する」と謳う規定とも自己矛盾するものであった。  

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弄ばれる拉致問題

2014-05-30 | 時評

突然の拉致「再調査」という新展開は、拉致問題が政治外交上の駆け引き材料となっていることを改めて示した。おそらく昨年末の親中派・張成沢氏粛清後の朝鮮側事情の変化であろう。つむじを曲げた中国からの援助途絶で経済苦境が深まり、日本からの経済援助引き出しの必要性が強まった。安倍政権の歴史認識に基因する日韓関係の途絶で、日本を南から北へ引き寄せる好機と見て取ったこともあろう。

一方、安倍政権が従来の強硬な制裁姿勢を修正して、再調査開始だけで一部制裁緩和の方針に転じたのは、生存者確認・帰国の感触を得たことで、問題を一挙解決して消費増税・集団的自衛権問題以降の支持率低下傾向の歯止めと再上昇を狙う好機と見てのことだろう。

2002年の問題表面化以来、膠着、展開、膠着そしてまた展開と二転三転するのは、両当事国ともこの問題を人権問題とはとらえておらず、外交問題という認識の下に、地域冷戦の続く東アジアにおける外交的駆け引きの賭け金として都合よく利用してきたからである。

しかし、この問題は、市民の人身の自由、居住移転の自由そして生命に関わる国境を越えた複合的人権問題である。今度こそ待ったなしで解決を図るべきだが、発表された合意文書はあいまいである。

「包括的解決」をうたうが、第二次大戦戦没者の遺骨収集や日本人妻帰郷と拉致被害者の救出が全部包括されているのはおかしい。それでは拉致が問題の一部でしかないと言っているのと変わらない。重大性と優先順位は明白であり、拉致を最優先とすべきだっただろう。すでに生存者の所在は確認済みと言われる「再調査」にも短期の期限を付けるべきである。

ただ、年月経過と北の医療事情からして物故者がいる可能性も十分あるので、またも虚偽の疑いを持たれないよう死亡事実を明確に証明する方法の決定や、朝鮮国民の配偶者があるなどして帰国が困難な場合の対応も検討しなければならない。人権問題としてとらえるなら、そうした細部まで神経を使うべきものだ。

[追記]
懸念していたとおり、朝鮮側は「再調査」の最初の回答期限とされた時期を過ぎても、明確な回答を示していない。そこへ、拉致問題のヒロイン的象徴となってきた横田めぐみ氏の死亡状況に関する詳細な証言の存在が明らかになった。自ら引き出した証言にもかかわらず日本政府は信憑性なしと根拠を示さず切り捨てるが、証言者はめぐみ氏が収容されていた当時の病院の医療スタッフと見られ、信憑性を無条件に否定できる間接証拠ではない。その内容は公式発表の自殺ではなく、向精神薬の大量投与による謀殺を示唆するものである。政治的な危険分子を精神病院に収容し、薬物投与で行動抑制するという手法は旧ソ連でも見られた政治的抑圧手法であった。旧ソ連の指導を受けた朝鮮でも継承されていて不思議はない。今回、朝鮮側が「総合調査」という新たな変化球を投げてきたのは、めぐみ氏の「病状」を知る人物の脱北で不都合な真実が露見する可能性を見越してのことだったという推測も成り立つ。仮に証言が真実だとしても、そうした秘密警察機関の不正行為の深相は、旧東独が崩壊し、統一ドイツになって旧東独秘密警察の組織的不正が白日の下にさらされたのと同様、朝鮮の現体制が崩壊しない限り、明らかにならないだろう。拉致問題で中途半端にパンドラの箱を開けようとした政府の手法は、ますます袋小路に立たされつつある。(2014.11.12記)

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世界共産党史(連載第9回)

2014-05-29 | 〆世界共産党史

第4章 スターリン時代の共産党

3:人民戦線の樹立と挫折
 スターリン時代のコミンテルンが打ち出した社会民主主義排撃―社会ファシズム論―の誤りは、ドイツ共産党がナチスの政権掌握を結果的にバックアップするという矛盾を露呈したことで、明らかになった。
するとコミンテルンは一転、反ファシズムのための連携―人民戦線―に方針変更した。この方針にいち早く反応したのが、スペイン共産党であった。スペインでは36年1月、共産党と社会党その他の左派政党が選挙協定を結び、同年2月の総選挙で勝利、人民戦線連立内閣を組閣した。
 これに対して、危機感を募らせた保守層・軍部は同年7月、スペイン領モロッコ駐留部隊の決起を契機に人民戦線政府の倒壊を狙った大規模な武装反乱を起こした。以後、反乱軍側をナチスドイツやイタリアのファシスト政権が肩入れし、スペインはピカソの絵画『ゲルニカ』に象徴される凄惨を極める内戦に突入していった。
 人民戦線は元来「反ファシズム左派」という一点でしか一致がなく、分裂していたことから、内紛が多く、反乱への対処も足並みが乱れた。ソ連はこうした不安定な構造の人民戦線政府を統制することに躍起で、効果的な軍事援助がなされない一方、自国軍部を掌握できない戦線側は劣勢に立たされた。
 そうした苦境を支援するため、コミンテルンでは義勇軍として国際旅団を組織して送り込んだが、職業軍人で構成された軍部の大半が左袒した反乱軍を圧倒することはできず、3年余り続いた内戦は反乱軍側勝利に終わり、反乱軍指導者として台頭していたフランコ将軍の軍部ファシスト体制が樹立された。フランコ政権は人民戦線派を大量処刑し、共産党は非合法化される。
 同時期に成立したフランスの人民戦線政権(共産党は閣外協力)はスペインのような軍事反乱には直面せず、議会政治の枠内で通貨政策や労働政策の分野で一定の成果も見せたが、スペイン内戦への対応をめぐり強力な支援を主張する共産党と中立を主張する連立与党の中産階級政党との溝が深まり、スペインの人民戦線政府より先に崩壊した。
 同様の人民戦線政権が比較的長続きしたのは、大陸を越えた南米チリのそれであった。大統領共和制を採るチリでは38年以降、人民戦線系の大統領が三代にわたり続いたが、東西冷戦の開始後、南米の共産化を恐れるアメリカの圧力により、48年にチリ共産党が非合法化されたことをもって人民戦線政権時代は終焉した。
 ちなみに、中国では37年、一度は決裂していた共産党と国民党が盧溝橋事件を機に抗日共闘を目的として再び連携した(第二次国共合作)。通常これは人民戦線のうちに数えないが、ファッショ的な傾向を帯びた軍国日本による帝国主義的侵略に対抗するイデオロギーの違いを超えた連携という点では、中国版人民戦線―まさに文字どおりの戦線―と言える面があった。しかし、この「合作」は欧州の人民戦線以上に危ういものであり、日中戦争中から早くも両党の衝突は始まっており、戦後には本格的な内戦へと転じていく。
 コミンテルンの人民戦線方針自体も39年、世界を驚愕させた電撃的な独ソ不可侵条約の締結をもって失効した。ここにも、思想的な軸が一定しないスターリンの日和見な―よく言えば状況判断に優れた―性格が見て取れよう。

4:対独レジスタンス
 ナチスドイツは独ソ不可侵条約以後、ソ連の事実上の黙認を得て欧州諸国を広範囲に侵略していくが、ナチスドイツの侵略を受けた欧州諸国の共産党は、その貢献度に相違はあれ、対独レジスタンスに挺身していく。中でもユーゴスラビア共産党が組織したパルチザンはその成功例である。
 ユーゴスラビアはナチスドイツだけでなく、枢軸同盟に参加していたイタリア、ハンガリー、ブルガリアの総攻撃を受けて解体占領され、枢軸勢力による過酷な分割統治下に置かれた。これに対して、チトーの率いる共産党を中心とするパルチザンが組織され、41年以降、武装抵抗活動を開始した。このパルチザンは独自の海軍・空軍部門まで備えた本格的な軍事組織であり、ほぼ独力で解放戦争を戦い、目的を達成、そのまま政権を掌握した。
 同様のレジスタンス運動は隣接するアルバニアにも波及し、ここでもエンヴェル・ホジャを指導者とするアルバニア共産党が結成され、ユーゴスラビアのパルチザンの支援を得ながら、解放を達成、政権を掌握した。
 ギリシャでも、共産党を主要な核とする対独レジスタンス組織として民族解放戦線が組織され、自力での解放を達成した。しかし、ギリシャのレジスタンス組織はユーゴ、アルバニアとは異なり、スターリンの意向に従い政権掌握には至らなかったが、戦後、政府との内戦に陥り、これが東西冷戦の契機として利用されることとなった。
 一方、ナチスドイツの東欧侵略の橋頭堡となったチェコスロバキアでは戦間期、ドイツと同様に共産党が議会政治に野党として地歩を築いていたが、ドイツによる解体・占領後は非合法化され、弾圧された。難を逃れた共産党員は対独レジスタンスに参加したが、ここでは自力での解放には至らず、ソ連の占領の下で「解放」されるにとどまった。
 ポーランドなどナチスに蹂躙された他の東欧地域でも共産党は対独レジスタンスに加わるが、自力で解放するには至らず、連合国の勝利後、ソ連による軍事占領下での「解放」というプロセスの中で、ソ連の傀儡政党として政権に就けられるケースが多かった。このことが、戦後東西冷戦の伏線ともなっていく。
 他方、「モスクワの長女」フランス共産党は、独ソ不可侵条約締結後「反ファシズム」を取り下げ、「反仏帝国主義」を打ち出すなど、相変わらず忠実な長女の役を担っていたが、フランスがナチスドイツに侵略されると、対独レジスタンスを開始し、ド・ゴール将軍の抵抗運動とも連携しながら、解放に貢献した。

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世界共産党史(連載第8回)

2014-05-28 | 〆世界共産党史

第4章 スターリン時代の共産党

1:スターリンの党支配
 ソ連共産党では、党創設者レーニンが1924年に早世し、トロツキーとの跡目争いを制した側近のグルジア人スターリンが後継者の椅子に座った。こうした経緯からみても、ソ連共産党には指導部を民主的に選出する気風が当初から乏しかったことは明白である。
 そうした非民主的な党運営をいっそう推し進めたのが、スターリンであった。彼は革命前からの古参党幹部であり、レーニン側近として早くから頭角を現していたが、その性格は官僚であり、実際スターリン時代に確立される党内官僚制を自ら体現する人物であった。
 彼は実務能力や権力闘争には長けている反面、思想的には凡庸であり、共産党の党理念を深化させるような貢献は何一つしなかった。その代わり、彼は共産党の独裁支配をいっそう強固にするとともに、自らの権力基盤を固めるため、秘密警察を使った大量粛清に走った。権力掌握後、追放した政敵トロツキーを遠く亡命先のメキシコまで追跡し、刺客を送り込んで暗殺した。
 トロツキーの非業の死は、スターリン主義と対立するトロツキストの有力分派を生み、各国共産党内部での粛清を伴う激しい党内抗争の火種となっていく。
 こうした暗殺をも辞さない公安・諜報機関に依拠する権力装置の土台はすでにレーニン時代に出揃っており、スターリンはレーニンのやり方をいっそう極端化したものであった。その点で、レーニンとスターリンとを峻別し、スターリンがレーニンの正しい路線を歪めたとの評価は公平とは言い難い。
 スターリンはまた、西欧主要国でいっこうに社会主義的な革命が発生しない現実に鑑み、インターナショナリズムよりもナショナリズムの追求に舵を切り、折から巻き込まれた第二次世界大戦の対ドイツ戦では、国民の愛国心を強力に鼓舞して軍国体制を築き、自らの独裁固めにも巧みに利用した。
 スターリンは1953年に死去するまで、大戦をはさんでおよそ30年にわたり独裁体制を維持したが、この間、ソ連が急速な工業的発展を見せ、軍事的にも強勢化して米国と肩を並べる大国に浮上したことも事実である。
 スターリン時代に確立された強固な一党支配に基づき、国家に資本を集中させてある程度計画的に生産活動を推進する国家資本主義による上からの集中的な経済開発は、遅れた農業国を比較的短期間で工業国に押し上げるうえでは、一つのモデルともなったのである。
 しかし、それは本来民主的で、平等な共産主義社会の実現とは程遠い、特権的な党官僚が支配する警察国家体制を代償として固定化することになり、ソ連やその影響下にある諸国を抑圧的な監視社会に導いていった。そのことは、共産党のイメージを大きく汚すことにもなった。 

2:スターリン主義の波及
 コミンテルンの創設以来、世界の共産党はロシア共産党改めソ連共産党を事実上の司令塔として結成・運営されるようになっていくが、そうした統制はスターリン時代にいっそう強まる。「革命の輸出」ならぬ「スターリン主義の輸出」である。
 最初に明確な波及現象が見られたのは、世界で二番目の社会主義国となっていたモンゴルであった。モンゴルの支配政党・人民革命党は民族主義者と社会主義者の合同政党であったことからしても、当初は比較的柔軟な路線を採ったが、スターリン政権発足後、ソ連の干渉が強まり、国教の地位にあったチベット仏教弾圧や農業集団化などスターリン路線に沿った強権統治が始まる。
 そして、1936年にモンゴルの事実上の最高実力者となったチョイバルサンは「モンゴルのスターリン」の異名を取るほどスターリンと歩調を合わせ、自らも秘密警察を使った粛清で独裁体制を確立していった。彼はスターリン死去の前年に没したが、まさにスターリンと同時期に並び立った小スターリンであった。
 スターリン主義の影響は西欧諸国の共産党にも及ぶ。中でもフランス共産党は「モスクワの長女」と称されるほどにスターリン主義に忠実であった。その指導的人物は1930年から64年まで30年以上党書記長の座にあったモーリス・トレーズである。
 一方、戦間期のドイツ共産党は議会政治で一定の地歩を築いていたが、当時スターリン支配下のコミンテルンでは革命を放棄し、穏健化した社会民主主義をファシズムと同視する「社会ファシズム論」なる敵視政策により、排撃する方針であったことから、社民党が強力だったワイマール体制下のドイツ共産党はこうした社会ファシズム論の実践機関となった。
 その結果、ドイツ共産党は反社民党という一点では、台頭してきたナチス党とさえ手を組む矛盾に陥り、ナチスによるワイマール立憲体制破壊とナチス体制の樹立に図らずも手を貸し、自らもナチスにより弾圧・解体される結末を迎える。
 こうして、スターリン主義の影響はコミンテルンを介して各国共産党に波及していき、成功した共産党組織をスターリン流の首領的指導者が君臨支配する権威主義的な党として性格づけていく。

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世界共産党史(連載第7回)

2014-05-22 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

3:日本共産党の結成
 日本ではマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』が1904年に幸徳秋水と堺利彦共訳で発表されたが、当局の出版統制は厳しく、直ちに発禁処分となり、幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を謀ったとして処刑された1910年の大逆事件以降は太平洋戦争終了後の民主化まで禁書とされるなど、共産主義思想の抑圧は戦前日本支配層の根本施策であった。
 そうした厳しい環境の中、堺利彦らを中心に1922年、日本共産党(第一次)が結成され、間もなくコミンテルン支部として認証された。しかし草創期の日本共産党はまとまりが悪く、抑圧の中を生き延びるだけの結束力に欠けていたため、綱領も定められないままわずか2年でひとまず解散となった。
 他方、当局側もロシア革命後の状況を踏まえ、25年には明白に共産主義思想・運動に取締りの照準を定めた治安維持法を制定し、思想統制の強化に努めた。そうした抑圧の増す環境下で、26年に党は再建された。この第二次党は第一次党より純粋な共産主義者の党を目指し、27年にはコミンテルンの指導で準綱領的なテーゼ(27年テーゼ)が策定された。そこでは、党の焦眉の義務は革命よりも大日本帝国の中国侵略・戦争準備に反対する闘争にあると規定された。このことは、日本共産党が反戦平和の党としての性格を強く帯びていく契機となった。
 とはいえ、治安維持法下ではあくまでも非合法政党であることに変わりなく、地下組織ではなく政党として存続していくためには、党員は他の左派系合法政党に加入して宿借りをするほかなかった。その結果、28年の第一回普通選挙では共産党推薦の候補者が当選するなど、合法的選挙の枠内で一定の成果を見せ始めた。
 この事態に敏感に反応した当局は、同年、共産党員を中心に合法政党であった労農党員まで含むおよそ1600人を一斉検挙する大弾圧を加えた(3・15事件)。これを突破口として翌年には、共産党員約5000人が検挙され、党は事実上壊滅状態となった(4・16事件)。この後の日本共産党はやみくもなテロ戦術による武装闘争路線をしばらく迷走することになる。

4:朝鮮共産党の苦難
 朝鮮の共産党は日本以上に厳しい制約下に置かれた。朝鮮共産党は日本統治時代の25年、コミンテルン支部としてソウルで極秘に結成されたが、翌年、日本の帝国主義支配に反対する大規模なデモ行動計画「6・10万歳運動」が未然に摘発されたことをきっかけに朝鮮総督府の大弾圧を受けた。
 検挙を免れた党員らは民族主義者との連携を目指し、27年に共産主義者と民族主義者の連合組織として「新幹会」を創設する。当時日本の統治下にあった朝鮮では共産主義革命どころではなく、まずは日本からの独立達成が先決であったことから、こうした連合はタイムリーなものであった。
 ただ、この組織はモンゴルの人民革命党のように正式に合同政党化することはなく、分権的なネットワーク型運動組織にとどまっていた。そのうえコミンテルンが28年、弾圧と分派闘争により朝鮮共産党組織は消滅したと一方的に認定したことから、コミンテルンが公式に認証する朝鮮共産党組織は存在しないことになり、事実上解体し、これに伴い新幹会も31年に解体された。
 この後、朝鮮共産党は半島地域よりは取り締まりがいくぶん緩やかだった満州や日本の支部組織レベルでしばらく存続するが、それらもコミンテルンの画一的な「一国一党」方針により順次現地国の共産党組織に吸収されていった。
 こうして、朝鮮共産党は宗主国日本の徹底した弾圧政策とコミンテルン―実態はソ連―の画一的な統制方針とによる外部的制約にさらされ、いったんは消滅していったのであるが、実質的には満州にまたがる半島北部で日本からの独立を目指すゲリラ活動(抗日パルチザン)という民族主義的な形態をまとって潜在していくとも言える。

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世界共産党史(連載第6回)

2014-05-21 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

1:草原の国の革命党
 1919年のコミンテルン結成後、欧州各国に共産党が結成されていくが、ロシア共産党のように革命に成功して政権党に就いたものは、ごく短期間革命政権を担ったハンガリー共産党を除けば、一つもなかった。そうした中、マルクスも予想しない意外な場所に成功した革命党が現れた。モンゴルである。この草原の国は1924年、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義国家となるのであった。
 ロシアからモンゴルへという革命の波及は飛躍のようにも見えるが、そこには十分地政学的な伏線があった。モンゴルは長く中国清朝の支配下に置かれていたところ、1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを機に、外モンゴル地域がいったん独立を回復した。これは中華民国と帝政ロシアも加わった15年のキャフタ条約で、「自治」という後退した形で承認された。
 しかし、1917年のロシア革命後、中華民国が外モンゴルの支配回復に乗り出し、自治を廃止した。それも束の間の21年、今度は折からのロシア内戦における反革命白軍派武装勢力が侵入し、圧政を敷いた。ここから、モンゴルは図らずもロシア内戦に引き込まれることになったのだった。
 この過程で21年、ロシア革命に触発された民族主義者と社会主義者の二つの革命結社が合流してモンゴル人民党を結成した。この党が中心となり、ロシア赤軍の援助の下、21年にロシア反革命派軍閥支配からの独立革命に成功したのだった。
 その結果成立した革命政府は活仏ボグド・ハーンを元首とする立憲君主制であったが、ハーン死後の24年、社会主義共和国へ移行した。人民党はコミンテルンの助言に従い人民革命党と改称して以降、共和国の支配政党となり、曲折を経て親ソ政策の忠実な履行者として、モンゴルをソ連の衛星国の地位に導いた。
 このように、人民革命党は独立革命から社会主義化まで主導するという稀有な一貫性を示した。この党はソ連共産党同様の独裁政党に就き、マルクス‐レーニン主義を党是とするようになっても共産党を名乗ることはなかった。それは民族主義者と社会主義者の合同という沿革による制約であった。
 こうした他名称共産党の実例は、後に中・東欧の幾つかの国でも、共産党を名乗らない合同政党結成の先例となるとともに、中・東欧にもモンゴル型衛星諸国が樹立される先例をも作ったのだった。

2:中国共産党の結成
 コミンテルンは東洋の大国・中国にも共産党を産み落とした。すなわち1921年、陳独秀や毛沢東ら北京大学のマルクス主義者を中心に、公称でも57人というわずかな人数で共産党が結党された。
 当時の中国では、孫文の民族主義政党・国民党がボリシェヴィキの影響を少なからず受け、コミンテルンに接近していた。そのため、全くのマイナー政党だった中国共産党はコミンテルンからも国民党との協力を要請された。北京軍閥政府への対抗策として実現した24年の第一次国共合作はそうした両党連携の最初の試みであった。
 しかし、孫文を継いだ軍人の蒋介石は反共主義であり、27年には上海でクーデターを起こし、共産党と国民党内の容共派を排除したことで、国共合作はひとまず崩壊する。その後、中国領土の侵略を進める大日本帝国との戦いの中で、国民党との合作が再び試みられるが、結局、中国ではモンゴルのように民族主義者と共産主義者が合同政党を結成することはなく、このことが後々国共内戦と大陸・台湾の分断につながっていく。
 さて、中国共産党はコミンテルンの産物ではありながら、次第に独自の路線を歩み始める。その中心となったのが毛沢東であった。他の共産党幹部とは異なり、ソ連留学経験を持たなかった彼は、中国民衆が圧倒的に農民で占められている現実に鑑み、労働者より以上に農民の利益を基盤に、農村を革命根拠地とする独自の理論を抱懐していた。
 毛はこの持論に基づき、制圧した農村根拠地で地主・富農の土地を接収し、貧農に分配する土地革命を実施していくが、こうした毛の実践は当初、親ソ派の党主流からは異端視され、32年から33年にかけて、毛はいったん党指導部を事実上追われることになるのであった。

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裁判員制度五周年

2014-05-21 | 時評

2009年5月の裁判員制度施行から今日でちょうど5年。この間、裁判員選任手続への出席率が年々減少を続け、初年度の40%から本年度は3月現在の集計で25%まで低落した。

こうしたデータをみると、裁判員制度は所期どおりに機能しておらず、ジリ貧状態とも言えるが、実はこの状態こそが、所期の成果なのである。どういうことか。

以前拙論の中で、裁判員制度は罰則付きで広く国民に動員をかける形をとりながらも、実際上司法当局としては相当数の辞退者・拒否者が出ることを想定して、それらの者は深追いせず、積極的な協力姿勢を示す候補者だけをピックアップして翼賛的な「少数精鋭主義」で制度を運用しようとの方針を持っているのではないか、と指摘した。

7割以上の裁判員候補者が選任手続に出席しないという現状は、まさにこうした「参加司法」ならぬ「翼賛司法」が実現されつつあることの結果である。であればこそ、裁判員経験者向けのアンケートでは実に95%が「よい経験だった」と回答している事実をもって、当局は制度運用はおおむね順調と評価しているのである。

これは、決して当局の強弁ではない。他人を裁き、刑罰を下すことを「よい経験」とする応報主義的な価値観の協力的な裁判員だけを擁して粛々と被告人を断罪していく現状は、たしかに市民感情を反映した「犯罪との戦い」のイデオロギー装置である裁判員制度本来の狙いどおりと言えるからだ。

制度反対運動の側では、出席率の低下をもって制度破綻・廃止への道と認識する向きもあるようであるが、事実は逆で、むしろ少数精鋭の翼賛司法制度の完成へと向かっている。このままなら、当局は決して裁判員制度を手放さそうとしないだろう。

もし当局が制度廃止を真剣に検討することがあるとすれば、それは上記拙論でも触れたように、辞退者・拒否者が増えるよりも、制度批判派市民が積極的に参加することで(批判的裁判参加)、無罪評決や厳罰回避評決が目立って増え始めたときである。

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「日米共同自衛権」と呼べ(再掲)

2014-05-16 | 時評

昨日、首相直々に解釈改憲による集団的自衛権容認の方針を説明する国民向け記者会見が行われた。それは近時与党・自民党内で浮上してきた「限定的容認論」なる理屈に沿う形をとっていた。しかし、言葉のあやでいかに「限定」しても問題の解決にはならない。それより「集団的自衛権」の正体は「日米共同自衛権」であることを告白したほうが、すっきりする。「限定」された事例としてあげられているものも、専ら米海軍艦船の支援を念頭に置いていることは明らかである。このような主旨は3月の記事「「日米共同自衛権」と呼べ」でも論じたところであるので、ここに再掲するが、共同軍事作戦上の主従関係からすれば、呼び名としては「米日共同自衛権」のほうが適切かもしれない。

・・・・・以下、再掲・・・・・

安倍政権による「集団的自衛権」の解禁に向けた「解釈改憲」の企てが大詰めを迎えている。しかし、政府の法制官僚たちがどのように言葉を取り繕っても、集団的自衛権と憲法9条を和解させることは不可能であろう。

そういう無駄な努力はあっさりやめて、手の内を明かしてしまったほうがよさそうである。手の内とは、従来「集団的自衛権」の名で呼ばれてきたものの正体とは、日米同盟に基づく「日米共同自衛権」のことだという事実である。

「集団」というと通常は最低でも三か国のグループを想起するが、日本の安保論議ではほとんど専ら日米間での共同作戦しか想定されないのだから、「集団」の語は不適切であり、「共同」のほうが妥当である。

ただ、こうした日米共同自衛権ですら憲法上の整合性を取るのは至難である。となれば、ついでに自衛隊の存立根拠も含めて、日米安保条約が日本国憲法に優先するという半ば公然の秘密も明かしてしまったほうが、すっきりするのではないか。

いわゆる憲法学説においては、こうした条約優位論は異端的であるが、国際政治の現実に照らす限り、日米安保条約が憲法9条より尊重されてきたことは明らかであり、「集団的自衛権」の議論もその延長上のことにすぎない。

こうして「憲法に優位する日米安保条約上、日米共同自衛権が認められる」という赤裸々に政治的な「解釈」を政権の見解として打ち出したほうが、大きな波紋は呼ぶだろうが、憲法破りの糾弾をいくらか小さくできる策である。

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世界共産党史(連載第5回)

2014-05-08 | 〆世界共産党史

第2章 ロシア共産党の旋風

3:十月革命から独裁党へ
 ロシア共産党が誕生したのは、レーニンに率いられたボリシェヴィキがロシア革命(十月革命)に成功した翌年の1918年のことであった。この年、ボリシェヴィキは党名変更し―というより、初めて正式な党名として―共産党を公称するようになった。言わば、革命の勝利宣言である。
 ロシア十月革命は同年2月に帝政ロシアを打倒したブルジョワ民主革命(二月革命)から1年も経ずしてブルジョワ革命政府を転覆する新たな武装革命であったから、それをきっかけとして誕生した共産党にも武装革命―批判勢力からは「暴力革命」と称され続けている―のイメージが強く刻印されることとなった。
 このことによって、革命を通じて資本主義体制の転覆と共産主義社会の建設を目指す共産党と資本主義体制の枠内で労働者階級の利益実現を図るにとどめる社会民主党の分岐も明瞭になった。
 革命までの道のりは決して平坦なものではなかったボリシェヴィキ改めロシア共産党であったが、革命後は昇り竜の勢いであった。革命直後こそ旧メンシェヴィキを含む反革命勢力と革命の波及を警戒して反革命勢力に肩入れする外国勢力との内戦・干渉戦に直面し、ロシア全土が荒廃・疲弊した。それでもロシア共産党は権力の座を滑り落ちず、かえって内戦・干渉戦を利用して権力を強化さえし、協力政党も排除して瞬く間に独裁体制を確立する。これによって、共産党と言えば「一党独裁」のイメージが染み付き、批判勢力からは非民主政治の代名詞のように扱われるようにすらなった。
 とはいえ、中央指導部と地方組織の上下関係や、党内統制の諸制度など、ロシア共産党が編み出した党運営のノウハウは、共産党組織のみならず、共産党に反対する他政党の運営にも直接間接に大きな影響を及ぼし、すべての近代的な政党組織のモデルとなったこともたしかである。その意味では、共産党とはおよそ政党組織の代表格とも言えるのである。

4:十月革命の余波
 各国の厳重な警戒にもかかわらず、ロシア十月革命の余波には大きなものがあった。まずは1918年、ドイツでも革命が勃発し帝政が倒れた。この過程で、ドイツ社民党からもローザ・ルクセンブルクらの急進派が分離して、ドイツ共産党が創設された。
 ただ、ドイツ共産党は勢力が弱く、しかもローザの内発的革命論に依拠していたため、権力獲得にも消極的であり、革命後政権を掌握した社民党によって弾圧され、ローザも街頭デモ活動中、政権が動員した民兵組織の手で虐殺された。それでも、ドイツ共産党は生き延び、ワイマール体制下の議会にも進出して勢力を伸ばす一方、たびたび革命的蜂起も試みるが、これはいずれも失敗した。
 一方、いち早く政権党となったロシア共産党は国際的孤立状態を解消するためにも、世界の共産党組織の糾合を図るべく、1919年に共産主義インターナショナル(コミンテルン)を結成した。これに前後して各国での共産党の結成が進む。
 西欧では、フランス(21年)、イタリア(21年)、スペイン(22年)など主要国で共産党の結成が続き、共産主義とは最も遠いかに見える米国(19年)や英国(20年)にすら共産党が誕生したのであった。
 東欧でも、ロシア共産党の派生政党として生まれたウクライナ共産党(18年)をはじめ、ブルガリア(19年)、チェコスロバキア(21年)、ルーマニア(21年)などで共産党の結成が続く。
 ただ、これらの欧米系共産党は当初政権党とはなれず、せいぜいドイツ共産党のように議会に進出し野党となる程度であり、非合法化され、地下活動を強いられる党も見られた。
 ただ、例外的にハンガリー共産党は19年3月、革命に成功し、ハンガリー・ソヴィエト共和国を樹立したが、国民の支持が広がらない中、なりふり構わぬ激しい反対派弾圧が反発を呼び、ルーマニアの軍事介入を受けてわずか4か月ほどで崩壊した。
 他方、ロシア共産党は内戦終結後の22年、ウクライナ、ベロロシア、ザカフカースの三共和国とともに新たにソヴィエト連邦の建国を宣言したことに伴い、25年以降は連邦を束ねるソ連共産党として、領域的にも拡大された支配政党の座を確立していく。
 さらにロシア革命の余波は欧米にとどまらず、遠く東アジアにも及んだが、東アジアにおける共産党結成の動きについては固有の問題があるため、次章に回すこととしたい。

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世界共産党史(連載第4回)

2014-05-07 | 〆世界共産党史

第2章 ロシア共産党の旋風

1:ロシアという歴史舞台
 共産党という名称を明示した労働者政党が最初に現れたのは、意外にもロシアというヨーロッパ東方の大国においてであった。なぜロシアだったのかという問いへの解答は必ずしも容易でないが、実のところマルクス‐エンゲルスは早い段階から、ロシアにおける労働者革命の可能性を一定予見していた。
 例えば、二人は1860年代に出された『共産党宣言』ロシア語版の序文の中で、「もしもロシア革命が西ヨーロッパにおける労働者革命への合図となり、結果両者が相互に補い合うならば」という仮定法で、ロシア革命の先行性を予言していたのである。
 当時のロシアは帝政晩期にあったが、後発ながら産業革命が起こり、伝統的な農業国から資本主義的近代化を遂げようとしつつあった。言わば19世紀末の最も有望な新興国であった。
 それに伴い、都市部には労働者階級が生まれつつあったが、全体としてみれば庶民層の大部分は地方農民であった。帝政ロシア伝統の農奴制は形の上では1860年代に廃止されていたとはいえ、貧農の生活は苦しかった。そこで、ロシア最初の近代的な社会変革運動は農民の利益を重視するナロードニキのような農民社会主義政党が主導し、労働者政党の結成は遅れた。
 当時の帝政ロシアはプロイセン・ドイツを上回る発達した治安機構をもってこうした反体制運動を抑圧したため、対抗上ナロードニキから過激な分派が派生し、皇帝を含む要人暗殺を事とする武装闘争に乗り出すようになった。
 他方で、ロシアからはバクーニンのような異色のアナーキストも生み出した。バクーニンは『共産党宣言』ロシア語版の訳者となるなど、当初はマルクス‐エンゲルスのロシアへの紹介に努め、ロシアにマルクス主義の最初の種をまいた立役者であったが、間もなくマルクス批判に転じ、晩年のマルクスにとって最大の論敵となった。
 制度的なもの全般に否定的であったバクーニンも独自の政党組織の結成には動かなかったが、マルクスらによって除名されるまで、労働者インターナショナル内に支持勢力を保持していた。しかし彼は主に海外で活動したため、ロシア国内での影響力はほとんどなかった。

2:社会民主労働者党の結成‐分裂
 マルクスらは、ロシア革命の予言の中でロシア農村伝来の土地共有慣習が共産主義的発展の出発点となり得るとも見ていたのだが、そうした伝統的な土地共有慣習は、帝政ロシア末期の上からの近代的農地改革政策の結果、急速に解体されていったため、ナロードニキ寄りとも言えたマルクスらの見立てはややくるうこととなった。
 ロシアで共産党の母体組織となる社会民主労働者党が実質的に結成されたのは、世紀が変わった1900年代初頭になってからであった。しかも、それは結党初期から分裂含みの危うい組織であった。
 分裂のもととなったのは、穏健な党内主流派と後に革命指導者として台頭する急進的なレーニンのグループの対立であった。穏健派は当時議会政治で成功を収め、資本主義内部に適応しつつあったドイツ社民党に近い路線を採り、まずはロシアでもブルジョワ民主主義革命の実現を先行させるべきだとの考えに基づいていた。
 対するレーニンは強力な治安機構をもって反対勢力を容赦なく弾圧する帝政ロシアを相手に、武装革命をもって一挙に労働者革命を実現させようという野心的な展望を抱いていた。
 こうして実際の勢力図とは裏腹に、ボリシェヴィキ=多数派を名乗る急進的な党内少数派のレーニン派と党内主流派のメンシェヴィキ=少数派との対立はついに事実上の党分裂に至る。それでもボリシェヴィキはなお共産党を名乗らず、あくまでも社会民主労働者党の枠内での分派の位置づけであったが、すでにレーニンは民主集中制のような後の共産党組織の共通組織規範となる教義や党が労働者革命を指導するという革命前衛理論を確立しようとしていた。
 同じ頃、ドイツ社民党内部でも党の穏健化を「修正主義」と非難して、より急進的な立場を取ろうとするローザ・ルクセンブルクに代表される少数派も出現していた。ただ、レーニンの党指導理念に反対するローザは労働者階級の内発的な革命の必然性を提唱し、レーニンの論敵となっていたため、やはり共産党を名乗ることはなかった。
 このようなロシア最初の労働者政党内部での党争が、間もなく勃発するロシア革命の最中に共産党を産み落とす胎動となったのであった。

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NBA事件―差別の連鎖

2014-05-01 | 時評

NBAに所属する米プロバスケットボールチームのオーナーの人種差別発言による永久追放処分はスポーツ界の単なるスキャンダルではなく、仔細に見ると、なかなか根深い問題を含んでいる。

もし件のオーナー・スターリング氏が一般のヨーロッパ系アメリカ白人であったら、普通の差別事件で終わっただろう。しかし同オーナー自身、本姓トコウィッツといい、被差別民族ユダヤ人の両親を持つユダヤ系アメリカ人であった。今でこそユダヤ系アメリカ人は大きな発言力を持つが、氏が弁護士資格を取得した1960年代初頭、ユダヤ系では就職に不利で、氏も大手法律事務所に就職できず、離婚専門弁護士という下積みから始めざるを得なかったとされる。

その後、氏は不動産業に転じて財を成し、バスケットチームのオーナーにもなったわけだが、自身が経営する賃貸マンションの入居をめぐってアフリカ系やヒスパニック系への人種差別をしたとして連邦政府から訴訟を起こされたり、雇用上の人種差別でも民事訴訟を起こされるなど、相当確信犯的な人種差別主義者のように見える。

このように自ら被差別体験を持つ者が他人を差別するという現象について、筆者はかつて自らへの劣等感が差別行為に転化していく反転的差別、より一般化して被差別者が差別者に転じる差別の連鎖として論じたことがあるが(拙稿参照)、スターリング氏の一連の差別行為はこうした反転的差別‐差別の連鎖の個人的な実例と言える。

ともあれ、今回のように全く私的な場での人種差別的暴言であっても厳正なペナルティーの対象となるという前例を米スポーツ界が示したことは、公民権法確立以後の米国ならではのことと評価できる。

しかし、これでスターリング氏が改心し、沁みついてしまった差別的価値観を捨てるとは思えない。差別が差別を生み出す。そういう根深い差別は教育の力によってしか本質的には解消されない。

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