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近代革命の社会力学(連載第141回)

2020-08-31 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(4)ドイツ‐オーストリア臨時政府の展開
 社会民主労働者党を中心とする革命勢力は、ドイツ革命に先立つ1918年10月30日、従前の国家評議会を正式に臨時政府に格上げした。首班は、社労党のカール・レンナーであった。引き続き、カトリック保守主義のキリスト教社会党との大連立であったから、この時点では、さしあたりブルジョワ民主化を推進することが目指された。
 一方、皇帝カール1世側も、11月3日に取り急ぎ連合国との休戦協定の締結に動きつつ、同日には前回見た連邦国家への移行を宣言して、帝国の解体を阻止しようと躍起になっていた。しかし、休戦協定を契機に帝国軍が解体を始め、これに代わって、労働者から動員された人民防衛軍が組織され、臨時政府の武力組織となりつつあった。
 皇帝にとって致命的な出来事は、外部で生じた。それは、11月9日、隣国ドイツにおける革命の結果として、皇帝ヴィルヘルム2世が退位したことである。これを機に、社労党がカールにも退位を要求、本来は王党派であった連立相手キリスト教社会党も、これに同調したのである。
 カールは曖昧な文言でしたためられた「国事不関与」の声明文に署名したものの、退位は拒否していたところ、1919年1月、レンナー首相から「国外避難」を要求され、イギリスの介入的仲介もあり、3月末にようやく最初の亡命先スイスへ向け、出国した。最後まで退位を明言しなかったカールに対し、臨時政府はハプスブルグ家の資産を没収する法律(ハプスブルグ法)で応じた。
 こうして、オーストリア革命は、全体として無血平和革命でありながら、カールの王権への執着の強さゆえに、帝政打倒・共和革命という点では、隣国ドイツよりも厳しいものとなり、ハプスブルグ家の支配が経済的にも完全に排除される結果となった。
 これに先立ち、臨時政府は、カールの国政不関与声明を受け、暫定憲法を発布していたが、この暫定憲法には、ドイツ系オーストリア(ドイツ‐オーストリア)を新生ドイツ共和国に合併するという統合構想が含まれていた。
 これが実現していれば、オーストリア革命とドイツ革命は合流・収斂し、オーストリアを包摂した統一ドイツ共和国が誕生したはずだが、大ドイツの出現につながるこの統合構想は連合国が拒絶し、ドイツ側もこの構想に消極的だったため、最終的には頓挫する。
 他方、1919年に入ると、隣国ドイツでの急進派の蜂起に触発され、オーストリアでも労働者評議会(レーテ)の運動が活発化してきた。これに対し、同年2月の制憲議会選挙で第一党の座を得て臨時政府を主導する社労党は、穏健なキリスト教社会党との連立関係を維持しつつ、レーテを体制内に取り込む微妙なかじ取りを迫られた。
 その点、「議会制の下での社会主義」を掲げる社労党が採用した目玉政策が、民営企業を国民所有へ移行する「社会化」である。この目的のために社会化準備法を制定し、同法に基づく社会化委員会を設置、委員長にはレンナーと並ぶ社労党の理論的指導者でもあった外相オットー・バウアーが就いた。
 かくして、ドイツ‐オーストリア共和国臨時政府はドイツとの統合を視野に入れつつ、さしあたり、社会化政策を独自に追求することになる。このような展開は、ロシア革命ともドイツ革命とも異なる、まさにオーストリア革命独自のものであり、その成否は、武装革命に代わる平和革命の方法としても、大いに注目されるところであった。


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