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近代革命の社会力学(連載第261回)

2021-07-12 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(4)ウガンダ革命

〈4‐1〉君主制内包共和国の独異性
 今日のウガンダは元来単一の国家ではなく、複数のバントゥー族系部族王国が興亡し、ひしめき合う地域であったが、19世紀にはガンダ族系のブガンダ王国が台頭していたところ、東アフリカにおいて勢力を分割し合う1890年ヘルゴランド‐ザンジバル条約に基づき、この地域はイギリス領に編入され、ブガンダのスワヒリ語名であるウガンダを統一的な地名とされた。
 こうしてイギリス領ウガンダ植民地として統合されたとはいえ、イギリスはブガンダをはじめ、この地域の諸王国を廃止することなく、保護国名下に部族君主制を残し、間接統治する方式を採用した。これはベルギーがウガンダの近隣でもあるルワンダとブルンディの各王国を廃止せず、残したのと同様に、植民統治を円滑にするための術策であった。
 その結果、かねてよりこの地域の盟主格であったブガンダ王国の勢力は、イギリスの間接統治の制約を受けながらも、かなりの程度残されることとなった。このようなブガンダの覇権は独立運動にも反映され、ガンダ族が独立運動の中心となった。
 その際、ブガンダでは王党派であるカバカ・イェッカ(王あるのみの意。以下、カバカという)が運動の中心となったが、カバカの独立構想では、ブガンダを中心とする連邦国家の樹立が考えられていた。これに対し、他の部族王国は懸念し、また各王国に包摂されない地域は共和制の単一国家を構想するというように、独立後の国家形態をめぐる対立が深まった。
 これに宗教的な対立も絡み、プロテスタントが主体のカバカに対し、カトリック系の知識層を中心に非連邦型の単一国家を志向する民主党が創設され、南部で支持を伸ばし、カバカと二大勢力を成した。
 一方では、北部を基盤とする勢力として、ミルトン・オボテが率いるウガンダ人民会議(UPC)という新興勢力が現れた。UPCは1950年代に設立されたウガンダ国民会議から分裂したもので、民主党と同じく単一国家を志向する近代主義勢力の中心となった。
 このような三つの政治勢力が鼎立する中、独立直前の制憲議会選挙では、民主党が第一党となり、同党党首ベネディクト・キワヌカが初代首相となった。ところが、その後、正式の独立直前に施行された新たな総選挙では、UPCがカバカと妥協し連携するという奇策を演じたため、民主党は単独で与党となれず、UPCのオボテが連立政権の首相に就任するという逆転劇となった。
 カバカ‐UPC間では、政体に関して、連邦制を採りつつ、ブガンダをはじめ、諸王国を残しながらイギリス国王が儀礼的元首となる英連邦王国の一員とする妥協策で合意されていたが、1963年に英連邦を離脱したことで、ブガンダ国王ムテサ2世が儀礼的な元首である連邦大統領に就任することになった。
 こうして、63年以降のウガンダは、共和制でありながら、ブガンダをはじめ、複数の王国が内包された君主制内包共和国という変則的な政体にとりあえず落ち着くのであった。とはいえ、これは如上のUPC‐カバカ合意に基づく妥協策であったので、遅からず、両者間で対立緊張関係を生じることが予測された。


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