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近代革命の社会力学(連載第92回)

2020-04-13 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐1〉青年トルコ人運動
 13世紀末から連綿と続いてきたオスマン帝国は、19世紀に入り、西欧列強からの攻勢にさらされるとともに、その時代遅れな中世風の社会経済諸制度も疲弊を来し始めていた。そこで、上からの西洋近代化政策(タンジマート)が19世紀前半期に導入された。そうした潮流の中で、近代憲法の制定へ向けた動きも生じる。
 改革派のクーデターを経て1876年に即位した第34代スルタン・アブデュルハミト2世も、当初はそうした革新的な流れの中にあった。その目玉は帝国初の近代憲法の制定である。改革派大宰相ミドハト・パシャが主導して制定された1876年憲法がそれであった。
 この憲法は欽定憲法という限界はあったものの、当時のアジアでは日本の明治憲法にも先行して発布されたアジア初の近代憲法とも称された。しかし、スルタンにとっては権限を制約される障害物であった。
 そのため、保守的なアブデュルハミト2世は、折からの露土戦争に伴う国家非常事態を口実に、制定されたばかりの憲法を停止し、旧来の専制政治に立ち戻ってしまった。この1878年憲法反動以降、アブデュルハミト2世は秘密警察を駆使した帝政ロシア張りの恐怖政治を続けることになった。
 しかし、一度は着手された西欧近代化の波は、多くの近代的知識人の青年を誕生させていた。かれらは、日本の近代化革命であった明治維新に関心を寄せた。同時に、哲学的には唯物論に立脚したが、マルクス主義ではなく、オーギュスト・コントの実証主義に影響されていた。その点では、1889年ブラジル共和革命を主導した勢力に通ずるものがある。
 こうした近代的青年トルコ人はスルタンの専制政治を批判し、憲法の復活を求めた。このような立憲派青年グループの活動は19世紀末から盛んになったが、国内の弾圧により、ネットワーク化には難渋していた。
 そうした中、海外亡命者のグループが反専制運動の統一組織として、「統一と進歩委員会」を結成した。この組織は、やがて反体制派皇族の参加も受け、1902年に、パリにて第一回青年トルコ人会議の開催に漕ぎ着けた。この会議を最初の核として結集した立憲派青年グループが、やがて立憲革命の中心となる。
 ただし、「統一と進歩委員会」は一個の政党ではなく、当初は憲法復活を求める立憲主義者の運動体であったが、当局の弾圧を受ける中で、次第に革命組織として成長していく。その過程では、近代的な士官教育を受けた青年将校の寄与が大きかったことが特徴である。
 特にオスマン帝国支配下の東欧マケドニアに駐留した第三軍団の将校たちは、マケドニア人の独立運動鎮圧への動員と貢献に対して十分な待遇を受けていないことへの不満を抱えていた。この第三軍団将校は、やがて「統一と進歩委員会」の基幹的な細胞となり、その中からは後にオスマン帝国に引導を渡す共和革命立役者となったムスタファ・ケマルも出た。


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