ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載補遺33)

2022-10-17 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(2)自治の撤廃とロシア白軍の占領
 1915年のキャフタ条約により外モンゴル限定での自治という形で収斂したモンゴル独立革命は、1917年ロシア革命で帝政ロシアが打倒されると、中華民国がモンゴル自治の撤廃と直接統治回復に乗り出したことで、完全に無効化された。
 といっても、時の中華民国は軍閥割拠の分裂状態に陥っていたところ、外モンゴルの支配回復に乗り出したのは、有力軍閥・段祺瑞の配下にあった徐樹錚将軍である。彼は1919年、当時の外モンゴル首都イフ・フレー(現ウランバートル)に進撃し、軍事的圧力によってボグド・ハーンに自治を返上させた。
 これにより、外モンゴルは中華民国にいったん復帰することになるが、この短い中華民国支配の間、当局は仏教徒を抑圧し、独立運動を厳しく弾圧した。しかし、翌年、ロシア十月革命後に勃発した内戦が外モンゴルに接するシベリアにも拡大する中、反革命軍(白軍)の軍閥としてシベリア戦線を指揮していたロマン・フォン・ウンゲルン‐シュテルンベルクが外モンゴルに侵入してきた。
 ロシア内戦の白軍は中央指揮系統を持たず、様々な反ボリシェヴィキ勢力がそれぞれの首領を立てて個別蜂起しており、ウンゲルンもそうした一人であった。彼は帝政ロシア時代の職業軍人としてシベリアに駐留した経験から、モンゴルを含む極東情勢に通じ、関心を持っていたため、極東からボリシェヴィキに反撃する戦略を抱いており、外モンゴル攻略もその一環であった。
 これに対し、軍閥割拠の中、充分な防衛態勢を取れない中華民国軍は効果的に反撃できず、1921年にはウンゲルン軍が外モンゴルを占領した。ウンゲルンは改めてボグド・ハーンを復位させたため、表面上はモンゴルの独立が回復されたかに見えた。
 こうした行動から、ウンゲルンはモンゴルの解放者としていっとき歓迎されたが、ドイツ系ロシア人貴族(男爵)ながら、チンギス・ハーンの孫バトゥ・ハーンの血を一部引くと主張するウンゲルンは帝政ロシアの復活にとどまらず、モンゴル帝国の復活、または「仏教徒十字軍」による西欧支配といった誇大妄想的な夢を抱いていた。
 ウンゲルンは外モンゴルの内政にはさほど干渉しなかったものの、ロシア内戦の帰趨が赤軍の勝利に傾く中、事実上の独立軍閥勢力と化していたウンゲルンの軍事占領下に置かれた外モンゴルでは、その冷酷さから「狂人男爵」の異名も取ったウンゲルンの秘密警察による弾圧や殺戮が横行し、モンゴル人の信を失うのに時間はかからなかった。
 このように、自治を喪失した後の外モンゴルは辛亥革命後の中国内戦と十月革命後のロシア内戦という二つの隣接大国の内戦によって挟撃される状況に置かれたが、そうした地政学的に困難な状況が改めて再独立革命へ向けた力動を作り出すことになる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 前の記事へ | トップ | 近代革命の社会力学(連載補... »

コメントを投稿