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9条安全保障論・目次

2016-09-18 | 〆9条安全保障論

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

序論 ページ1

Ⅰ 9条の重層的解釈

一 9条の構成 ページ2

二 絶対的解釈と相対的解釈 ページ3

三 9条の時間的重層性 ページ4

Ⅱ 未来的非武装世界 ページ5

Ⅲ 非軍国主義体制 ページ6

Ⅳ 過渡的安保体制 

一 9条の現在位置 ページ7          

二 過渡的自衛力論① ページ8

三 過渡的自衛力論② ページ9

四 過渡的自衛力論③ ページ10

五 過渡的自衛力論④ ページ11

六 自衛武器の許容範囲 ページ12

七 自衛行動の許容範囲① ページ13

八 自衛行動の許容範囲② ページ14

九 自衛行動の許容範囲③ ページ15

Ⅴ 平和維持活動 ページ16

Ⅵ 恒常的軍縮政策 

一 防衛救難隊の創設 ページ17

二 国境問題の凍結 ページ18

三 国際的軍縮活動 ページ19

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9条安全保障論(連載最終回)

2016-09-17 | 〆9条安全保障論

Ⅵ 恒常的軍縮政策

三 国際的軍縮活動

 9条安保論における恒常的軍縮政策の最後の柱は、国際的軍縮活動である。この点、従来から、日本国は唯一の被爆国として核軍縮に取り組む「姿勢」は見せてきた。
 しかし、その実態は「姿勢」とは裏腹に、米国の核の傘に依存し、核の先制不使用に反対する、自ら国連の核兵器廃絶決議を主導しながら、核兵器の禁止・廃絶に向けた法的枠組の強化を誓う決議案(オーストリア提出)については、同盟主米国への「配慮」から棄権するなどの矛盾した行動に終始している。本年5月のオバマ米大統領の広島訪問のような象徴儀礼的なイベントも、自己矛盾を取り繕うための煙幕のような働きをしているようにしか見えない。

  このような表裏二枚舌の国際行動は、9条が示す方向性とは合致しない。9条が最終的に目指す未来の非武装世界の実現のためには、ぶれることのない一貫した国際的軍縮活動の軸が必要である。核廃絶は、その最初の一歩にすぎない。
 核廃絶は通常兵器の温存やその反射的増強を意味してはならないのであって、兵器の中でも最も反人道性の高い核兵器―広くは大量破壊兵器―を手始めに、およそあらゆる兵器の廃絶を目指す必要がある。このことを「非現実的」と言うなら、それは9条を離れた「普通の」安保論にすぎない。

 まずは核‐大量破壊兵器廃絶を大前提としつつ、将来における全兵器廃絶及び軍隊廃止の誓約決議を国連レベルで採択できるように日本国が率先して運動していくことが9条の指示する道である。一方では、軍事行動を招くような現実の国際紛争の解決と平和構築のための具体的な仲裁活動にも積極的に取り組む必要がある。「世界の保安官」ならぬ「世界の仲裁官」たらんとすることである。
 それによって「恐怖の均衡」によるのでない真の国際平和が実現され、すべての国にとって巨額の財政負担を強いる兵器や軍隊の必要性が低減していけば、自ずと未来の非武装世界への展望が開けてくるであろう。このような実のある国際的軍縮活動の進展に合わせて、国内の自衛武力の削減を順次進めていくことが、恒常的軍縮政策の意味である。

*****

 今回をもって、9条に則った安全保障論に関する一連の短い連載を終える。これを通じて示したかったことは、従来想定されてきたような理念的な平和主義を超えて、9条が秘める幅広い可能性である。同時に、本連載は自身の目の黒いうちに実現しそうにない未来の非武装世界へ向けた道しるべでもある。どなたかがこの連載を偶然にでも目にし、これを希釈化することなく、さらに発展させ、現実の安全保障政策にも活用してくださることをわずかでも願いつつ、稿を閉じる。(了)

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9条安全保障論(連載第18回)

2016-09-16 | 〆9条安全保障論

Ⅵ 恒常的軍縮政策

二 国境問題の凍結

 海防と防空に重点を置いた統合自衛隊は、それ自体としてもかなり軽量の自衛武力ではあるが、統合自衛隊のさらなる削減に向けた恒常的軍縮政策を実現するうえでは、日本国が周辺諸国との間に抱える/抱えさせられている国境問題が障害となる。

 その点、周知のとおり北に北方領土問題、南に尖閣諸島問題、西に竹島問題と三方に火種があるが、いずれも陸上の国境線ではなく、海上という物理的に明確な国境線を引くことのできない領域内での国境問題であり、その解決は容易でない。主権国家という相互に排他的な法的枠組みが存在する限り、永遠に解決しない可能性もある難題である。それが解決しない限り、所要の自衛武力を恒久的に保持するということになりかねず、恒常的軍縮は実現しない。
 未来の非武装世界は国家という偏狭な枠組みを取り払って初めて真に実現され得ることであるが、それはさておいても、まずは海の国境問題を完全には解決できずとも、これを顕在化させない方策を追求する必要がある。それは、国境問題を凍結することである。

 ここで言う「凍結」の意味は、国境主張の取り下げではない。(相応の理由がある限り)主張を国際法上の理論的なものに閉じ込め、主張に沿った軍事的・外交的行動は控えることである。
 如上の三つの国境問題は、いずれも現時点で日本国民が居住していない島嶼部の領有権に係る問題であって、そこには緊急性の高い人道上の問題は含まれていない。この事実を直視し、自国側から挑発的な行動を起こさないことは当然として、相手国側の示威・挑発行動に対しても即時反応せず、警戒監視活動にとどめることである。警戒監視活動には、領海と認識する海域での自衛隊艦船による警戒監視航行、あるいは自衛隊機による警戒監視飛行のような可視的行動も含まれるが、それらを示威行動と受け取られないよう慎重さを要する。
 ちなみに相手国の示威・挑発行動に対して外交上抗議するということは、挑発ではないにせよ、国境主張に沿った外交的行動の一種であり、その結果いかんでは武力衝突にもつながり得る行動であるから、やはり控えるべきことである。警戒監視活動を続けつつ、外交上は沈黙を守る。これをサイレント・プレゼンス・ポリシー(silent presence policy;黙示の存在政策)と呼ぶことにする。

 このような微妙政策には、相当の忍耐を要するだろう。愛国主義的な衝動や国家的な面子を抑えなければならないからである。しかし、9条はそうした忍耐を要求している。おそらく、それに耐え切れない心情が9条の排除を欲求するのかもしれない。

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9条安全保障論(連載第17回)

2016-09-08 | 〆9条安全保障論

Ⅵ 恒常的軍縮政策

一 防衛救難隊の創設

 統合自衛隊を軸とした「過渡的安保体制」は、文字どおり「過渡的」な体制であり、9条が未来時間軸として示す未来的非武装世界の実現へ向けた不断の軍縮政策が並行的に展開されなければならない。その点、現行の陸海空三自衛隊を合わせた総員25万人近い体制は、海上―航空部隊を中核に少数精鋭の陸上特殊部隊を含めた統合自衛隊に再編することで、半分近くまで削減することが可能であり、これが「過渡的安保体制」の出発点となる。
 その際、削減(実質的な廃止)の主たる対象となるのは、現行体制では最大の15万人に及ぶ陸上自衛隊である。陸自削減に当たっては、一部は陸上特殊部隊に移管するとして、残余は前回見た「国際平和維持待機団」及び今回取り上げる「防衛救難隊」に転換することができる。

 従来、自衛隊は災害救難を本来任務としてしないにもかかわらず、災害救難に動員され、成果を上げてきたことが、自衛隊の社会的な認知・評価につながってきたことは、否定できない。特に2011年の東日本大震災時、10万人に及ぶ自衛隊員を救難活動に投入したことは、しばしば美談的に称賛されてきた。
 しかし実のところ、総員の半数近い隊員が本来任務を離れていたことになり、防衛上は極めて危険な機能低下状態にあったことも直視しなければならない。そこで、自衛隊とは別立ての救難活動専従組織として、「防衛救難隊」が構想されるのである。
 ここに「防衛救難隊」とは、自衛隊並みの軍事的なレスキュー技術を備えた特別な救難隊であり、言わば現行自衛隊の救難機能だけを独立させたものと考えることができる。その管轄は自衛隊とは別立てながら防衛省が担当するので、「防衛救難隊」をその名称とする(以下、防救隊と略す)。そのため、防救隊は防衛そのものに従事することはないとはいえ、その最高指揮官も自衛隊と一括して内閣総理大臣とするのが簡明であろう。 

 防救隊は、自治体消防や警察のレスキュー隊では対処し切れない大規模災害等の発災時、内閣と被災都道府県知事の合意に基づいて派遣され、現地で救難活動に従事する。また有事に際しても、抗戦任務を優先して市民の避難・救難が後手に回りやすい自衛隊とは別働で自衛隊並み技術を持つ防救隊が自衛隊と連携しつつ避難・救難活動に専従することは、市民の生命・身体の保護に寄与するであろう。
 防救隊の規模は予備隊員を含め、現行陸自に匹敵する12‐13万人程度とし、医官や看護官から成る医療衛生部隊も備え、派遣現地では避難所等での第一次的な医療・看護活動にも従事する。また重症者を集中治療する目的で、各地に救急医療専門の防救隊病院機構を設立し、平時から高度救命救急病院として運営することも考えられてよいだろう。 

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9条安全保障論(連載第16回)

2016-09-02 | 〆9条安全保障論

Ⅴ 平和維持活動

 前回まで過渡的安保体制という観点から、9条の枠内で可能な安保体制のあり方について検討してきたが、冷戦終結後は、国際連合が憲章に明文を持たないまま慣習的に実施してきた平和維持活動(PKO)への自衛隊の参加をめぐって、安保問題とは別次元での憲法論争がくすぶってきた。
 政府はこれについても議論を曖昧にしたまま、得意とする「解釈改憲」的な手法をもって、1992年の自衛隊カンボジア派遣以来、国連PKOへの参加実績を積み重ねてきたところである。

 しかし、9条の下で組織化される自衛隊とは、その名のとおり国を防するの謂いであるから、自衛隊をPKOに転用するというやり方は便宜的な対応にすぎない。当然自衛隊の海外での武力行使につながり得るからこそ、この問題が憲法上の疑義を生じさせるのである。従って、「国際貢献」のような漠然とした理念を持ち出して、自衛隊をPKOにも転用してきた従来の便宜的方法は改める必要がある。

 その点、日本独自のPKOへの参加方法として、自衛隊とは別個に「国際平和維持待機団」のような特別部隊を常置し、平素から専従隊員の養成及び訓練を行なうことが最も簡明と思われる。「国際平和維持待機団」の原初部隊は、海防と防空に重点化した自衛隊の統合再編に伴う陸上自衛隊の削減によって生じる転官人員を核に編成し、以後は専門的な養成課程を備えた部隊として組織していく。
 その所管は内閣府と防衛省の共管とし、内閣総理大臣の指揮の下、派遣の可否や規模などの運用判断に関しては内閣府が実務を担当するが、訓練や装備については防衛省が自衛隊に準じて行なうこととする。

 このような別立て論は、従来から一部で提唱されていた考え方であるが、自衛隊の海外派遣実績を何としても既成事実化したい勢力からも、また9条を絶対化する立場からも受け入れ難い論であるため、今日ではすっかり下火になっている。
 既成事実化政略は論外として、9条絶対化論は傾聴に値するものではあるが、不十分ながらも国際連合を通じて諸国が地球規模で共同体化されている現状を直視し、紛争惹起でなく、紛争解決のために国連が組織する公式のPKOに自衛隊が従事する余地は認められてよいだろう。

 ただし当然、その場合も参加の可否や規模、派遣現地での部隊の活動方法等については憲法的な制約が及ぶのであり、9条に違反する派遣・活動は認められない。その点では、現地において紛争当事者間での停戦合意が明確に成立し、かつ実質上も戦闘行為が停止している状況下での派遣は最低条件となるであろう。
 そのうえで、武力行使に関しては、自衛隊員に限らず、他国兵士や民間人、住民など第三者の生命・身体を防護するために必要な最小限度の警察的な実力行使については許容してよいと思われる。

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9条安全保障論(連載第15回)

2016-09-01 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

九 自衛行動の許容範囲③

 前回は、過渡的安保体制という観点から、9条の枠内で可能な共同自衛行動のあり方について考察してきたが、それとは別に、本来の意味での集団的自衛行動がある。本来の意味での集団的自衛行動とは、多国間での協調的な自衛権の共同行使の謂いであって、現代世界では国際連合憲章(国連憲章)に基づいて実施されるのが本則である。
 同憲章第七章では、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」と題して、そうした有事に際しての非軍事的措置と軍事的措置とが規定され、後者の一環として集団的自衛権の行使も認められている。

 その目的達成のために国連軍を組織することも予定されている。実際上は国連軍の給源となる兵力提供協定を締結している国が皆無であることから、これまで国連軍が正式に組織されたことはないが、仮に国連軍が組織されたら、自衛隊は「兵力」を提供することができるかという仮想問題がある。
 これについて、政府は「国連軍の目的・任務が武力行使を伴わないものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないわけではないが、現行自衛隊法上は自衛隊にそのような任務を与えていないので、これに参加することは許されない」という見解を表明している。
 しかし、国連軍の任務が武力行使を一切伴わないということは通常考えられず、武力行使の有無で参加を個別判断するという基準は観念論的である。兵力提供協定を締結するという形で、自衛隊が常備的な国連軍の一部となることは、全面的に9条に反するものとして認められないだろう。

 とはいえ、現実には国連軍の組織化はめどが立たず、実際上、国連による集団的安保体制は国連決議に基づく非公式な有志連合軍による武力行使という形で実施される慣行が形成されてきているのが現状である。
 その点、9条はこのような非公式な集団的自衛行動も認めておらず、日本の自衛隊がこのような行動に参加することは原則として認められないが、日本国への侵略に際して、個別的自衛や共同的自衛では対応し切れない場合に、日本防衛のためにこうした非公式な集団的自衛行動に参加することは、必ずしも禁止されるものではないと解してよいと思われる。

 その一方で、そうした自国防衛という目的を越えて、有志連合軍の海外における武力行使に参加することは、たとえ後方支援活動限定という間接的な形であっても認められるものではない。
 その際、紛争地域における日本船舶・航空機の保護などの名分を掲げることも許されない。公海・公空上の自国船舶・航空機が自国主権の管轄内に入るという原則は法令の適用範囲の問題ではあっても、それを安保問題に直接振り替えるべきではないからである。

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9条安全保障論(連載第14回)

2016-08-27 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

八 自衛行動の許容範囲②

 前回は日本国単独での個別的自衛権を前提にした議論を展開したが、近年ホットな議論の的となってきたのは、外国との集団的な自衛権の行使の可否であった。この点で、2015年に制定された安保法制は、「限定的な」集団的自衛権を解禁することで、戦後防衛史における歴史的な画期を作り出した。
 たしかに自衛行動は一国のみで完遂できるに越したことはなく、第一義的にはそうした個別的自衛権の行使で対処すべきだが、9条下で抑制された自衛隊編制及び装備では対処し切れない場合に、個別自衛行動の補充または補強のため外国の力を借りることが一般的に禁止されるわけではない。
 そうした外国との協調的な自衛権行使の方法として、防衛同盟を前提とする共同自衛権の行使と、多国間での集団的な自衛権の行使とは概念上区別されるべきである。その点、安保法制が前提としているのは、ほとんど専ら前者の共同自衛権、それも日米同盟に基づく米国との共同自衛なのである。

 周知のように、戦後日本は先の大戦では敵国であった米国との二国間防衛条約―日米安全保障条約―に大きく依存してきた。日米安保条約は、最高裁判所が憲法判断を回避してきたことから、憲法的に宙に浮いた状態で今日まで維持されたうえ、それが「ガイドライン」という条約外の外交文書を通じてなし崩しに拡大されてきた。その結果、日米安保条約は、政治的現実においては憲法に優位する超憲法的規範だと言っても過言ではない状況にある。
 しかし、9条に適合する過渡的安保体制は日米安保条約のような外国との防衛同盟条約に基づく共同自衛行動を必ずしも禁止するものではないとしても、9条はそのような共同自衛行動の条件を厳格に制約する。

 まずは共同自衛する同盟国の選択である。それは9条の趣旨を理解する国でなくてはならない。9条に適合する防衛同盟とは同盟国間で9条の趣旨を共有することでもあるからである。その点、米国は「押しつけ」の怨念を生み出すほど昭和憲法の制定にも深く関与しており、いちおうは同盟相手の条件を満たしているだろう。仮にも米国の態度が明確に変わり、9条廃止を要求してくるなら、それこそ日米安保条約を破棄すべき時である。

  次に、同盟に基づく共同自衛体制のあり方として、同盟相手の軍隊または軍隊相当の武装組織(以下、「外国軍」と総称する)が日本国内に常駐することは許されない。その点、最高裁は、安保条約の憲法判断を回避しながら、9条が保持を禁ずる「軍隊」は自国の主権が及ぶ軍隊をいうとして、外国軍はこれに当たらないという形式的な解釈を示すことで、実質上は条約の合憲性を示唆している。
 しかし、主権の及ぶ国内に外国軍が常駐するなら、一体性が強まり、軍隊を共同保有しているに等しくなるので、最高裁のような形式論は不当である。外国軍の駐留が許されるのは、共同自衛権発動時における基地の共同使用及びその他演習等の目的での短期駐留の場合だけである。従って、政府は日本国内の全米軍基地の撤去へ向けた対米交渉義務を負わねばならない。懸案の沖縄米軍基地問題も、その一環で解決するであろう。

 さらに、共同自衛権の具体的な発動要件であるが、9条下では原則として日本国と同盟国の双方に自衛権の発動要件となる事態が生じた場合に、共同武力をもって対処できるにとどまる。従って、専ら一方の国のみが有事の場合に共同自衛行動を取ることは許されない。
 また、日本国が核兵器使用効果の受益者となることは認められないから、共同自衛行動における同盟国による核兵器の使用は予め条約中で禁じておかなければならない。その他、反人道的兵器の使用についても、同様である。

 以上の趣旨を明確にするためには、日米安保条約の合憲的な改訂が必要である。現行安保条約はその法文を極めて簡素に定めつつ(全文わずか10箇条)、具体的な解釈運用指針を法規範性のない「ガイドライン」に丸投げするという粗野な体制は法治国家原則を軽視するもので、本来認められないやり方であった。
 これを改め、9条に適合する形でより具体的な規定を置く安保条約の抜本的な改定を構想すべき時機である。もし米国が条約本文の全面改定に難色を示すならば、せめて9条に適合するような合憲解釈に基づいた「9条ガイドライン」を策定し直すべきである。それをすら米国側が拒否するなら、安保条約の破棄も辞するべきでない。
  さらに、日米安保条約はあくまでも9条下での「過渡的安保体制」を支える手段にすぎないから、恒久的なものではあり得ず、10年程度の期限を区切り、必要に応じて更新していく期限付き条約としなければならない。

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9条安全保障論(連載第13回)

2016-08-26 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

七 自衛行動の許容範囲①

 9条の下で自衛権の行使として、どこまでどのような武力行使ができるかということは、最も実際的な問題として、常に論議され、それなりの基準も設けられてきたところである。しかし、近年は国際情勢の変化に対応するとして、武力行使の要件や方法に関する基準を緩和・拡大する傾向にある。
 その点、安保法制制定以前の旧自衛隊法では自衛隊の主任務として、「直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛すること」旨が明記されていた。この文言は自衛隊の任務規定であると同時に、「侵略」という事象の発生を大前提として自衛権が発動されるという武力行使の大枠規定でもあったのだった。

 これはいわゆる「専守防衛」が国是とされた時代を反映し、9条との整合性を考慮した合理的な規定であったが、「間接侵略」の概念は曖昧で、例えば同盟国の基地や艦船・航空機等が攻撃された場合でも、「間接侵略」とみなす余地があった。
 厳密に言えば、9条下で可能な武力行使は、日本領土への直接侵略を排除するための自衛権行使としてのみ認められるべきものである。しかも、それが自衛戦争という形で継続的な戦争へと展開していくことはまさに戦争放棄を定めた9条に違反することになる。従って、ひとまず侵略排除に成功したら、それ以上の追尾攻撃や報復攻撃は厳に自制し、武力行使を直ちに中止しなければならない。
 さらに、いわゆる先制的自衛権の行使も禁止される。先制的自衛権は「攻撃は最大の防御なり」の軍事格言に基づき、先に相手を叩くことで、侵略を先制的に抑止するという戦術であるが、これはまさしく先制攻撃に他ならず、自衛戦争の一種だからである。

 一方、侵略を未然に防ぐための領海警備行動については現在でも自衛隊ではなく、海上保安庁の主任務とされている。これも9条の趣旨を考慮し、自衛隊の任務をできる限り限定するという観点からの役割分担政策であり、評価に値する部分はあるが、海上保安庁の本務は「海の警察」であり、国境警備隊ではない。
 過重任務や権限の重複という問題を回避するためにも、海難事故・海上事件の処理に関わらない領海警備活動の任務は一括して自衛隊(統合自衛隊)に移管し、海上保安庁は海上警察機関として純化したほうが合理的であり、そのことが直ちに9条に反するとは考えにくい。

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9条安全保障論(連載第12回)

2016-08-19 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

六 自衛武器の許容範囲

 前回まで、9条の下で認められる過渡的自衛力の組織的な側面について見てきたが、過渡的自衛力の内実は組織論にとどまるのではなく、究極的には物理的な力、すなわち武器によって決定づけられる。
 この点、政府は9条の下で保持が許されない「戦力」の意味として、「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるもの」と解釈してきたが、このような歴史主義的な解釈基準はあいまいに過ぎ、現在の自衛隊装備は優に諸国の軍隊のそれに匹敵するものとなっており、政府解釈は形骸化している。
 そこで、このあたりで、9条の下でも許容される過渡的自衛力の物理的な要件、すなわち保有できる武器の範囲についても改めて検証し直す必要が出てきている。

 そもそも「戦力」不保持を宣言する9条の下では、戦力の物理的な手段となる「兵器」の保有は許されない。このことは現在でも比較的よく認識されているらしく、防衛省・自衛隊では「兵器」の用語を避けて「防衛装備品」と呼び、その研究開発・調達等に当たる官庁を「防衛装備庁」と称している。
 ただ、これらは多分にして用語上の婉曲的な言い換えと化してきており、防衛装備品という名の兵器、防衛装備庁という名の兵器庁(または軍需庁)となっているだろう。その傾向は、改憲を通じた再軍備に向け、今後ますます強まると予測される。
 だが、本来9条の下では「兵器」に該当しない「自衛武器」とは何かを、言葉遊びでなく、実質的に検証することが政府に課せられているのである。

 その点、大まかな基準として、専ら攻撃的な武器―攻撃専用武器―は「自衛武器」には当たらないと解される。典型的には、核兵器に代表される大量破壊兵器である。今日の大量破壊兵器は「抑止」の名において保有されるのが一般だが、ひとたび発動すれば大量虐殺を免れない兵器は自衛武器に該当し得ない。
 このような大量破壊兵器の保有禁止は当然、大量破壊兵器保有国との共同運用のような形態を採ることの禁止にも及ぶ。ただし、「核の傘」のように、外国の大量破壊兵器の抑止力を間接的に借りることは必ずしも9条に違反しないが、核使用による大量破壊効果を享受することは許されない。従って、9条の下では「核の傘」は抑止のみ、使用については明確に拒否するという国家意思を正式に表明しなければならない。

 一方、兵器分類上は通常兵器に含まれるも、大量破壊兵器に準じた広範囲にわたる破壊効果を持つ非人道的兵器も自衛武器には該当しない。現在、この種の兵器については特定通常兵器使用禁止制限条約によって国際間でも規制がなされているが、技術開発によって未規制の新型兵器が続々と登場すると予想されることから、9条安保論では条約の形式的な規制対象には拘泥せず、実質的な基準から攻撃専用武器かどうかを判断するべきである。

 議論となり得るのは、攻撃型潜水艦や戦闘爆撃機のような攻撃的可動兵器の保有である。これらは防衛上も必要とみなされることがあるが、厳密に言えばこれらの兵器は自衛武器の範疇には含まれない。自衛武器の範疇に含まれる可動兵器は哨戒型艦船や防空警戒機などにとどまり、そうした自衛目的を超えて攻撃的に使用できる可動兵器の保有は9条に違反するのである。

 もっとも、現代戦争ではミサイルの使用が想定されており、好戦的な諸国は皆、弾道ミサイルを配備するようになっている。このようなミサイルは当然にも攻撃専用武器として9条の下では保有が許されないが、外国からのミサイル攻撃に対する迎撃的な防衛については別途考えなくてはならなくなっている。
 ただ、真に効果的なミサイル防衛のあり方については多々議論があり、安易なミサイル防衛システムの配備推進は許されず、9条と整合する自衛目的を逸脱しないミサイル防衛のあり方についての技術的な研究が必要である。
 それ以前に、大量破壊兵器ともリンクしている弾道ミサイルのような攻撃的武器の廃絶を国際社会においてリードすることも、9条によって日本国政府に課せられた責務であることが想起されなければならない。

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9条安全保障論(連載第11回)

2016-08-13 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

五 過渡的自衛力論④

 今回は、前回概要を記した統合自衛隊の指揮系統についてである。前々回で触れたように、自衛隊が「半文民」組織化されたとしても、武装組織である事実に変わりはなく、その独断暴走や政治化を防ぐためには、民主的統制下に置かれるべきことは当然であり、その最高指揮権は現行憲法上行政の長たる内閣総理大臣が掌握する。

 ここまでは現行自衛隊と同様であるが、自衛権の発動や災害出動を含めた自衛隊の活動に関する実質的な意思決定機関として「自衛隊統制会議」が置かれるべきである。この機関は、既設の国家安全保障会議のような単なる安保対応の諮問機関ではなく、自衛隊の活動そのものに関する決定機関にしてかつ統制機関である。
 その議長は内閣総理大臣であり、副議長を防衛大臣が務める。その他の構成員として、内閣官房長官、外務大臣、法務大臣、財務大臣、国土交通大臣、国家公安委員長に内閣法制局長官、衆参両院の各防衛問題担当委員会の委員長を加えた計11人から成る会議体である。国会の常任委員長が参加するのは、内閣のみならず、国会による統制も利かせるためである。自衛隊統制会議の議決は正副議長と国会の両常任委員長を含む多数決により、その議決事項は閣議決定により最終的な効力を有する。

 自衛隊統制会議の議決及び閣議決定に基づき、防衛大臣を通じて自衛権が発動されるわけだが、9条適合的な自衛隊は統合的に組織される。その具体的な意味を少し立ち入って概説すれば、まずは全国を複数の管区に分けた統合地方隊がある。その地理的区分は時々の防衛事情に応じて変化し得るが、基本的には、現行海上自衛隊及び航空自衛隊の地方部隊の地理的区分を参考にしながら、新たな統合区分を設けることになるだろう。
 その点、現行の部門別自衛隊では、海上自衛隊は北から順に、大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の五地方隊、航空自衛隊は北から順に、北部、中部、西部、南西の四方面隊に区分され、両者の区分に齟齬がある。統合自衛隊では主軸となる海上自衛隊の区分を基準にしつつ、北海道と南西諸島はそれぞれ別個の地方隊が管轄する六乃至七個程度の地方隊で構成されることになると想定される。
 こうした地方隊以外とは別に、全国的な機動運用部隊として自衛艦隊がある。これは現行の海上自衛隊においても長い海岸線やシーレーン防衛の目的から設置されている機動運用部隊である。一方、防空に関しては、弾道ミサイル防衛の重要性が増している状況に対応するため、ミサイル防衛を含めた防空全般を統括する広域防空司令部を設置する。
 結局のところ、統合自衛隊の中枢となる司令監部は司令総監、副司令総監に、自衛艦隊司令官、広域防空司令官の計四人で構成される。これに必要に応じて、特殊部隊を指揮する特殊部隊群司令官や防衛省情報本部長のような情報部門の長が加わる。

 ところで、しばしば現行自衛隊において「文官統制」の要とされてきた防衛省内部部局(内局)であるが、9条安全保障論においては、「文官統制」よりも「憲法統制」が重要であり、そのためにも先の自衛隊統制会議における審議と議決が要となる。一方で「半文民」としての自衛官自体の文官的性格が増すからには、武官と文官の峻別は必要としない。
 従って、防衛省内局は政策的な観点から防衛大臣の立案を補佐する機構として存在していればよく、防衛省内局が自衛隊現場を統制するという無理な構制に固執する必要はない一方、内局ポストに制服自衛官を充てることも臆する必要はなくなるだろう。

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9条安全保障論(連載第10回)

2016-08-12 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

四 過渡的自衛力論③

 前回は「軍隊ではない(あってはならない)」自衛隊の形式的な組織要件について見たが、ここではそのような自衛隊のより実質的な編制要件について見る。
 現行自衛隊は、周知のとおり、陸上・海上・航空の三隊によって構成されている。これは陸海空三軍構成を通例とする現代軍隊の編制にならったものであり、それゆえに自衛隊が9条で保有を禁止されるはずの陸海空軍のアナロジーとして合憲性を疑われるゆえんでもある。
 これに対して、政府は9条で禁止される「戦力」とは「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるもの」をいい、「陸海空軍」とはそうした「戦争目的のために装備編成された組織体」を指し、「その他の戦力」というのも、「本来は戦争目的を有せずとも実質的にこれに役立ち得る実力を備えたものをいう」として、自衛隊はかかる意味での「戦力」に該当せず、9条に反しないと解釈してきた。
 こうした政府解釈は「戦力」に関する一般論で片を付け、自衛隊が9条の枠内で備えるべき編制の実質内容については回避している点で、まさしく法的な形式論に終始している。

 そこで、改めて9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制という観点から自衛隊の編成について考えてみるに、それは陸海空軍の単純なアナロジーであってはならないはずである。
 政府が自衛力論のキーワードとする「必要最小限」を重視するなら、四囲を海洋で囲まれ、大陸部と接続していない日本の現有領土の地理的な特質にかんがみ、自衛隊は海洋防衛を主たる任務とするものに限定されなければならない。すなわち、自衛隊≒海上自衛隊ということになる。
 現行三自衛隊にあっては、海上自衛隊約4万5千人、航空自衛隊約4万7千人に対し、陸上自衛隊約15万人(いずれも2015年3月現在の定員概数)と圧倒的に陸上自衛隊中心の編成となっているが、これは陸軍主体の旧日本軍の編成を継承したものにほかならない。
 陸軍はその名のとおり陸上戦力であり、大陸国家においては防衛上の中心的存在となるが、元来島嶼国家の日本にはふさわしくない戦力である。しかるに、戦前の旧日本軍では陸軍兵力が終戦時約550万人にまで膨張していたのは、まさに大陸侵略という帝国主義的膨張政策の結果であった。
 これに対し、9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制下の自衛隊は海上防衛を主軸とするので、陸上防衛力はあえて必要ないと言ってよいのである。日本の防衛上、敵軍に上陸を許したうえ、陸上で撃退するという作戦は、現在のように都市化が進んだ時代には多大の犠牲者を出す危険な市街戦となりかねない。
 よって、日本の防衛上は敵軍の上陸阻止という水際作戦が最も重要であり、そのための海上防衛力の配備を必要とし、かつそれで足りる。ただし、一定規模の陸上部隊の存在が許されないわけではないが、それは陸上自衛隊として別立てにするほどのことはなく、万一敵軍の上陸を阻止できなかった場合における遊撃・破壊工作を主任務とする陸上特殊部隊として編成すれば必要にして十分である。

 とはいえ、現代の戦争においては空軍の比重が大きい。つとに第二次世界大戦でも米空軍(当時は陸軍航空総軍)の激しい空爆によって主要都市と社会基盤を徹底的に破壊されたことが日本の敗因となったところでもある。空爆はそれにさらされる一般市民に逃げ場をなくし、大量犠牲を出す最も反人道的な攻撃手法であり、それを専門とする空軍という軍種自体が、現代戦の反人道性を象徴している。
 しかし、そうした航空攻撃が現代戦の中心となっている現状にかんがみれば、防衛上も防空体制の保持が必須となる。そこで航空自衛隊については海上自衛隊とは別立てで保持するという編成もあり得るが、航空自衛隊を空軍のアナロジーとするなら、やはり9条を逸脱するだろう。
 その点、旧ソ連軍が保持していた防空軍が参照される。ソ連防空軍は空軍とは別立ての防空任務に限局された専守防衛組織として機能していた。航空自衛隊の役割も本来は防空軍に近いものであったはずだが、近年は戦闘機のマルチロール化に伴い、より攻撃的な空軍に近づいている。防空任務限定の航空自衛隊であれば、戦闘機は最小限でよく、警戒機や高射砲、防空ミサイル等を中心とした防御的な装備が中心となる。

 こうして、9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制下の自衛隊は陸上を除いた海上及び航空自衛隊の二部門に集約されるが、海・空を完全な別立てとするなら、陸軍を排除した海軍と空軍のアナロジーとなりかねないので、海・空二部門は別立てではなく、統合されなければならない。
 この点、現代米軍が形式上は陸海空軍に海兵隊、沿岸警備隊を加えた五軍種構成を維持しながらも、運用上は統合されていることが参照される。この統合はあくまでも全世界に展開する米軍の作戦遂行上の効率を考慮した運用上の統合にすぎないが、自衛隊の場合は軍隊組織との相違を考慮した憲法的な制約としての組織上の統合化が要求されるのである。
 要するに、自衛隊は自衛隊として単一の防衛組織―統合自衛隊―であって、担任地域ごとに海上自衛隊と航空自衛隊が統合された地方隊と全国的な機動運用部隊の二本柱で編成されることになる。当然、現行のように各自衛隊ごとに旧日本軍の参謀本部(または軍令部)のアナロジーである幕僚監部が設置され、それぞれに幕僚長が任命されることにはならず、自衛隊の司令監部は単一であり、全体を唯一の司令総監が指揮する体制となる。

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9条安全保障論(連載第9回)

2016-08-11 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

三 過渡的自衛力論②

 前回、過渡的自衛力論の概略を述べたが、今回からはその具体論を展開する。その際、次の二つの問いを順次解明していくことになる。

  問1:合憲的な自衛のための武力行使とは?
  問2:合憲的な自衛のための武装組織とは?

 9条の規定に沿って論理的に展開するなら、問1から問2へ進むのが適切であろうが、ここでは、再軍備を狙う改憲論の目玉に関わる問2からあえて入ることにする。

 ここで単純な「自衛力」ではなく、「過渡的」という形容詞を付加しているのは、自衛力の保持を恒久化するのではなく、あくまでも未来的非武装世界が到来するまでの期間限定での自衛力の保持であることを自覚するためであった。これに対して、自衛力の保持を合憲とする政府見解は、「必要最小限」という容量の問題に焦点を当てるばかりで、時限性の問題を等閑視してきた点において、視野が狭いものである。

 過渡性という時限性を重視するならば、自衛力の行使は時限的な義勇軍組織をもってするのが最も首尾一貫するであろうが、現代にあってはそうした義勇軍の組織化は技術的に困難となってきているため、現実的な選択肢ではない。そこで、志願制という限りではボランティア性を維持しながらも、公式の常備武力を組織することになる。
 この点で、戦後日本の常備武力として機能してきた自衛隊は、本来は戦力不保持を宣言する9条と戦後の地政学的事情との苦しい妥協の産物ではあるが、過渡的自衛力を担う組織としては、むしろ適切な選択肢と言えるのである。

 ただし、そのためには自衛隊がまさしく「自衛隊」ではなくてはならない。すなわち、自衛隊とは、自国防衛を任務とする武装組織であって、軍隊でないものでなくてはならない。軍隊の保持は9条2項で明確に禁止されているのであるから、これは当然のことである。
 しかし、「軍隊でない」ということが具体的にどういうことを意味するのか、より突っ込んだ考察を要する。「軍隊でない」とは、その組織が軍隊式に構築されてはならないということである。具体的には、要員の養成や階級が軍隊式であってはならず、また法体系的にも一般法を排除する軍法を持ってはならない。
 この点、現行自衛隊も当初はそのような非軍隊性という性格がかなり意識されていたのだが、時を経るにつれ、自衛隊の軍隊化が進行し始めている。それでも、階級呼称には旧日本軍とは異なるものが用いられ、法体系的にも軍法や軍法を執行する軍事法廷(軍法会議)は存在せず、非軍隊性はかなりの程度残されていると言える。

 一方、幹部要員の養成に関して、自衛隊は一般大学出身者の任用も行なってはいるが、幹部自衛官養成に特化した防衛大学校の創設とその定着により、必然的に幕僚長をはじめとする主要な幹部自衛官は防衛大学校出身者で占められるようになっている。それにより、自衛官の「軍人」化が進行している。
 およそ人間の組織では人が主要素となるという点では、自衛官の「軍人」化が進む現状は、まさしく再軍備を規定する改憲に向けての重要な布石となっている。しかし、9条安保論はこれとは逆の流れを促進する。つまり、自衛官の「半文民」化である。「半文民」とは、武官でありながら、文官的な素養と性格を併せ持つ官吏のことをいう。
 この点で、防衛大学校という幹部自衛官養成機関の位置づけには問題がある。現在の防衛大学校は省庁大学校でありながら大学(及び大学院)相当の教育機関と位置づけられているため、エリート軍人を養成していた旧陸軍士官学校及び海軍兵学校の後身に近い性格を帯びている。

 自衛官の「半文民」化を進めるには、幹部自衛官はすべて一般大学出身者(民間からの転職者を含む)とし、防衛大学校は上級幹部研修機関に特化する必要がある。それに加え、現場自衛官についても、専従自衛官を削減して、民間人の兼職による予備自衛官化を進め、ボランティア性を強化することである。
 また階級呼称についても、現行自衛隊のそれは旧日本軍とは異なるとはいえ、名称だけ変更して実質は旧称に対応している面が強いが、このことも軍隊化傾向を助長してきた。自衛隊の純粋「自衛隊」化のためには、階級呼称の廃止及び職掌による職名(隊長、司令官等々)への一本化も必要である。

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9条安全保障論(連載第8回)

2016-08-06 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

二 過渡的自衛力論①

 9条の現在時間軸に基づく過渡的安保体制として、どのようなことが想定できるか。これが、「9条安全保障論」と題する本連載の最大の焦点であり、核心部分である。まず、大きな枠組みとなるのは、「過渡的自衛力論」である。
 「過渡的自衛力論」とは、自衛のための武力の行使とその目的を達するための非軍隊的な国家武装組織の保有を過渡的に認めるという命題である。というと、これは現実の必要性から必要最小限度の自衛武力の保持は憲法に違反しないとする政府見解その他の「現実主義」の立場と重なるように見えるかもしれないが、二つの点で大きく異なる。

 一つは過渡性という時間概念を導入する点である。これは、たとえ自衛武力の保持といえども恒久的なものではなく、未来的非武装世界が到来するまでという時間的な限定性を伴った保持であることを明確化するものである。その意味では、まさに未来時間軸を意識した現在時間軸なのである。
 もう一つは、非軍隊性という視点の明確化である。これは、9条が非軍国主義体制という過去時間軸から軍国主義の復活阻止を現在に対し課していることに由来する視点である。「現実主義」にあってはしばしばこの認識がぐらつき、ともすれば自衛隊を安易に軍隊と同一視し、そこから9条2項を排除して自衛隊を正式に軍隊化すべく改憲に結び付けようとするのが通例である。

 とはいえ、このような「過渡的自衛力論」は、9条の法文から直接に定立されるものではなく、言外の命題として、言わば不文法的に導出されるものであり、その意味でも過渡性の強い際どい解釈を強いられる。その具体的詳細は次回以降順次見ていくが、ごく簡単に概略を述べれば、次のようになる。

 1項に関して言えば、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言する同項は、自衛のための武力の行使については「永久に」放棄しておらず、過渡的な留保を認めている。ただし、戦争放棄の命題から「自衛戦争」については永久に放棄していると解される。
 1項の目的を達するため、戦力の不保持と交戦権の否認を宣明する2項は、自衛のための武力の保持についてはさしあたり保留にしているが、それとて「戦力」に該当するような武装組織であってはならない。

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9条安全保障論(連載第7回)

2016-08-05 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

一 9条の現在位置

 前回まで、9条が指し示す未来時間軸:未来的非武装世界と過去時間軸:非軍国主義体制という二つの時制に応じた規範内容を検討してきたが、最後に現在時間軸である。現在とは、未来と過去の双方にはさまれたサンドイッチのような時間軸であって、過去を未来へ橋渡しするつなぎの過渡的な時間軸である。本連載の「9条安全保障論」という表題の焦点はここにある。
 この点、9条=非武装平和主義という平面的な把握によりつつ、これを現在的な安全保障政策の障害物と決め付け、排除しようとするのが9条改憲論の常套的思考法であるが、「9条安全保障論」はこれに対抗して、「9条に基づく現在的安全保障論」を展開しようとするところに主眼があるのである。

 その前提として9条の現在位置を再確認しておく必要がある。繰り返しになるが、現在という時間軸は未来と過去の間に挟まれたサンドイッチである。このことを忘れて、平面的な「現実主義」に陥ると、9条排除論と合流することになる。従って、9条の現在位置は、過去の軍国主義を脱しながらも、非武装の未来世界が到来するまでの過渡的時間軸である。このことが、9条安全保障論の出発点となる。
 そこで、9条安全保障論に基づく具体的な施策を縷々列挙する前に、二つの命題を片付けておく必要がある。一つは軍国主義の復活阻止、もう一つは不断の軍縮努力である。

 軍国主義の清算自体はすでに戦後の占領下で終了しているが、その後の復活阻止については相当に疑わしい。元来、日本支配層の間では戦前軍国主義への反省が希薄で、ともすれば戦前の戦争政策は侵略ならず、自衛・解放の使命を帯びていた云々といった正当化の論理が根強く残り、9条に象徴される戦後憲法は戦勝者の押し付けであるとする被害的な受け止めと痛恨の感情が今日まで受け継がれてきている。
 そのため、戦後の歴代保守政権も軍国主義の復活阻止のために意識的な取り組みをしてきたとは言えず、ともすればむしろ栄光の軍国時代を懐古するような復古勢力を取り込みつつ、曖昧な態度を取り続けてきた。そういう延長上に9条を骨抜きにする「解釈改憲」の集団的安保法制や再軍備を明確にする改憲論が準備されている。
 その流れは必ずしも直接に軍国主義そのものを復活させようとするものではないとしても、その前提に軍国主義の復活阻止という軸が置かれていないため、曖昧にぐらついており、新たな形の軍国主義を生み出す危険は大である。
 そういう危険な道に踏み込まないためにも、9条安全保障論は軍国主義の復活阻止から出発する。具体的には、軍国主義における最大のマシンであった軍の復活阻止である。従って、9条安全保障論は再軍備論ではあり得ず、軍とは異なる組織による自衛を構想する。その点、戦後日本の国家武力として定着してきた自衛隊を基本に据えた安全保障論となるが、自衛隊の実質的な軍隊化を防止するための施策も含まれなければならない。

 第二の不断の軍縮努力についても、歴代保守政権は国際社会では核廃絶を理念的に訴えつつも、自らは日米同盟に基づく「核の傘」に収まり、自国の防衛費は増大の一途という自己矛盾を年々深めている。
 9条安全保障論においては、国際社会における軍縮のリーダーシップを発揮することも重要だが、それにとどまらず、自国の自衛力の縮小とそれを可能とする恒久平和へ向けての努力、そのための脱軍事同盟外交の展開が求められる。この点についてはより具体的詳細に検討する必要があるので、最後にもう一度立ち返ってみることにしたい。

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9条安全保障論(連載第6回)

2016-07-29 | 〆9条安全保障論

Ⅲ 非軍国主義体制

 9条は、過去の軍国主義体制に対する無慈悲な原爆攻撃という日本国民の体験に基づき、未来的非武装世界の実現へ向けた義務を課しているのであった。そこで、9条は過去時間軸として、そうした過去の軍国主義体制の清算という義務をも日本国民に課している。このことは、9条でもとりわけ第1項が明示している。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 この法文前半の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」とは、まさに国際平和を踏みにじって、自国の利益を暴走的に追求した富国強兵の軍国主義体制との決別宣言とも読めるものである。

 ここで、日中戦争から太平洋戦争までの戦時体制を特に「天皇制ファシズム」と規定しつつ、9条で清算が要求されているのは、この一時期のファシズムにとどまるのではないかという疑問もあり得る。すなわち、民主主義の下での再軍備、文民統制された軍の再構築は許されるのではないかというささやきが、近年ますます強くなっている。
 言い換えれば、9条は戦前の一時期の体制の誤りに対する反省条文であって、民主主義が定着して久しい現在、そろそろ反省から抜け出し、軍備を持つ「普通の国」になってもよいのではないか、ということである。
 しかし、すでに別論稿でも考察したように、いわゆる「天皇制ファシズム」の本質は総力戦のための臨戦体制を構築する中で、神格化された天皇の権威を利用する形で軍部が主導したファシズム様の体制、すなわち擬似ファシズムであって、ナチスドイツやファシストイタリアのような真正ファシズムではなかった。
 ナチスドイツやファシストイタリアでは、ファシスト政党の解体を中心とした脱ファッショ化が戦後処理の中心を成し、再軍備は認められたのに対し、日本の軍部主導の擬似ファシズムの清算に当たっては、天皇を脱神格化・象徴化させて存続させつつ、軍国主義の大元である軍の解体に焦点が置かれた。
 そのため、軍の廃止・武装解除がまず目指され、しかも恒久化された。それで、再軍備の恒久的禁止という厳しい制約が課せられたのである。従って、9条を改正して再軍備することも「違憲」となるという形で将来の憲法改正の方向性にも制約がかかることになる。

 このようないささか厳しすぎると言えなくもない制約はまた、前回見た未来時間軸からも根拠付けられる。たとえ民主主義の下で文民統制を受ける軍であっても、再軍備化は非武装世界の実現に向けた義務に反するからである。だからこそ、解釈の出発点を未来時間軸に取ったのである。

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