ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

老子超解:第一章 宇宙の四大

2012-02-19 | 〆老子超解

哲理篇

一 宇宙の四大

何か混沌とした物があり、天地より先に生じていた。音もなく茫漠とし、独立不変、周行してとどまることもない。それこそ天下の母体と言うべきである。私はその名を知らないが、仮に道という。強いて真に名づければ大という。大であればここから果てしなく広がり、果てしなく広がれば遠ざかり、遠ざかればまたここへ還ってくるのだ。
かくして道は大、天も大、地も大、人も大である。域中(大宇宙)にはこの四つの大があり、人はその一つに位置を占める(にすぎない)。人は地を範とし、地は天を範とし、天は道を範とし、道は自然を範とするのである。

  

 通行本では第二十五章という位置づけになるこの章には、老子の世界観が簡潔に集約・総括されている。それゆえ、本連載ではあえて冒頭に移置した。
 老子は道・天・地・人をもって宇宙を組成する四つの要素=四大[しだい]に数えている。こうした四大思想は、中国伝来の木・火・土・金・水の五行思想と大きく異なるものである。
 四大の筆頭に来る「道」は老子最大のキーワードであるが、これを「タオ」と読んで老子=タオイズムという公式を立てる欧米現代思想流の解釈には与しない。
 といって和訓で「みち」と読むと、老子が「道」という語で言わんとするところからかけ離れてしまうので、以後、本連載では特に断らない限り、「」と斜体で表記したうえで「トウ」と音読みすることにしたい(行論上、「みち」と訓む場合はその旨を明示する)。
 かかるとは何かということに関しては、これから随所で様々に語られていくが、老子は言葉に固定的な定義なるものを与えないため、について定義づけることは不可能である。そもそも「」という語自体、仮の名づけにすぎないというのである。
 ただ、本章で述べられているところからすると、は天地より先行する何か混沌・茫漠とした物であって、それは天下の母体であるという。
 この点で想起されるのは、「物質」を意味する英語matterがラテン語で「母」を意味するmaterの派生語であるmateriaに由来するという事実である。老子の「」を、まさにこのような母なる物、言わば大文字で始まるMatterと通約してみると、そのイメージが把握できるかもしれない。
 このような大文字のMatter=にあえて現代的な知見をあてはめるならば―必ずしも正しい方法論とは言えないが―、初期宇宙のようなすべての物の始原を指し示すものと言えるかもしれない。
 従って、四大の最上位に位置するのはなのであって、この点でも中国思想伝来の天を頂点とする世界観とは異なっている。
 ただ、本章末尾では自然を範とすると述べられており、これなら窮極的な第五の要素として「自然」が考えられているようにも読めるが、「無為自然」という道家思想のキーワードにもかかわらず、老子は「自然」という語をめったに用いないので、この箇所は「=自然」という定式化が生じた後世になって注解的に書き加えられた可能性もある。
 こうしたを頂点とする四大の階層序列の中で、人は最下位の位置づけである。このことは、老子が人間を軽視していることを意味しない。それどころか、後に見るように、老子にはある種ヒューマニズムのモチーフが認められる。
 しかし、老子は人間を「世界‐内‐存在」(ハイデガー)どころか、より広汎に「宇宙‐内‐存在」として把握しようとしている。その意味で、老子は人間中心主義を拒否し、最終的にはに同ずることを人間存在の理想のあり方とするのである。
 

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老子超解:序文

2012-02-18 | 〆老子超解

序文

 本連載は独異な中国古典哲学書『老子』を過去の古典としてではなく、現在を超克し、新たな未来の地平を拓くアクチュアルな革命の哲学として大胆に読み直そうとする企てである。
 『老子』は、しばしば東洋的神秘思想の晦渋な奇書として扱われるが、本連載ではそうした神秘主義的解釈には与しない。むしろ『老子』をより世俗的・実践的ですらある革命思想として読み解いていく。
 他方、『老子』はポスト・モダンの欧米思想界において、いわゆるニューサイエンスの隆盛の中で、「タオ(道)イズム」という把握のもとに新たな脚光を浴びた時期もあったが、本連載はこうした疑似科学的な一種オカルティズムに『老子』を援用することも拒否する。この点では、2000年以上も遡る時代に現れた『老子』の古典性を直視し、同書を現代的神秘思想に仕立て上げようとする恣意的解釈にも与しないのである。
 では、『老子』のアクチュアルな革命の哲学としての意義はどんなところに見出せるのか。その具体的な抽出は各章の解釈に委ねていくとして、ここでは総論的に述べておこう。
 それはまず、『老子』が現代世界を形作る三つの教条、すなわち合理主義・実証主義・現実主義の対極で思考しようとしていることである。
 この三つの教条とは、要するに倫理学・科学・政治経済学という三つの主流的学術に対応するが、これらの学術の隆盛は形而上学としての哲学の没落をもたらし、思考の凡庸化・陳腐化を結果している。
 これに対して、『老子』の思考は形而上学のさらに上を行こうとする。言わば超形而上学である。逆に言えば、現代世界とは徹頭徹尾反老子的世界であると言ってよいのであるが、それだけに『老子』は今、最も根源的な批判哲学を提供し得るのである。
 このことは、『老子』が神秘思想としてとらえられがちなゆえんでもあるが、繰り返せば本連載ではそうした神秘主義的解釈を拒否する。
 実際、『老子』の通行本全81章の構成をよく見ると、極めて深遠な内容の哲学が開示される部分と、一転して実践的な政論が展開される部分とに大別できることがわかる。そこで、本連載では通行本で上篇37章と下篇44章に分ける構成を廃し、哲理篇47章と政論篇34章という筆者独自の構成に組み換えて注解していく。
 これにより、しばしば「老荘思想」としてひとくくりにされる後発書『荘子』との相違が明瞭となる。『荘子』はたしかに『老子』と系譜的なつながりを持つが、決定的に異なるのは『老子』のような政論を伴わないことである。『荘子』は神秘性・宗教性が一段と濃厚である。そのため、本連載は「老荘思想」というくくり方を拒み、『老子』を老子固有の哲学として読み解いていく。
 ところで、『老子』の叙述形式に関する魅力的な特色は、韻を踏む詩文の形で展開されることである。この点では、有名な「子の曰く」の書き出しで始まる儒教のバイブル『論語』とは好対照である。
 しかも『老子』は時折一人称の語りが混じる教説詩の形をとる点でも、師の講説の形で語られる『論語』とは大いに異なる。教説詩という形式の点ではソクラテス以前の哲学者、特に内容的には老子と好対照とも言える存在論を説いたパルメニデスに近いと言えるかもしれない。
 『老子』の各断章には様々な教説が含蓄されているが、それは『論語』や叙述形式の点では『論語』の社会主義版とも言うべき『毛沢東語録』のように、一人の偉大な思想家の権威的な語りとして展開されるのではなく、小さなつぶやきのような詩の形で語られるのである。言わば、大文字の〈主体〉なき語りである。
 このことは、そもそも『老子』の原著者とされる老子その人が伝説的な人物であって、実在性も確証されない影のような人物であることによっていっそう倍加されている。
 おそらく、書物としての『老子』は名も無き一介の在野哲学者が残した何らかの断片的草稿もしくは口述筆記をもとに、後世の人々が徐々に書き足して一応今日の通行本のような形で完成された集団的創作の所産であるに違いない。
 そうした集団的な語りとしての『老子』は、「著作権」なる観念にとらわれない思考の共産・共有という未来の思考のあり方にも強い示唆を与えるものと言えるのではないだろうか。
 さて、前口上はこれくらいにして、早速次回より『老子』の世界に没入していこう
 

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先進国型失敗国家への道

2012-02-05 | 時評

日本が失敗国家になる━。

といっても、日本国債が大暴落する日のことではない。半世紀後、人口減の超少子・超高齢社会に到達した日本のことだ。

先般、国立社会保障・人口問題研究所が明らかにした近未来予測はすでに専門家たちがかねて警告していたことの集大成にすぎないとはいえ、改めて衝撃を与えた。人口減の超少子・超高齢社会とはどんな社会か。

まず生産年齢人口が激減するため、生産活動が停滞し、物不足やサービス供給の不全が常態化する一種の欠乏経済になるだろう。

ただ、労働者減により労働市場は売り手市場となるため働く者にとっては天国のように思えるが、対抗上、資本としては人手不足による賃金高騰を懸念して海外へ移転するから、国内産業の空洞化はいっそう進行するだろう。一方、海外へ移転する余力のない中小・零細資本は人手不足と国内市場縮小の両面から次々と倒産・廃業を余儀なくされるだろう。

そうしたことの結果、かえって高失業が常態化するだろう。

他方、人口の4割に達する膨大な高齢者を支えるだけの若年世代は存在せず、年金・介護制度もパンクし、ケアを受けられず放置される貧困要介護老人が続出するだろう。

こうした日本に見切りをつけて海外移住を選択する日本人も急増し、いっそう人口減に拍車をかけるだろう。

この構図はまさに失敗国家である。

通常、失敗国家(failed state)といえば、内乱や独裁、失政・腐敗によって破綻した人口過多の途上国を指して用いられる用語であるが、これは言わば途上国型失敗国家である。

それとは別に、先進国型失敗国家というものがある。これは、資本主義的成功を収めたいわゆる先進国が陥る人口減少型の失敗に起因している。言い換えれば「繁栄」がもたらす失敗である。

もっとも、50年先の話をされてもリアルな実感として迫ってこないかもしれない。しかし、前記予測はペースが早まればより実感の涌く30年後くらいまで繰り上がる可能性もある。

とはいえ、失敗国家への道から抜け出す時間的猶予が与えられていないわけではない。どうやって抜け出すか。

指摘したように、先進国型失敗国家は資本主義的成功ゆえに生ずる失敗に起因するという逆説を理解し、資本主義の内在的限界を直視すること。要するに、戦後日本―より広くとれば近代日本―の「成功体験」を根底から問い直すことである。そこにヒントが隠されている。

間違っても、「少子化対策」「高齢者対策」等々の政治的術策レベルの話に矮小化されたままで終わらないことを願う。

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良心的裁判役拒否・目次

2012-02-04 | 〆良心的裁判役拒否

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

はしがき ページ1

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

 第1章 「裁判役」という課役 ページ2
 (1)「犯罪との戦い」への召集
 (2)憲法違反の裁判役

 第2章 強制と排除 ページ3 ページ4
 (1)出頭義務と免除特権
 (2)「辞退」の仕掛け
 (3)六つの排除システム
 (4)最後に残る人々

 第3章 審理・評決法の欠陥 ページ5 ページ6
 (1)糾問裁判への回帰
 (2)奇数・僅差評決法の問題性
 (3)裁判員の口封じ

 第4章 「平成司法改革」の舞台裏 ページ7 ページ8
 (1)「平成司法改革」の狙い
 (2)法曹界の裏取引

 第5章 真の「司法参加」とは? ページ9 ページ10
 (1)「司法参加」と「司法動員」
 (2)陪審制と参審制
 (3)―削除―
 

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

 第6章 拒否から廃止へ ページ11
 (1)不正の制度
 (2)運動論の再検討

 第7章 良心的拒否の基礎 ページ12 ページ13 ページ14
 (1)良心的拒否とは?
 (2)良心的拒否の法的根拠 
 (3)選択的拒否と全般的拒否
 (4)人を裁くなかれ

 第8章 合法的に拒否する方法 ページ15 ページ16 
 (1)良心的拒否の「拒否」
 (2)「精神上の重大な不利益」による辞退
 (3)心裡留保による辞退
 (4)「排除」を仕向ける方法

 第9章 超法規的に拒否する方法 ページ17 ページ18 ページ19
 (1)憲法及び条約に基づく拒否
 (2)全面的不出頭
 (3)良心的守秘義務違反
 (4)制裁のリスク

 第10章 市民的不服従へ ページ20 ページ21
 (1)個人的拒否から集団的拒否へ
 (2)「プチ革命」の可能性 

補遺1 ページ22

補遺2 ページ23

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良心的裁判役拒否(連載最終回)

2012-02-03 | 〆良心的裁判役拒否

補遺2―あとがきに代えて

 まえがきでも触れたように、本連載の叙述は裁判員制度施行前に用意していた草稿に基づいています。制度施行から3年近くが経過しようとしている現在、再考しなければならない問題が生じています。
 それは本連載の主題にとってどんでん返しにようになりますが、果たして良心的拒否‐市民的不服従だけで制度を廃止に追い込めるだろうかということです。
 このように問うことにはわけがあります。すなわち、これまでの制度運用状況を見る限り、毎年相当数の人が法律上の辞退を認められているばかりか、良心的拒否者を含むと見られる不出頭者も少なくないことの結果として、呼出状を送付された裁判員候補者のうち実際に裁判員選任手続に出席しているのは実質4割弱にとどまっています。しかも、当局は不出頭者に対する過料の制裁をまだ1件も発動していないというのです。
 こうしたデータから推察すると、司法当局としても、裁判員制度をめぐっては相当数の辞退者・拒否者が出るであろうことを想定して、それらの者は深追いしないという方針を持っていると見られます。言い換えれば、積極的な協力姿勢を示す候補者だけをピックアップして翼賛的な「少数精鋭主義」で制度を運用しようとの方針です。
 この点、裁判員制度における原則6人という裁判員数は、原則12人の陪審制と比べ、こうした「少数精鋭主義」を採りやすい員数構成になっていると言えます。
 その結果として、裁判員裁判における無罪率は従来の職業裁判官裁判よりも低く、一部で期待されていた死刑判決の抑制にもつながらず、量刑水準は総体として従来並みか、一部凶悪事件では制度施行前から始まっていた厳罰化政策に沿ってかえって重罰化の傾向を示しているのです。
 要するに、裁判員制度は本文でも述べたとおり、「犯罪との戦い」という法イデオロギーに立脚した必罰‐厳罰装置としておおむね“順調に”機能し始めており、本文でも引いた法学者・小田中聡樹氏の言葉を再引用すれば「国民に刑事裁判参加を義務付け強制することを通じて権力層に抱き込み、「統治主体意識」つまりは権力的意識・処罰意識を注入し、国家的な処罰・取締体制の基盤を強固なものとしていくこと」という支配層の狙いはかなりの程度実現できていると言ってよいでしょう。
 一方で、多くの国民が依然として制度に否定的でありながら、本文で提示したような市民的不服従のうねりは見られず、当局としても、一部の拒否者は放任しておいても制度は十分に維持していけると踏んでいるようです。そうなると、制度を廃止させるための戦略も見直さざるを得ないように思われるわけです。
 とはいえ、本連載が主題としてきた良心的拒否の意義が失われたわけではありません。しかし、このように制度を言わば外側から揺さぶるだけでなく、内側からも揺さぶることが必要ではないかと考えられるのです。
 裁判員制度を内側から揺さぶるとは、良心的拒否とは反対に、制度に批判的な立場に立ちつつ、あえて裁判に参加してみること―言わば「批判的裁判参加」―を意味します。
 具体的には、あえて裁判員を引き受けつつ、評議を通じて必罰・厳罰の流れに抗することです。これは一見困難なことのように見えますが、要するに「疑わしきは被告人の利益に」(無罪の推定)及び「刑罰は必要最小限度で」(刑罰の謙抑性)という刑事司法の二大鉄則に忠実な意見を堂々と述べればよいのです。
 実際、このように基本に忠実な初心的意見を述べることこそ、言葉の真の意味で「国民の健全な社会常識」に沿った裁判行動と言えるのではないでしょうか。
 このような行動をとる裁判員が増加することで、裁判員裁判が思惑どおり粛々と遂行できないようになれば、当局としても所期の狙いを外され、制度を維持していく意義を感じなくなるでしょう。
 ただし、理論編でも見たように、裁判員制度は排除の装置を何重にも用意しています。制度に批判的な者は裁判員選任手続の段階で「不公平な裁判をするおそれがある」とみなされて排除される可能性もありますが、選任手続をどうにかパスしても、審理や評議の過程で同じように判断されれば改めて解任されるおそれがあります(裁判員法41条1項7号・43条2項・同条3項)。
 従って、批判的裁判参加を完遂するには制度の是非論には言及しないなど、言動に相当な神経を使う必要があるかもしれません。
 このように、裁判員制度に対する良心的拒否と批判的参加の二つの流れが合わさることを通じて、制度廃止への道筋が見えてくるのではないかというのが、現時点での筆者の見方ということになります。
 さて、最後に、刑事司法全般に妥当する小田中氏のもう一つの警告的至言を引いて締めくくりとします。

「もし私たちが人身の自由を蔑ろにして警察、検察、裁判所の処罰権力に人身拘束、取調、起訴、裁判についての権限拡大と濫用を許せば、人間と社会の自律性は衰退し、かえって犯罪と非行は増大し、人間崩壊、社会崩壊が進むという悪循環に陥っていくでしょう。」

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良心的裁判役拒否(連載第22回)

2012-02-02 | 〆良心的裁判役拒否

補遺1

 今回は、前回までの本文では論じ切れなかった問題を補足しておきたいと思います。それは裁判員制度の制定と同時期に前後して行われた二つの法改正についてです。
 その二つとは、検察官の不起訴処分の当否をくじで選ばれた一般国民が審査する検察審査会(以下、検審という)の権限が大幅に強化され、検審の「起訴相当」議決に強制的逆転起訴という強い効力が認められたこと、裁判員制度の対象事件の大半をカバーする重大凶悪事件で、被害者(遺族を含む)やその委託を受けた弁護士が裁判に参加し、被告人質問や証人尋問、さらには実質的な求刑までできる「被害者参加」の制度が刑事訴訟法上に創設されたことです。
 前者の検審の制度は、戦後の司法改革の中で、検察官の権限を民主的にコントロールする目的から創設されたものですが、元来は「不起訴不当」「起訴相当」いずれの議決にも拘束力は認められていませんでした。
 しかし、裁判員制度の制定と同じ2004年の法改正では、検審の「起訴相当」議決に拘束力が付与されたうえ、検察官の再捜査・再度の不起訴処分をはさんで二度の「起訴相当」議決がなされると、強制的に起訴される仕組みが導入されたのです。これはもはや検察官の権限統制という本来の目的を逸脱して、一度でも被疑者と目された犯人らしき者は必ず罰すべきだという必罰主義的な観点に立ちつつ、一般国民を動員し、検察官の不起訴処分を覆してしまう新たな制度装置であって、その趣旨は裁判員制度とも共通する連動的な制度です。
 この制度の恐ろしさは、検察官が二度にわたり不起訴とした案件が検審の議決だけで自動的に起訴されてしまい、被告人はそれに対して異議申し立ても許されないということです。検察官が二度も不起訴にしたからには、有罪判決を導くだけの証拠に欠ける可能性が高いのに、検審の大雑把な審査だけで自動的に逆転起訴されてしまうのです。これでは、検審が“冤罪製造マシーン”と化してしまう日も近いでしょう。
 もう一つの「被害者参加」は、従来の刑事裁判では被害者がカヤの外に置かれてきたという認識に基づく殺人被害者遺族らが結成した団体が中心となって運動した結果実現した新しい制度です。
 この制度の最大の眼目は従来、検察官が専権的に行ってきた求刑を被害者側も検察官とは別個独自に行えるようになった点にあります。この場合、被害者側は検察官の方針にとらわれず、自由に意見できるので、検察官の求刑より重くも軽くも求刑できます。
 ただ、制度導入の経緯から言っても、この制度を通じて表出される被害者側の意見はほとんどの場合、厳罰を求める方向に傾きがちであることは否めないでしょう。
 加えて、この制度の下で被害者側の委託を受けた弁護士が関与してくるときは、被害者側に立って被告人を追及する立場から被告人質問や証人訊問を繰り出し、検察官的に振舞うことになるため、被告・弁護側は本来の検察官と被害者側弁護士というあたかも二種類の検察官を相手にするかのような形となり、防御上の負担が二重にのしかかってもきます。
 如上の二つの制度は、裁判員制度と組み合わさって、同時に発動されることがあります。その場合に想定され得る最も懸念すべきシナリオは以下のようなものです。
 凶悪殺人事件で逮捕された被疑者について、検察官は証拠不十分と見て不起訴処分とします。しかし、その結論に納得のいかない被害者遺族の請求で検審による審査が開始された結果、検審は「起訴相当」の議決をします。これを受けて検察官が再捜査したところ、結果はまたしても不起訴。そこで、検審の再度の審査にかけられた結果、こちらは再び「起訴相当」の議決で、被疑者は強制的に逆転起訴されます。
 殺人事件は裁判員裁判の対象中の対象事件ですから、被告人は選択の余地なく裁判員裁判にかけられます。こうした強制起訴によった場合、訴追役を務めるのは通常の検察官ではなく、裁判所が選任する指定弁護士と呼ばれる弁護士になります。 
 捜査段階から一貫して無実を訴えている被告人は全面的に起訴事実を争い、無罪を主張します。元来証拠不十分で検察官が二度も不起訴とした案件ですから、訴追側指定弁護士は初めから守勢に立たされています。
 ところが、そこへ被害者参加制度を利用して被害者遺族が参加、名状し難い感情を吐露し、「被告人は反省もせず、嘘をついて刑を逃れようとしている。死刑判決でなければ私は自殺する」と涙ながらに訴えます。これが功を奏したか、判決は意外や有罪・死刑。
 被告・弁護側は即日控訴しますが、裁判員裁判における控訴審は一般国民の意識が反映された一審判決を尊重して極力破棄しないとの最高裁方針に従い、控訴は棄却されます。被告・弁護側は上告に及ぶも、元来上告理由は限られているため、あっさり棄却。その結果、死刑冤罪という最も深刻な冤罪が確定してしまいます。
 このように、裁判員制度と検審による強制起訴、被害者参加は、いずれも一般国民の「司法参加」という一見して「民主的」な体裁をとりながら、三位一体で被告人を有罪・厳罰へ流していく―冤罪の現実的危険を孕みつつ―新たな社会管理の装置として配備され、動き出しているのです。 

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