ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第65回)

2020-01-27 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(4)無血革命成らず革命戦争へ
 尊王攘夷運動が倒幕運動へと転換していく兆しを見せる中、幕府と倒幕勢力の武力衝突の危険が高まると、朝廷をはさんだ両勢力間で、ある種の妥協策が二度にわたって試みられた。一度目は、1863年に京都に設置された参預会議である。
 これは、攘夷論者の孝明天皇ですら嫌悪した攘夷強硬派の長州藩を追い落とした八月十八日の政変を経て、当時は将軍後見職だった徳川慶喜を筆頭に、朝廷が任命する大名級長老五人を加えて成立した諸侯会議であり、当時提起されていた公議政体論、すなわち幕府による独裁を改め、大名諸侯の連合政権に移行する構想を反映した最初の試みであった。
 しかし、長州藩への処分問題や天皇が求める横浜港閉鎖などの重要議題をめぐり、メンバーの意見はまとまらず、翌年3月に慶喜が離脱したのを機に崩壊してしまう。その後、慶喜が将軍職に就き、孝明天皇は死去するという潮目の変わり目に、同様の試みが薩摩藩主導でもう一度なされた。これが1867年に京都に設置された四侯会議である。
 四侯会議は公式の統治機関ではないが、薩摩藩の事実上の最高実力者・島津久光を筆頭に、越前、土佐、宇和島の各藩の前藩主という大名級長老四人で構成された幕府・朝廷双方に対する諮問機関のようなものであった。しかし、機関の位置づけの曖昧さとともに、主導した薩摩藩としては、この機関を介して政治の実権を薩摩中心の諸藩連合体制に移そうとする狙いがあった。
 このような薩摩藩の思惑は、徳川慶喜と幕府によってすぐに察知されるところとなった。将軍となった慶喜は全面開国に傾き、列強の要求する兵庫開港の勅許を得ようと工作し、最終的に孝明天皇を継いだ後の明治天皇の勅許を得ることに成功した。これにより、薩摩主導の四侯会議も事実上崩壊した。
 四侯会議の挫折を受け、薩摩藩は武力による倒幕を明確に志向するようになり、土佐藩倒幕派との間で倒幕密約を結び、京都の討幕派公家勢力とも連絡して、倒幕の密勅を得るなどの革命工作に乗り出していく。こうした動きに対抗して、武力革命を避けるための妥協的対処として、土佐藩士坂本龍馬の発案を受けて、同藩主山内容堂経由で慶喜に進言されたのが、大政奉還であった。
 慶喜としては、これによって武力革命を回避しつつ、徳川家支持の諸侯を集めて新たな連合政権を形成して権力を維持する思惑であったと言われるが、そうした徳川支配の温存策を阻止するため、倒幕勢力は1868年1月、王政復古の政変を起こし、慶喜を辞官納地処分として完全に排除した。
 ここまではほぼ無血のうちに進行したから、これでスムーズに革命政権が始動すれば明治維新は無血革命として歴史に残ることになったはずだが、そうはならなかった。慶喜にとっては不意打ちのクーデターでしかなかった王政復古政変は受け入れ難く、辞官納地の撤回を求めて工作し、これに成功しかけたのだった。
 一方、あくまでも倒幕を目指す強硬派によるゲリラ的な騒擾が相次ぐ中、幕末以来、江戸市中警備を担っていた譜代の庄内藩と薩摩藩の武力衝突を引き金に、慶喜を頂点とする旧幕府勢力と新政府の間で内戦が勃発した。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争である。
 この戦争は、革命という観点からみれば、革命政権と旧政権残党の間で交戦される革命戦争の性格を持っていた。こうした革命戦争は革命の波及を恐れる外国が介入する干渉戦争に発展することがままあるが、戊辰戦争ではそうした干渉は起きなかった。
 ただ、旧幕府は慶喜の時代にフランスに接近し、後ろ盾としていたため、フランスに支援的軍事介入を求めることも可能だったが、慶喜は戦意が乏しく、鳥羽・伏見の緒戦で敗北するや、江戸に脱出し、後に「敵前逃亡」の非難を受けることになった。
 戊辰=革命戦争の過程では、親藩や譜代を含む諸藩が続々と新政府側に寝返る中、対抗上皇族を擁した東北の奥羽越列藩同盟による抵抗に直面し、この同盟は反革命側の対抗政府のような様相を呈したが、結局は戦力不足ゆえに降伏を余儀なくされた。関ケ原の戦いという内戦で権力を確立した徳川幕府は、軍閥政権にふさわしく、最期も戊辰戦争という内戦で権力を失うのであった。
 なおも抵抗を続ける幕府残党勢力は箱館に逃れ、旧幕府海軍奉行・榎本武揚を公選の総裁とするある種の「共和国」を樹立した。榎本は佐幕派とはいえ、幕末に西欧留学を経験した開明派であり、この俗称「蝦夷共和国」が存続していれば、日本史上初の共和体制となっていた可能性もあり、広義の戊辰戦争中の興味深い一幕ではあった。
 しかし、「蝦夷共和国」はアメリカをはじめ西欧列強からの公式な承認は受けられないまま、新政府軍の掃討作戦に直面し、敗北した。投獄された榎本は釈放後、明治政府に参画し、外相を含む重要閣僚を歴任する重鎮となった。


コメント    この記事についてブログを書く
« アウシュヴィッツ解放75周... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »