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近代革命の社会力学(連載第316回)

2021-10-22 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(4)独立の達成とその後
 1963年に独立戦争が開始されたギニア‐ビサウでは、1960年代末までにPAIGCが大半を制圧し、解放区として統治するようになったが、これに対し、ポルトガル軍も奪回に向け、1968年以降、反転攻勢に乗り出す。
 その切り札として、ベテラン軍人のアントニオ・デ・スピノラ将軍―後年のポルトガル民主化革命後、革命政権の初代大統領に擁立される―がギニア総督兼ギニア駐留軍最高司令官として赴任し、本格的にギニア領の奪回作戦に乗り出す。
 その一環として、現地人で構成された部隊を編制し、言わば同士討ちの形でゲリラ部隊と交戦させる「紛争のアフリカ(人)化」政策を導入した。これはポルトガル人兵士の戦死者を減少させるとともに、現地人を分断し、相互に対立させる心理戦でもあった。
 さらには、ゲリラ戦に対抗可能な海兵隊特殊部隊を投入して、対ゲリラ戦を展開するとともに、1970年代に入ると、空軍も投入し、アメリカのベトナム戦争での戦略にならい、枯葉剤を散布し、ゲリラが潜伏する密林の破壊を試みた。
 こうした軍事作戦と同時に、総督としての地位を兼ねたスピノラ将軍は、ポルトガル支配地域でのインフラストラクチャー整備や現地人への精神的な教化策など、民政面での植民地政策の立て直しも行った。
 こうした宗主国ポルトガルによる反転攻勢に対して、PAIGC側は1972年から独立を見据えて、解放区での人民議会の設立に向けて動き出したが、このように国家権力の樹立が視野に入ってくると、権力闘争という定番の力学が作動し始める。
 PAIGC内部でも、最高指導者アミルカル・カブラルに不満を持つ党内分子が蠕動を初め、1973年1月、ギニア共和国の首都コナクリに滞在中のカブラルを暗殺したのである。この事件の真相、特に背後関係については論争があり、ポルトガル秘密警察の関与を疑う向きもある。
 この説によれば、ポルトガル当局はかねてカブラルの拘束もしくは殺害を狙っており、PAIGC内部の反カブラル分子を買収して暗殺させたとされる。しかし、独立前夜の動乱期の出来事ゆえ、真相は解明されないまま、PAIGC内部の陰謀関与者100人余りが拘束され、PAIGCの内部査問手続きより略式処刑された。
 これはカブラル暗殺を契機とする大量粛清であり、内外で敬重されてきた最高指導者を失ったPAIGCにとっては存亡にかかわる出来事であったが、ポルトガルの思惑にかかわらず、国際社会の後押しも受けた独立の流れが阻害されることはなく、カブラル暗殺から8か月後の1973年9月には、独立宣言が発せられた。
 ギニア‐ビサウは既に独立国家としての実態を備えており、独立革命としては1973年をもって成功したと言える。ポルトガル側はこの宣言を承認しなかったが、翌年4月、本国での民主化革命によりファシズム体制が崩壊したことを機に、独立承認に動いた。
 他方、独立ギニア‐ビサウではアミルカルの弟ルイスが新指導者となり、PAIGC一党支配体制下で初代大統領に就くが、カーボヴェルデとの統合問題と社会主義経済の失敗が新たな政争の種となり、1980年、ゲリラ指揮官出身で、カーボヴェルデ統合に反対のジョアン・ヴィエイラ首相によるクーデターにより、ルイス・カブラルは失権、以後はヴィエイラの長期政権の時代となる。
 この後の過程はもはや独立革命の範疇を離れるが、社会主義を放棄し、構造調整に転換したヴィエイラ政権は1990年代の複数政党制移行後も継続され、同年代末の内戦を機に一時退陣する。
 新たなクーデターの後、ヴィエイラはPAIGCに対抗し無所属で立候補した2005年の大統領選挙で返り咲くも、09年、反対派によるクーデターの渦中、殺害された。
 こうして、成功した独立革命により誕生したギニア‐ビサウであるが、独立後の歩みは順調とは言えず、クーデターや内戦に見舞われ、農業中心経済を脱することもできないまま、今なお世界最貧状況にあるという残念な経過を辿っている。


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