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近代革命の社会力学(連載第51回)

2019-12-16 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(4)オーストリア三月革命
 オーストリアは、ナポレオン帝政崩壊後の欧州において、反革命反動国際同盟ウィーン会議体制の心臓部とも言える場所であり、その実務的な中心人物がオーストリア宰相メッテルニヒであった。そのため、当然にも、国内では革命運動やその他の自由主義的運動を徹底的に抑圧していた。
 それでも、19世紀のマス・コミュニケーションの発達により、フランス二月革命の影響を排除することはできなくなっていた。さらに、強大な軍事力を維持するための財政圧迫に加え、また当時、欧州有数の金融中心地となりつつあったオーストリアでは、フランス二月革命が誘発した金融恐慌による経済的影響が革命の蠕動を促した。
 とはいえ、政治的抑圧が厳しいこともあり、革命の初動は言論の自由を求めるごく穏やかな改革請願であった。しかし、政府の対応が鈍いため、学生を中心とした勢力が議会へ押し寄せ、メッテルニヒ解任と憲法の制定を要求すると、これがウィーンにおける大規模な大衆デモに発展した。
 当時のオーストリア皇帝フェルディナント1世は生来病弱で、政務はメッテルニヒに依存仕切っていたが、革命の予兆を感じると、親政開始のチャンスと見てか、メッテルニヒを罷免したうえ、自ら行幸して言論の自由を公約するなど俄然主体的な動きを見せた。
 罷免されたメッテルニヒはロンドンに亡命したため、宮廷は強力な実務者を欠き、彼に代わる有力な後任者も見当たらない中、フェルディナントはおずおずとある程度民主的な憲法の制定に同意した。しかし、これは二院制議会と納税額に基づく制限的間接選挙を保障するという不十分なものであり、普通選挙を求める民衆の強い不満が再度大規模なデモに発展した。
 フェルディナントはもう一段譲歩し、普通選挙による制憲議会の設置を公約するが、革命の進展を恐れてウィーンを離れ、山間のティロル地方へ国内避難した。一方、革命勢力側も、フランスのようにいち早く共和制を宣言し、臨時政府を発足させるだけの凝集力と組織力を備えていなかったため、中途半端な対峙状況が続いた。
 この間、強大なオーストリア軍は帝国版図のイタリアやハンガリーで発生した革命的蜂起への対応に忙殺されていた。特にハンガリーの革命は大規模で、当初オーストリア軍は鎮圧に失敗し、敗退したほどであった。10月にはハンガリー革命を支持する学生や兵士、労働者らがウィーンで蜂起した。
 このウィーン10月蜂起は、1848年オーストリア革命におけるクライマックスの瞬間であった。革命勢力がオーストリア軍をウィーンから排除すると―この時、フォン・ラトゥール戦争大臣が惨殺されている―、フェルディナント1世は当時オーストリア版図の一部だったモラヴィア(現チェコ)へ再避難したため、革命は成功したかに見えた。
 これにより共和制が樹立されていれば、後世「オーストリア10月革命」と呼ばれていたはずであるが、そうはならなかった。軍はウィーンを撤退しつつも包囲し、反撃の機を窺っていた。10月末には傘下のクロアチア軍を加えて態勢を立て直した軍がウィーン砲撃を開始し、激戦の末、制圧した。
 11月には、鎮圧軍最高司令官を務めたヴィンディシュ‐グレーツを中心とする政府が革命派指導者を即決処刑したうえ、保守派貴族のシュヴァルツェンベルクをメッテルニヒの実質的な後任として首相兼外相に据えた。
 さらに12月には、優柔不断で子もいないフェルディナント1世を退位させ、王権神授説を信奉するフェルディナントの保守的な甥フランツ・ヨーゼフ(1世)を新帝に迎えた。
 これにより、三月革命の限定的な成果であった憲法も破棄され、「新絶対主義」と呼ばれる反動の時代に入る。フランツ・ヨーゼフは長命で、世紀をまたいで1916年まで在位したが、この間、1860年代にはイタリア版図喪失を機に、一定の自由主義を容認する政策に転換している。


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