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近代革命の社会力学(連載第113回)

2020-06-10 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(7)革命の保守的収斂過程
 メキシコ革命は、1916年までに農民革命が挫折した後、さしあたり、1917年にようやく革命憲法が制定されることで、一区切りがつく。この1917年憲法は、革命の勝者となったカランサ派が主導したものであったが、奇妙なことに、必ずしもカランサの意に沿う内容ではなかった。
 というのも、カランサ自身はブルジョワ民主主義者でありながら、カランサ派内部にはサパタらの農民革命運動の影響が浸透しており、社会主義的な傾向性も帯びていたからである。そのため、出来上がった憲法は、ロシア10月革命に先駆けて、社会的な権利の保障を規定し、さらには土地、地下資源、水の国家管理を謳うなど、社会主義的な内容を含んでいた。
 こうしたことから、カランサは大統領に選出されたものの、事実上憲法を無視し、農民や労働者勢力を敵視、抑圧した。そのハイライトは、1919年、刺客を送り込み、山岳ゲリラ活動でなお抵抗を続けていたサパタを殺害したことである。
 一方、革命の過程では主導的なアクターとは言えなかった労働者勢力も、革命憲法によって活力を得て、活動的になると、カランサはこれも抑圧しようとしたため、労働者勢力はより進歩的なオブレゴンと連携するようになる。
 それ以前からカランサと対立し、政権に追われていたオブレゴンは郷里である北西部のソノラ州にて立憲自由軍を結成し、カランサ打倒の狼煙を上げた。こうして、メキシコは1920年、再び内戦状態となる。
 立憲自由軍は農民勢力からも支持を受け、首都に進撃したため、カランサは西岸部ベラクルス州へ敗走するが、当地で暗殺された。かくして、1920年6月、オブレゴンが新大統領に選出される。
 労働者、農民に支持されたこの1920年政変は、メキシコ革命の第二段階としての「労農革命」と位置づけることもできそうであるが、その後の展開を見るとそうではないところが、メキシコ革命の複雑な点である。
 大統領となったオブレゴンは、農民運動のサパタ派、ビリャ派と和平合意を結び、取り込みを図りつつ、農地改革に着手し、20万人近い農民に農地を再分配した。その一方で、1923年には郷里で農園主として引退生活を送っていたビリャの暗殺にも関与したと見られている。
 オブレゴンが1924年にいったん大統領を退任した後、憲法の再選禁止規定を改正させて1928年に大統領返り咲きを果たした直後、カトリック派により暗殺されると、跡を継いだのは腹心で、前大統領のプルタルコ・エリアス・カリェスであった。
 カリェス前政権はオブレゴンの傀儡に近い政権であり、革命憲法で謳われた政教分離を強権化し、カトリック教会・神学校の閉鎖や教会財産の没収などを断行するカトリック弾圧政策に彩られていた。
 しかし、オブレゴン暗殺後のカリェスは大統領に再選されることなく、自身が操縦できる傀儡を大統領に据えるキングメーカーとして君臨した。こうしたカリェス実権体制を支える政治マシンが、1929年に結党された国民革命党(後の制度的革命党)であった。
 国民革命党はマルクス主義政党ではなく、メキシコでは複数政党制が維持されていたが、実態としては、同時期のソ連における共産党一党支配制に影響された一党優位政の樹立により、ロシア革命と同様、メキシコ革命も動的性格を失って、言わば物象化し、保守的収斂が確定した。
 カリェス実権体制下では、労働組合の腐敗が進行するとともに、農地改革は停滞し、革命の成果は形骸化していく。カリェスは傀儡として擁立したラサロ・カルデナスの背信により追放され、カルデナス政権下で再び革命の再活性化が試みられるが、彼の退任後は保守的収斂路線に戻っていった。


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