ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第178回)

2020-12-14 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(6)人民戦線政府による革命回収措置
 地方ごとに展開されつつ、今回は割愛したものの、自主的な映画産業の育成や平等な一貫制教育制度などの文教政策にも及ぶ様々な革新的施策を試行したスペイン・アナーキスト革命であったが、同時進行の内戦が激化するにつれ、なし崩しに後退を余儀なくされていく。
 その過程は、一方において、内戦の敵方である保守派軍部の武力攻撃、他方では、共通の敵に対しつつ、中央権力を確立せんとする人民戦線政府による言わば革命回収措置という二方向からの圧迫であった。
 元来、人民戦線政府と地方革命勢力との関係性は複雑であり、少なくとも当初、人民戦線政府は地方革命に対してこれを容認し、体制内の自治的部分として取り込む態度を示していたが、潮目が変わるのは、内戦の激化により、中央政府の権力基盤の強化と民兵団を政府軍に編入する必要性が認識されてからであった。
 人民戦線は元来、ソ連及びコミンテルンの新方針に沿った政権構想であったから、内戦の激化に伴い、親ソ連派のスペイン共産党を介してソ連の影響が増すと、イデオロギー面でも、アナーキズムと当時のソ連のスターリニズムとの乖離が明瞭になってくる。
 その頃、スペイン共産党内では、強固なスターリニストであるドロレス・イバルリのような指導者が台頭し、アナーキストやアナーキストと共闘するコミュニストを排撃するようになっていた。彼女は、大衆の自然発生的革命を支持したローザ・ルクセンブルクとは対照的に、徹頭徹尾ボリシェヴィキ思想で固まった闘争的な教条主義者であった。
 1937年2月以降、政府はアナーキスト系出版物の検閲措置に動いたのを皮切りに、3月にかけてアナーキスト系民兵団の武装解除と正規軍への編入を完了した。同時に、各地の革命統治機関の強制解散や労働者自治組織の排除を進めていった。
 こうした人民戦線政府の強硬な革命回収措置に対し、革命派の反発が頂点に達したのが、1937年5月3日、カタルーニャの州都バルセロナを中心に発生したメーデー事件である。これは、5月3日から8日にかけ、CNT‐FAIを主軸とするアナーキスト勢力と人民戦線政府の間での武力衝突に発展した。
 この衝突事件の鎮圧に際しては、ソ連から派遣されていた諜報将校アレクサンドル・オルロフが事実上の指揮を執っており、これは人民戦線政府をモスクワから操作しようとするソ連の国策が姿を現した一件でもあった。
 最大推計で1000人の犠牲者を出した衝突は結局、ソ連の支援を受けた政府側が鎮圧に成功し、さしあたり人民戦線政府が権力を確立する契機となったものの、このような共和派内部の内輪もめのような内戦的衝突は共通敵である保守派軍部を利する結果になったであろう。
 この後、政府は依然勢力の大きなCNT‐FAIの禁圧措置は回避しつつ、元来は人民戦線にも参加していた反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党(POUM)を血祭りにあげることにした。POUMは非合法化され、その指導者のカタルーニャ人アンドレウ・ニンは誘拐された末に惨殺、その他の幹部も逮捕され、政治裁判にかけられた。
 1938年に入ると、政府は労働者自主管理のシステムを最終的に終わらせ、農村から追われていた旧地主の土地返還請求にすら応じ、農村の自治管理コミューンの清算も順次進めていった。こうして、スペイン・アナーキスト革命は、1938年までに、人民戦線政府に回収される形で、事実上収束したと言える。


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