ザ・コミュニスト

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バイデン政権の冷戦もどき思考

2021-04-30 | 時評

昨年の大統領選挙と、今年の議事堂乱入事件の混乱を経てバイデン政権が発足し、最初の試運転期間の就任100日を過ぎて、その性格が徐々に浮かび上がってきている。

とはいえ、この間の焦点は圧倒的に現下のコロナ対応にあったため、まだ明瞭な性格はとらえにくいが、そうした中でも、外交面ではロシア/中国への対決姿勢が目立つ。また、多分にして儀礼的ながら、米日同盟再確認・強化の姿勢も見られた。

こうした方向性は冷戦時代を思い起こさせ、どこか1980年代のレーガン‐ブッシュ(父)時代の既視感がある。1973年から2009年まで連続して合衆国上院議員を務めたバイデン氏自身、少壮政治家として冷戦時代の後半期・末期を経験しているので、無理もないだろう。

しかし、現在の世界秩序は冷戦時代とは異なる。再生ロシアはソ連時代とは比較にならないほど縮小され、同盟の盟主でもない。しかも、トランプ前大統領が選挙戦での癒着を疑われたほど、現在のロシアはアメリカ全体にとっての敵国ではなく、むしろプーチンのファッショ的な愛国独裁体制はトランプに乗っ取られた共和党の現行路線ともだぶり、親和的ですらある。

中国はかつてのソ連に代わる超大国として台頭しているように見えるが、しかし、旧ソ連と決定的に異なるのは、現在の中国は事実上の資本主義の道を歩み、世界市場に参入していて、アメリカとは貿易上のライバル関係にあるということである。そして、ロシアと同様、中国も同盟の盟主ではない。

中国とロシアは目下友好的で、共同歩調を取ることが多いとはいえ、互いに束縛されたくないので、運命共同体的な同盟関係を結ぶことはなく、別個の存在であり続けるだろう。

その点、アメリカもまた欧州連合の創設以来、西側盟主としての地位を保持できなくなり、友好的な中でも経済的には欧州連合との競争関係にさらされている。ここでも、欧州連合とアメリカは運命共同的な同盟関係を結ぶことはないだろう。*ただし、欧州連合を脱退したイギリスと、従来の慣例を越えた米英同盟を改めて結ぶかどうかは、今後の注目点である。

内政面でも共和党との超党派的な政治を掲げるバイデン大統領だが、この超党派政治もまた冷戦時代、民主・共和両党の共通敵としてソ連が想定されていた時代の産物であり、上院議員時代のバイデン氏はその超党派政治の象徴でもあったことから、昔懐かしいのかもしれない。

しかし、共通敵・ソ連は消え、かつトランプにより共和党が実質的な白人極右政党と化した現在、もはや超党派政治はかつてのようには機能しないだろう。

前任者と違い、バイデン大統領は好々爺に見えるが、冷戦もどきの時代認識の古さは否めない。トランプを否定するあまりに、アメリカ有権者は冷戦時代の亡霊を呼び戻したようである。これは前進でなく、後退である。

ここには、古典的な二大政党政から脱却できず、常に二大政党政の枠内で無限ループを繰り返し、前進することができないアメリカの深刻な閉塞状況が看て取れる。

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近代革命の社会力学(連載第229回)

2021-04-30 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(3)民族解放戦線の結成と独立宣言
 アルジェリアにおける先住民層の抵抗運動は、前回見たように、フランスによるアルジェリア占領の初期からあったわけであるが、19世紀中の抵抗は、イスラーム宗教指導者や部族指導者を中心とする伝統社会の構造の中から隆起したものであった。
 しかし、20世紀に入ると、先住民層の間でも、次第に近代的な民族意識に根ざす運動が興隆してくる。その最初のものとして、1907年に結成された青年アルジェリア人がある。
 この運動名称は同時代、オスマン・トルコの立憲革命を担った青年トルコ人運動に触発されたものであるが、運動はより穏健で、独立ではなく、先住アルジェリア人にフランス本国の国民議会選挙の投票権など対等な権利を付与するよう求めるものにとどまった。
 1920年代になると、より明確に独立を掲げる民族主義者のメッサリ・ハジが台頭した。彼は当初、フランス共産党と連携しつつ、民族解放運動を開始するが、やがてアルジェリア独立に消極的な共産党との連携を解消し、1930年代に独自にアルジェリア人民党を結党した。
 ハジは基本的に非暴力主義者であり、武装抵抗運動には否定的であった。しかし、フランス当局は、非暴力かどうかを問わず、アルジェリア民族運動には弾圧方針で臨んだため、アルジェリア人民党は非合法化され、ハジも拘束された。
 そうした中、大量のイスラーム教徒の先住アルジェリア人(最大推計3万人)が殺害されたセティフ虐殺が大きな転機となり、1946年に改めてハジを指導者とする民主的自由の勝利ための運動(MTLD)が結成された。これが、アルジェリアにおける民族解放組織の本格的な結成の嚆矢と言える。
 しかし、1947年、MTLD内部ではハジの非暴力路線に懐疑的なグループが組織内組織となるその名も特殊組織(OS)を結成して、武装活動を開始した。これ以後、ハジとOSのせめぎ合いが続くが、それに加えて、ハジの汎アラブ主義的な立場が先住民層の中の少数派であるカビル人を反発させ、民族間の亀裂が生じた。
 そうした路線と民族両面での複雑な組織力学が作動する中、MTLDは当初、アルジェリア地方議会選挙に参加し、46年の選挙では当局の干渉を乗り越えて5議席を獲得するが、48年選挙では全議席を喪失、51年にはOSが非合法化された。
 このような閉塞状況の中、旧OSメンバ―を中心に、本格的な武装抵抗組織の結成を通じた完全な独立への希求が生じた。その結果、1954年4月には団結と行動のための革命委員会が秘密裏に組織された。
 これを最初の革命細胞として、同年7月には各地の独立運動組織を結集した拡大革命会議を経て、武力革命方針が確認された。そのうえで、10月に民族解放戦線(Front de libération nationale:FLN)が結成され、FLNは11月1日に独立宣言を発した。
 FLNは軍事部門として民族解放軍を擁し、戦争を通じて独立を勝ち取ることを目標とする明確な武装革命組織であり、独立宣言は同時にフランスへの宣戦布告でもあり、これ以降、アルジェリアは1962年まで、長い独立戦争に突入する。
 このような紛争事態に至った要因として、フランス当局の頑ななまでのアルジェリア植民地固守の姿勢があったことは間違いなく、その点で、戦後いち早くイギリスとの交渉によって達成されたインド‐パキスタン独立(1947年)との相違が際立った。

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近代革命の社会力学(連載第228回)

2021-04-28 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(2)植民地アルジェリアの支配構造
 アルジェリア植民地は、七月革命、二月革命、コミューン革命と三度の革命が継起し、フランス史上における革命の世紀となった19世紀のフランス国内の力学と密接に連動しながら形成されていった点で、フランス革命史の影法師のような存在である。
 アルジェリアの植民地化は、ブルボン復古王朝最末期の1830年6月に、体制が国内の不満をそらすため敢行した当時のオスマン帝国版図アルジェリアの占領に端を発するが、体制は翌月には七月革命により崩壊、新たにオルレアン朝七月王政が成立した。
 オルレアン朝政府は旧体制の置き土産であるアルジェリア問題の処理に苦慮するも、結局手放すことなく、フランス領化した。南仏から近く、未開拓だったこともあり、アルジェリアにはフランスを中心に、欧州他国からも移民が急増し、やがてコロン(入植者)と呼ばれる欧州系アルジェリア人層が形成された。
 他方、アルジェリアの先住民はカビル族を中心とする少数派アマジク人(他称ベルベル人)とイスラーム勢力の拡大に伴って中世に移住してきた多数派アラブ人が主体であったが、コロンはかれらから土地とイスラーム社会におけるある種の社会資本であるワフク(モスク寄進財産)を奪取し、先住民を従属下に置いた。
 そうした剥奪地と剥奪財産を元手とするブドウを主体とした農業経営が、アルジェリア植民地における原始蓄積の手段となった。やがて、本国の資本主義がアルジェリアにも浸透してくると、コロン階級は伝統的な手工業を解体し、アルジェリアを本国工業生産の原料供給基地とし、先住アルジェリア人を労働者として低賃金で搾取するようになる。
 これに対して、先住アルジェリア人層も忍従ばかりしていたわけではなく、占領初期の1832年から47年まで、宗教指導者アブド・アルカーディルの武装蜂起があり、一時はアルジェリアの三分の二を実効支配したが、最終的に降伏し、ナポレオン3世により懐柔された。
 ナポレオン3世はアルジェリアに対し融和政策を採り、先住民の土地所有権や地方参政権などを認めたが、そのナポレオン3世の第二帝政が崩壊した後の1871年から72年にかけて、先住民の三分の一が参加したとも言われる大規模な民衆蜂起が発生した。
 指導者となったカビル族のシェイク・モクランの名をとってモクランの乱とも呼ばれるこの事件は、フランスに対する先住民層の反発が一挙に噴出したものであったが、本国でコミューン革命を武力鎮圧した当時のフランス第三共和政政府はアルジェリアでも容赦のない弾圧で臨み、アルジェリアにおけるブルジョワ階級であるコロン層の権益を擁護した。
 実際、如上のアルジェリア植民地経済の構造が確立されるのは、このモクラン蜂起の後、20世紀初頭にかけてのことであった。搾取と抑圧により生活が立たなくなった先住アルジェリア人らは出稼ぎ労働者としてフランス本国に流出したが、出稼ぎの常として、少なからぬ労働者が本国に定住し、今日のアルジェリア系フランス人の最初の世代となった。
 フランスは民族自決の思想と運動が隆起した二つの世界大戦を経ても、アルジェリア植民地を放棄する意思は毛頭なかった。実際のところ、アルジェリアは厳密には「植民地」ではなく、1848年二月革命後に準海外県とされ、国内の延長的な扱いがなされていたのであった。
 そのため、アルジェリア問題は「国内問題」であり、民族運動は国内の騒乱に準じて力で抑圧された。そうした抑圧は、第二次大戦を経てかえって強まった。
 契機となったのは、1945年5月、北東部の町セティフでの戦勝記念デモから偶発的に発生したフランス治安部隊との武力衝突が先住民とコロンの衝突に発展した(セティフ虐殺)である。
 これ以降、先住アルジェリア人の抵抗運動が活発化するが、対抗上、フランス当局は拷問や略式処刑を含む弾圧政策の強化で臨んだ。フランス革命の所産としてフランスが誇る人権宣言は、植民地アルジェリアでは無視されていたかのようであった。
 植民地アルジェリアが第二帝政崩壊後、コミューン革命の挫折を経て恒久的に確立された自由と人権の国フランス共和国の旗の下で進展していく帝国主義の象徴となったことは皮肉であり、近代フランスのダブルスタンダードを示すものと言えるであろう。

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近代革命の社会力学(連載第227回)

2021-04-26 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(1)概観
 北アフリカでは、1952年のエジプト共和革命に続き、1830年以来のフランス植民地アルジェリアでも1954年に民族解放組織(アルジェリア民族解放戦線)が決起して革命が勃発した。
 その点、エジプトでは、すでに第二次大戦前に形式上はイギリスからの独立が達成されており、52年革命は事実上イギリスの傀儡化していた君主制を打倒する共和革命となったのに対して、アルジェリアは戦後もフランスの完全な植民地支配下にあったため、革命の最大目標が独立に置かれたことから、独立革命という性格を持った。
 アルジェリア独立革命が開始された1954年は、宗主国フランスにとっては、アジアにおける枢要な植民地であったベトナムの独立を阻止するためのインドシナ戦争に事実上敗北し、ベトナムを喪失した年度でもあり、それ以上の植民地の喪失を何としても避けたい時であった。
 中でも、アフリカ大陸で歴史的に最もフランス人入植者が定着していたアルジェリア植民地の護持はフランスにとって譲れない限界線であり、国力を挙げてアルジェリア独立阻止に動いたことから、独立革命は独立戦争に転化した。
 これに対して、戦後、オランダからの独立戦争を経て独立したインドネシアのバンドンで、エジプトのナーセルも参加して開催された1955年のアジア・アフリカ会議はアルジェリアの独立をいち早く支持するなど、国際社会ではアルジェリア独立を支持する流れが形成されていった。
 そのため、フランスは孤立化し、最終的には独立を許す結果となった。フランスにとっては、アジアとアフリカで枢要な植民地を喪失し、フランス植民地「帝国」が解体する契機となった出来事である。
 一方、いまだ西欧列強の植民地支配下にあったアフリカ内外の諸地域にとって、アルジェリア独立革命は、56年のスエズ危機におけるエジプトの勝利に続き、希望の星となる出来事であり、思想と運動の両面で大きなインパクトを及ぼし、独立運動を刺激した。
 決起からおよそ8年の歳月をかけたアルジェリア独立戦争は今日でも戦後史に残る解放戦争の成功例として記憶されているが、その長期的な経過は、あたかも18世紀のアメリカ独立革命に通ずるところがある。
 異なるのは、革命成就後、社会主義に傾斜した民族解放組織がそのまま一党支配による社会主義体制を樹立したことである。そのため、アルジェリア独立革命をエジプト革命を起点とする60年代にかけてのアラブ連続社会主義革命の流れに位置付けることもできないではない。
 しかし、独立後の体制変動として生じた他の社会主義諸革命とは異なり、アルジェリアの場合は、独立の達成が第一の目標に置かれたことから、本連載では別途扱うことにする。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第12回)

2021-04-24 | 南アフリカ憲法照覧

権利の制限

第36条

1 権利章典上の諸権利は、以下のすべての関連要素を考慮に入れつつ、人間の尊厳、平等及び自由に基づく透明かつ民主的な社会において合理的かつ正当な限度で、一般法の定めによってのみ制限される。

(a) 当該権利の性質

(b) 当該制限の目的の重要性

(c) 当該制限の性質及び程度

(d) 当該制限とその目的との関係

(e) 当該目的を達成するためのより制限的でない代替手段

2 法は、第1項またはこの憲法の他の条項で定められた場合を除き、権利章典において確立されたいかなる権利も制限しない。

 本条は、憲法上の諸権利を法により制限する場合の基準を明示している。その基準の軸は、第一項e号に示されているless restrictive alternative(より制限的でない代替手段)である。このように、南ア憲法は厳格な基準によってのみ基本権の制限を容認することで、人権保障を確保している。

非常事態

第37条

1 非常事態は、国会の法律によってのみ、かつ以下の場合にのみ宣言される。

(a) 国家の存立が戦争、侵略、暴動、無秩序、自然災害その他の公共的非常事態によって脅かされている場合、かつ

(b) 非常事態の宣言が平和と秩序を回復するために必要な場合

2 非常事態宣言及びそれに引き続くいかなる制定法またはその他の措置も、以下の限りで効力を有する。

(a) 将来に向かって、かつ

(b) 国民議会が宣言の延長を決定しない限り、宣言の日から21日以内。議会は、一度につき三か月を越えて非常事態宣言を延長することはできない。初度の延長は、議会の過半数の賛成で採択された決議によらなければならない。それ以上の延長は、議会の60パーセント以上の賛成で採択された決議によらなければならない。本号の決議は、議会における公開討論に引き続いてのみ採択される。

3 権限あるすべての裁判所は、次の事項の有効性について決定することができる。

(a) 非常事態宣言

(b) 非常事態宣言の延長全般、または

(c) 非常事態に引き続く制定法またはその他の措置全般

4 非常事態に引き続くいかなる制定法も、以下の限りにおいてのみ権利章典に違反することができる。

(a) 当該違反が当該非常事態によって厳格に必要とされていること。

(b) 当該法律が―

 (ⅰ) 非常事態に適用される国際法の下における共和国の義務に合致していること。

 (ⅱ) 第5項に従うこと。

 (ⅲ) 制定後合理的に可能な限りすみやかに官報で公表されること。

5 非常事態を授権する国会の法律及び宣言に引き続くいかなる制定法その他の措置も、以下のことを許可し、または容認してはならない。

(a) 不法な行為に関して、国家または何らかの個人を保護すること。

(b) 本条に違反すること、または

(c) 次の侵害不能な権利の表の第1段で言及された条項に、表の第3段に反対表示された限度まで違反すること。

侵害不能な権利の表
※ 編集の都合上、原典の表は略し、その内容のみを以下に記す。

第9条 平等

 人種、肌の色、または民族的もしくは社会的出自、性別、宗教もしくは言語のみを理由とする不公正な差別に関して

第10条 人間の尊厳

 全面的に

第11条 生命

 全面的に

第12条 人身の自由及び安全

 第1項(d)及び(e)並びに第2項(c)

第13条 奴隷、隷属及び強制労働

 奴隷及び隷属に関して

第28条 子ども

 第1項(d)及び(e)
 第1項(g)の(一)及び(二)の諸権利
 第1項(i)における15歳以下の少年に関して

第35条 逮捕、抑留、起訴された人

 第1項(a)、(b)及び(c)並びに第二項(d)
 第3項のうち、(d)を除く(a)乃至(o)までの諸権利
 第4項
 第5項のうち、審理を不公正にする恐れのある証拠の排除に関して

6 非常事態宣言に由来する権利の侵害の結果として、裁判なしに拘束されたいかなる人も、以下の条件が遵守されなければならない。

(a) 被拘束者の成人の家族または友人に対して合理的に可能な限りすみやかに連絡され、該当者が拘束されたことを告げられなければならない。

(b) 該当者の氏名及び拘束場所を明らかにし、かつ該当者が拘束されている根拠となる非常措置に言及した告示が、該当者が拘束されてから5日以内に官報で公表されなければならない。

(c) 被拘束者は、医師を選任し、適切な時にいつでも訪問を受けることが許されなければならない。

(d) 被拘束者は、法的代理人を選任し、適切な時にいつでも訪問を受けることが許されなければならない。

(e) 裁判所は、該当者が拘束されてから合理的に可能な限りすみやかに、しかし一〇以内に拘束について審査し、平和と秩序を回復するために拘束を続けることが必要でないときは、非拘束者を釈放しなければならない。

(f) e号に基づく審査によって釈放されない被拘束者または本条項に基づく審査によって釈放されない被拘束者は、前の審査から10日を経過した時はいつでも裁判所に再審査を求めることができる。裁判所は平和と秩序を回復するために拘束を続けることがなお必要でない限り、被拘束者を釈放しなければならない。

(g) 被拘束者は拘束について審理するいかなる裁判所にも自ら出席し、その審問で弁護士に代理され、かつ拘束の継続に反対する弁論をすることが許されなければならない。

(h) 国は拘束の継続を正当化する理由書を提出しなければならず、かつ裁判所が拘束について審査する少なくとも2日前に当該理由書の写しを被拘束者に交付しなければならない。

7 裁判所が被拘束者を釈放したときは、まず国が当該人物を再度拘束するための正当な理由を裁判所に示さない限り、当該人物は同一の理由で再度拘束されない。

8 第6項及び第7項は、南アフリカ市民でない者及び国際的武力紛争の結果拘束された者には、適用しない。ただし、国はそうした人物の拘束に関する国際人道法の下で共和国に課せられる基準に従わなければならない。

 本条は、非常事態に関する条項である。非常事態の要件、手続き等について極めて詳細に定められている。
 特に第5項では非常事態下にあっても、人間の尊厳、生命をはじめ、絶対に侵害されてはならない諸権利が別表で事細かに規定されている。さらに非常事態そのものをはじめ、非常事態下での身柄拘束の当否に至るまで、裁判所の司法審査が予定されている。
 このような規定は非常事態下にあっても国家の権限を抑制することで、立憲主義を貫徹しようとするものと言える。ここには、白人政権時代、反アパルトヘイト闘争弾圧のため、非常事態令が乱用され、その下で著しい人権侵害が生じていたことへの反省が横たわっている。
 この点、日本でも非常事態条項の新設を改憲の突破口にしようとする動きが見られるが、そこでは非常事態下での人権制約に専ら関心が向けられているように見える。しかし真に立憲的な非常事態条項とは、本条のように、非常事態下における国家の権力を制限することに力点を置くものであるということをわきまえる上で、本条は大いに参照に値する。

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近代革命の社会力学(連載第226回)

2021-04-23 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(6)革命の余波
 1952年エジプト共和革命は戦後アラブ世界における大きなインパクトを持つ革命事象となり、実際、1950年代から60年代全般にかけて、北アフリカ・中東のアラブ世界全域に同種の社会主義革命の長期的な波を作り出す契機となった。
 後に別途扱うことになるが、この時期のアラブ諸国の主要な革命としては、イラク(1958年)、アルジェリア(1954年‐62年:独立革命)、北イエメン(1962年)、南イエメン(1963年‐67年:独立革命)、スーダン(1969年)、リビア(1969年)の各革命がある。
 また、戦前に結党され、シリアとイラクで1960年代に同時的な革命に成功したアラブ社会主義復興党(バアス党)も、ナーセル主義とは別筋ながら、エジプト革命に触発されて革命行動に出た点では、これらバアス革命も派生的な革命に数えることができる。
 なお、革命という形は取らないながらも、リビア、チュニジア、モロッコといった北アフリカの列強植民地ないし保護国における1950年代の相次ぐ独立にも、エジプト革命は波及的な影響を及ぼしたと言える。
 バアス党が革命主体となったイラクやシリアの革命と民族解放勢力が独立戦争を担ったアルジェリアや南イエメンの革命は別として、多くのアラブ社会主義革命ではエジプト革命の実行細胞となった自由将校団が一つのモードとして模倣されたため、実行主体に着目すれば、「自由将校団革命」と包括することもできる。
 このように多くのアラブ諸国で軍内の青年将校グループが革命主体となったのは、当時のアラブ世界ではいまだ工業化が進展しておらず、労働者階級の組織化も不十分であり、かれらが階級政党を結成して革命主体となることは困難であった反面、軍人は、多くの場合、植民地支配下で育成された最も近代的な人材であったことから、革命的に覚醒する青年将校も少なくなかったという事情がある。
 そのうえ、当時のアラブ諸国の軍部はいまだ組織的に形成途上であり、軍において絶対的な階級制の命令系統も脆弱であったことが幸いし、佐官・尉官級の中・下級士官が下剋上的なクーデターの手法で軍司令部を掌握し、革命を実行する余地があったことも、成功要因となったであろう。
 反面、こうした職業軍人主体の革命は、革命成功後、必然的に旧自由将校団メンバーを中心とする軍事政権の形態を取ることになり、軍部を基盤とする権力集中体制を免れなかった。
 さらに、形式上民政へ移行した後も、ナーセルその人を含め、カリスマ性を帯びた旧自由将校団のリーダーが権威主義的な統治者となるケースも少なくなく、革命後の民主主義の形成を阻害した面があることは否めず、各国ともその後遺は今日まで続いていると言える。
 また、革命後の社会経済発展という面では、社会主義経済の建設が多くの国で難航し、多くはソ連の援助に依存することとなり、かつての植民地経済に代替する新たな従属経済―言わば「社会主義従属経済」―を生じ、自立的な発展を阻害した。
 こうしたアラブ世界における革命潮流は国際関係にも変容をもたらし、社会主義への傾斜を通じてアラブ世界をソ連の勢力圏に組み込むことにもつながった。結果として、戦後の東西冷戦構造をより深化させることとなる。

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近代革命の社会力学(連載第225回)

2021-04-21 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト革命

(5)スエズ危機の超克とアラブ社会主義の潮流
 ナーセル政権がスエズ運河国有化措置を打ち出すまでには、複雑な国際的力学も働いている。ナーセルは当初、革命が成立して間もない中国やインドネシアなどの新興アジア諸国とも連携して、東西冷戦構造の中、非同盟諸国運動の指導者として国際社会に台頭しようとした。
 しかし、シナイ半島にイスラエルが隣接する地政学的事情から、軍備強化のため、当時親ソ東側陣営にあった社会主義のチェコスロヴァキアから兵器を購入し、ソ連とも交渉を開始したことが西側の逆鱗に触れ、特に経済開発の柱と位置づけていた世界銀行によるアスワン・ハイ・ダムの建設資金の融資計画が英米の画策により撤回されたことは打撃となった。
 そこで、ナーセル政権は1956年7月、電撃的にスエズ運河の国有化計画を発表した。この事前交渉なしの一方的な宣言は、革命に際して介入を控え、これを黙認していたイギリスを反発させた。そこで、イギリスは運河の実質的な共同管理者であるフランスにも働きかけ、戦争準備を開始する。
 当時、1952年に始まった北アフリカにおけるフランス最大の植民地アルジェリアの独立運動(革命)のスポンサーをナーセル政権とみなしていたフランスは、これを政権打倒の好機と打算して賛同した。
 他方、英仏は、革命に乗じてエジプトを攻撃したことへの報復として当時ナーセル政権によって海上封鎖措置を発動され、経済的な苦境にあったイスラエルを勧誘する形で、対エジプト攻撃の三国共同態勢を作った。こうして、イスラエルが当事国となったことで、スエズ危機は単なる危機から中東戦争へと進展することになった。
 この戦争は1948年のイスラエル建国をめぐる第一次中東戦争以来の第二次中東戦争と位置づけられているが、その後も60年代及び70年代と節目ごとに第四次まで打ち続く中東戦争の中で、唯一、英仏の列強が直接参戦した戦争であった。
 同時に、ナーセル政権の打倒をも目標としていた点において、第二次中東戦争は時間的に遅れてきた反革命干渉戦争の性格をも帯びていた。むしろ、アラブ諸国対イスラエルの構図を軸とする中東戦争としてはいささか変則的であり、スエズ運河国有化にまで進んだエジプト革命を挫折させる反革命干渉戦争としての性格の方が濃厚であったと言えるかもしれない。
 56年10月のイスラエル軍部隊によるエジプト侵攻をもって開始された戦争は、英仏イスラエル三国が圧倒的に優勢であった。エジプトは11月には制空権を失い、英仏軍の上陸作戦も開始され、エジプトの敗戦は時間の問題と見られたが、ナーセル政権を擁護するソ連が軍事介入を示唆した。
 この際どいタイミングで米ソ両大国が歩み寄り、英仏の拒否権行使を押し切って、国際連合総会が停戦決議を採択した。冷戦真っ只中で対立する両大国が歩み寄ったのは、スエズ危機を引き金に第三次世界大戦が誘発されることを共に恐れたためでもあっただろう。同様の歩み寄りは、後年、キューバ革命後のキューバ危機に際しても、より緊迫した状況下で見られたところである。
 国連の歴史上も、同じ西側陣営内で英仏と米が明確に対立したのは、これが唯一のことであった。こうして、頼みのアメリカからはしごを外された英仏は停戦決議を受諾せざるを得なくなり、単独で戦争を続行するほどの余力のないイスラエルもこれに続いた。
 こうして、ナーセル政権は米ソ両大国の歩み寄りという状況を得て、軍事的な敗北目前で政治的には勝利し、念願のスエズ運河国有化も実現する運びとなった。東西の歩み寄りを引き出したこの結末は、非同盟諸国運動の趣旨に沿うとともに、アラブ社会主義の勝利の象徴でもあった。
 以後、アラブ民族主義とも深く結びついたアラブ社会主義は、独立戦争が進行中のアルジェリアを含めた北アフリカ諸地域から中東にかけてのアラブ世界全域に拡散し、1960年代にかけて、時代的な潮流を作ったと言える。ナーセルは、そのカリスマ的な象徴となった。

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近代革命の社会力学(連載第224回)

2021-04-19 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(4)革命政権の展開~スエズ危機まで
 1952年の無血革命に成功した自由将校団は、引き続いて最高機関となる革命指令評議会(以下、評議会)を設置した。この評議会は、自由将校団長ナギーブを議長とし、ナーセル率いる自由将校団のメンバーが主体となった事実上の軍事政権であった。
 評議会の設置から1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)勃発までの期間が革命移行期に相当する。この間には様々なめまぐるしい動きがあったが、まずは政体の問題である。
 これについては、前回も触れたように、ファルーク前国王の処遇をめぐる自由将校団内部の意見対立が、ナギーブ及びナーセルの主張に沿って、国王一家亡命で処理され、共和制樹立の流れが確定した。
 とはいえ、当初は上述したような革命的軍事政権の形態であり、それを中和するべく、戦前からのベテラン政治家、アリ・マヒ―ル・パシャを首相とする文民内閣を組織した。しかし、心情的に親英派であった彼は間もなくナーセルらと不和となり辞任、ナギーブが代わって首相に就いた。
 そして、53年には戦間期立憲革命の産物でもあった1923年憲法を廃棄し、立憲革命を担ったワフド党を含むすべての既存政党を強制解散したうえで、正式に共和制移行を宣言、初代大統領(兼首相)にナギーブが就いた。
 この新体制は自由将校団主体の軍事政権の衣替えといった観が強いものであったが、新たな政党として解放大会議が結成された。政権の実質的な最高実力者であるナーセルが率いるこの新党は翼賛団体としての性格が強いもので、言わば自由将校団の衣替えであった。
 政策的な面で、革命政権最初の課題は農地改革であった。革命から二か月後の52年9月には農地改革法が発布され、従前の大土地所有制にメスが入れられた。具体的には、土地所有に上限面積を設定したうえ、農民への再配分が実施された。このような軍主導での非常手段による大規模な農地改革は、ほぼ同時期の占領下日本における農地改革とも通じるものがある。
 新体制のイデオロギーの軸は世俗主義と社会主義にあったが、社会主義に関しては、比較的穏健な社会主義であり、共産主義は否定されていた。そのため、革命直後、ナイルデルタの都市カフル・エッ・ダワールで共産主義者が主導した労働者の暴動は力で弾圧された。
 革命政権初期の展開の中で、より権力闘争の争点となったのが世俗主義であった。ここでは、戦間期に結成されたイスラーム主義の社会団体ムスリム同胞団(以下、同胞団)との衝突が焦点となる。
 同胞団は立憲革命後もなお形ばかりの「独立」によりイギリスの支配が続く中、西欧文明からの解放とイスラームの復興を掲げて旗揚げされた社会改革団体であったが、1952年革命の時点では、エジプトにおける最大級の急進的な政治社会団体に成長し、当初は革命を支持・協力した経緯がある。
 しかし、自由将校団政権の世俗主義とはすぐにぶつかり、53年以降、翌年にかけて、同胞団が扇動する大衆運動が盛り上がり、しばしば暴動・騒乱に発展した。これに対して、革命政権は同胞団を非合法化したうえ、幹部らを投獄・処刑とする弾圧策で応じた。
 その過程で、ナギーブとナーセルの対立関係も顕在化してくる。ナギーブはイスラーム主義者ではなかったが、軍事政権型の体制の存続に否定的であり、早期の民政確立を構想していたことから、それに否定的なナーセルとの確執が表面化してきた。
 その結果、ナギーブがムスリム同胞団と結託し、独裁権力の掌握を狙っているとするプロパガンダ宣伝が行われ、首相職を解任された末、54年に同胞団によるナーセル暗殺計画が発覚したことを奇貨として、ナギーブが同胞団と共謀していたとする裏付けを欠く口実の下、同年11月には大統領を解任され、以後自宅軟禁状態に置かれた。
 これはナギーブ追放を狙った政権内部のクーデターに等しい動きであったが、これを受けて、ナーセルが第二代の大統領に就任し、名実ともに新体制の最高指導者の座に就いた。
 こうして、満を持して自らが政権の前面に立つと、ナーセルは大統領権力を強化し、産業の国有化など農地改革に続く社会主義的な政策を鋭意推進していくが、彼の最大のターゲットは、革命後も独占受託企業のスエズ運河会社を通じて実質的に英仏によって管理されていたスエズ運河であった。
 そこで、ナーセル政権は、手始めにイギリスとの間で英軍の撤退を約する協定を締結した。しかし、ナーセルの狙いは、エジプト経済の自立的な発展の土台とするべく、スエズ運河を国有化することにあった。この野心的な政策は英仏の忍耐を超え、戦争への動因となる。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第11回)

2021-04-18 | 南アフリカ憲法照覧

逮捕・抑留・訴追された人

第35条

1 犯罪の疑いで逮捕されたすべての人は、次の権利を有する。

(a) 黙秘すること。

(b) 直ちに次のことについて告知されること。

 (ⅰ) 黙秘する権利について。

 (ⅱ) 黙秘しないことの結果について。

(c) 不利な証拠として使用され得るいかなる自白または自認も強制されないこと。

(d) 可能な限り直ちに、しかし以下の時間内に、裁判所に引致されること。

 (ⅰ) 逮捕から48時間後、または―

 (ⅱ) 48時間が通常の開廷時間外に満了するか、または通常の開廷日でない日に満了する場合は、48時間の満了後、最初の開廷日の終了時

(e) 逮捕された後、最初の出廷時において、告発され、もしくは抑留を継続する理由を告知され、または釈放されること。

(f) 正当な理由が認められれば、適正な条件に従い、釈放されること。

2 全受刑者を含む抑留されたすべての人は、次の権利を有する。

(a) 抑留された理由を直ちに告知されること。

(b) 弁護人を選任し、相談すること、及びこの権利を直ちに告知されること。

(c) 実質的な不正義が生ずる場合は、抑留された人に国の費用で国選弁護人が付けられること、及びこの権利を直ちに告知されること。

(d) 抑留の合法性について裁判所で直接に争い、もし抑留が違法であれば、釈放されること。

(e) 少なくとも運動を含む人間の尊厳に合致した抑留の条件及び国の費用による適切な収容環境、栄養、読書、医療を得られること。

(f) 以下の人と通信し、またはその訪問を受けること。

 (ⅰ) 配偶者または伴侶

 (ⅱ) 近親者

 (ⅲ) 選任された教誨師

 (ⅳ) 選任された医師

3 訴追されたすべての人は、次の権利を含む公正な裁判を受ける権利を有する。

(a) 答弁するために起訴事実の充分な詳細を告知されること。

(b) 弁護の準備をするのに適切な時間及び手段を持つこと。

(c) 通常裁判所の面前で公開裁判を受けること。

(d) 不合理な遅延なしに裁判を開始させ、終結させること。

(e) 審理の際、在廷すること。

(f) 弁護人を選任し、代理されること、及びこの権利を直ちに告知されること。

(g) 実質的な不正義が生ずる場合は、抑留された人に国の費用で国選弁護人が付けられること、及びこの権利を直ちに告知されること。

(h) 公判中は、無罪を推定され、黙秘し、証言しないこと。

(i) 証拠を提示し、または争うこと。

(j) 自己に不利な証拠の提供を強制されないこと。

(k) 被告人が理解できる言語で審理を受け、またはそれが実際的でない場合は、手続きを翻訳させること。

(l) 当時の国内法もしくは国際法の下では犯罪でなかった作為または不作為を理由に有罪判決を受けないこと。

(m) 当該被告人が以前に無罪もしくは有罪の判決を受けた作為または不作為に関わる犯罪で裁かれないこと。

(n) 当該犯罪の法定刑が犯行時と判決時の間に変更された場合は、その軽いものによること。

(o) 上級裁判所に上訴し、またはその審査を受けること。

4 本条が個人への情報提供を要求する場合は必ず、その情報は当該個人が理解できる言語で与えられなければならない。

5 権利章典中の何らかの権利を侵害する方法で得られた証拠を容認すると、裁判を不公正なものにし、または司法の運営に害をもたらすおそれがある場合は、その証拠は排除されなければならない。

 本条は、現代的憲法では定番となっているデュー・プロセス条項である。内容的には、相当詳細に定められており、デュー・プロセスの現代的な水準が過不足なく網羅されている。特に、刑が確定した受刑者についても、抑留された人全般の権利として、国選弁護を含む弁護人選任権が保障されているのは先進的である。
 また、多言語主義がデュー・プロセス条項にも反映され、公判審理のみならず、すべての情報提供に際して該当者が理解できる言語によるべきことが憲法上保障されていることも特徴的である。
 このように南ア憲法がデュー・プロセスの保障に手厚いのは、旧アパルトヘイト時代、特に反アパルトヘイト運動関係者に対するデュー・プロセス無視の苛烈な弾圧が加えられたことへの反省に基づくものであろう。

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近代革命の社会力学(連載第223回)

2021-04-16 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(3)反英蜂起から共和革命へ
 1952年7月の共和革命は、その後、自由将校団のメンバーが相次いで大統領に就いた経緯から、自由将校団が世界的な脚光を浴びることになったが、実際のところ、革命の導火線を引いたのは彼らではなく、スエズ運河西岸の都市イスマイリアの警察官たちであった。
 彼らはイギリスのエジプト進駐70周年という記念の1952年の年初から、イギリスの港湾施設を襲撃、占拠するなどの抗議活動を活発化させていた。これに対し、駐留英軍が強制排除に乗り出し、その際の衝突でエジプト人警察官50人が死亡した。
 このことをきっかけとして、翌日、首都カイロで民衆による大規模な抗議デモが発生した。このデモは暴動となり、放火により多数の建造物が燃え、「カイロ大火」と呼ばれる事態に発展した。
 発生した1952年1月26日の曜日にちなんで、一名「ブラック・サタデイ(暗黒の土曜日)」とも呼ばれるが、公式の死者は26名(うちイギリス人が9名)とされ、流血事態としては比較的軽微であった。
 情報通信手段が限られていた当時、イスマイリアでの衝突からわずか一日で発生したこの反英蜂起の火付け役については今日でも解明されていないが、自由将校団が扇動したとする説もある。
 もっとも、この反英蜂起から自由将校団の決起までには約半年のタイムラグがあり、この間、王国政府も対抗策を講じている。すなわち、時のファルーク国王は首相を解任し、戒厳令を布告して、事態を掌握しようとした。
 国王はその後、短期間に三人の首相を順次任命し、体制の立て直しを図るが、そうした短期間での首相の頻繁な交替がすでに体制崩壊の予兆であった。この間、自由将校団は決起のタイミングを図り、将校クラブの執行部選挙を通じてクラブの実権を掌握した。
 この時点で自由将校団に対する締め付けをようやく検討し始めた国王は将校クラブ選挙を無効にするとともに、将校団弾圧の準備として、メンバーの詳細な名簿を入手したとされる。こうした情報が将校団にももたらされたため、当初は8月の決起を計画していたものを前倒しした結果、1952年7月23日早朝に決起することとなった。
 この決起に参加したのは、団長のナギーブを除けば、佐官級以下の若手将校ばかり100人にも満たない人数であったが、電撃的なクーデターの手法により、即日かつ無血のうちに成功した。
 その直接的な要因として、軍部内でもイギリスの傀儡を続ける国王への幻滅感が広がっており、クーデターに反撃する親衛部隊が存在しなかったことに加え、国王が最も頼みとした後ろ盾のイギリスがあっさり手を引き、続いて頼ったアメリカも反応を示さなかったということも決定的であった。
 元来からして、オスマン・トルコ支配時代の外国人(アルバニア人)総督出自のムハンマド・アリー朝を断固擁護しようという王党派勢力が国内に存在せず、国際的にも王朝存続を支援しようとする動きがなかったことは、共和革命の追い風であった。
 ただ、国王の処遇をめぐっては自由将校団内部でも、海外亡命を認めるか、裁判にかけ処刑するかで意見が分かれていた。その間にファルーク国王は退位し、1歳に満たない乳児のフアード王子を即位させることで妥協しようとしたが、結局、海外亡命を主張するナギーブやナーセルの方針に従い、改めてフアード(2世)も伴い、亡命した。
 自由将校団を母体とする革命政権が翌年、公式に王制廃止と共和制の樹立を宣言したことにより、形ばかりのフアード2世も廃位され、エジプトは今日に至る共和制国家として確定したのである。
 こうして、1952年共和革命はフランス革命、ロシア革命など過去の大規模な共和革命のいくつかで見られた国王処刑という報復的なプロセスもなく、無血のうちに完了した。その点でも、無血共和革命の範例として歴史に残るものとなった。
 実際のところ、革命の最終局面は軍事クーデターであったのであるが、これが単なるクーデターでなく、革命としての実質を持つに至ったのは、恒久的に共和制が樹立されたこと、そして、冒頭で見たように、民衆の反英蜂起を動因とした事情からである。
 おそらく反英蜂起がなくとも、早くから革命を構想していた自由将校団はいずれかの時点で決起していたかもしれないが、その場合は果たして成功していたか、あるいはクーデターとして技術的には成功したとしても、広い国民的支持を受けたかどうかは疑問となる。

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近代革命の社会力学(連載第222回)

2021-04-14 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(2)第一次中東戦争と自由将校団の台頭
 1952年エジプト革命において決定的な役割を果たしたのは、中堅・若手将校の革命集団である自由将校団であった。このグループは元来、自然発生的に形成された軍内部の秘密結社であり、政党のように具体的な日付や大会を伴って正式に旗揚げされた政治組織ではない。
 こうしたグループが誕生する直接的な契機となったのは、戦間期の1936年、従来は上流階級子弟に限られていた軍士官学校の入学資格に中流階級以下の特別枠が設定され、門戸が開かれたことであった。
 後に自由将校団のリーダーとして頭角を現すナーセルも郵便局員の息子であったが、そうした門戸拡大策によって士官学校に入学した一人である。また、ナーセルより一期上級ながら、自由将校団でナーセルの最側近メンバーとなり、後年、ナーセルを継いで第二代大統領を務めるサーダートも、エジプトでは少数派のスーダン系貧困階層の出自であった。
 この1936年という年度は、第一次大戦後の独立‐立憲革命を経て成立したブルジョワ政権がイギリスとの条約により、スエズ運河防衛のための部隊を除き、イギリス軍をエジプトから撤収させる合意を勝ち取り、括弧付きだった「独立」の内実を一段高めることにも成功した年度でもあり、ブルジョワ民主主義の枠内で中流以下階級への目配りも始まった転換点であった。
 そうした情勢の中で、職業軍人として育成されたナーセルと同様の階層から出た同輩らは、第二次大戦を機に再び反英感情が高まる中、ドイツ侵攻と同時に反英軍事クーデターを計画するという冒険的行動に出るが、これは未然に発覚し、失敗に終わった。
 この時点ではまだ組織化も不十分であり、士官学校を終えて間もない青年将校らの力でイギリスからの解放を担うのは不可能であった。自由将校団が戦略的な革命集団として台頭するには、第二次大戦後、イスラエル建国をめぐる第一次中東戦争を待つ必要があった。
 その前哨として、1947年に国際連合がパレスティナの分割とユダヤ人国家の建設を認める方針を固めると、ナーセルらは秘密裏に会合を開き、パレスティナ人(アラブ系)の支援に乗り出すが、おそらく、この時が自由将校団の事実上の発足時点であった。
 翌年に中東戦争が開始されると、少佐に昇進していたナーセルもアラブ連合軍に従軍し、負傷するも、軍功から叙勲されるほどの活躍を見せた。一方で、エジプト軍司令部の拙劣な戦略により、民兵組織から衣替えしたばかりの新生イスラエル軍に敗北したことは、ナーセルら若手将校の間に憤懣を高めた。
 そうした状況の中、1950年以降、ナーセルは自由将校団の組織化を本格化させる。この時点で、グループは半ば公然組織であったが、安全対策上、メンバーにコードネームを割り当てるなど、基本的には秘密結社として組織された。一方、中堅・若手中心の組織へのある種の権威付けとして、声望の高いベテラン、ムハンマド・ナギーブ将軍を顧問格の団長に招聘した。
 こうして、1950年代初頭、自由将校団はエジプト陸軍を中心とする軍部内で急速に勢力を拡大していくが、ほぼ軍内部の運動に限局されていて、革命集団としては限界があり、革命の道筋やイデオロギー的な軸も明確には定まっていなかった。
 そのため、当初は要人暗殺(未遂)のようなテロル戦術に向かうという誤りを犯したが、国王政府側も、軍内に根を張り、声望の高いナギーブ将軍を顧問格に擁する自由将校団の弾圧に乗り出すことを手控えており、革命前夜には、張り詰めた緊張関係が続いていた。

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近代革命の社会力学(連載第221回)

2021-04-12 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(1)概観
 エジプトでは、第一次世界大戦後の独立‐立憲革命後も、「独立」はまさに括弧付きのものにとどまり、第二次大戦を越えて引き続き、ムハンマド・アリー朝の下、イギリスによる宗主的支配が継続していた。
 もっとも、第二次大戦中、エジプトを含む北アフリカがナチスドイツ軍の侵攻にさらされた際、これに乗じてイギリスからの完全独立を果たすという戦略も提唱され、時の国王ファルーク1世も一度はこれに乗ったが、イギリス側からクーデターの脅迫を受けて断念、やむなくイギリスに協力した。
 ナチスドイツとの結託という戦略は妥当ではなかったとはいえ、ファルーク国王がイギリスに対して見せた軟弱さは民族主義者ならず、一般のエジプト人にも失望と不信を与え、後の共和革命の遠因ともなったであろう。
 しかし、共和革命へのより大きなステップとなるのは、1948年5月のパレスティナにおけるイスラエル建国とそれに続く第一次中東戦争とであった。
 イスラエルの建国は中東の地政学地図を大きく改変する第二次大戦後、最大規模の出来事の一つである。それ自体はパレスティナの委任統治を放棄したイギリスとユダヤ人国家の分立を承認した国際連合の同意に基づいており、革命ではなかったものの、革命的な衝撃波をもたらした。
 結果として、イスラエルの割り込み的な建国に反発したアラブ諸国が合同して有志連合軍を結成し、建国されたばかりのイスラエルに対して宣戦布告、中東戦争(第一次)が勃発した。
 しかし、アラブ側は民兵組織から衣替えしたばかりのイスラエル軍の戦力を見誤り、性急な勝算を立てており、結果は実質的にイスラエルの勝利であった。イスラエルにとっては建国を固めるある種の独立戦争となった。
 エジプトはアラブ連合軍の中心勢力であったが、当初政府部内には参戦に反対の意見もあったところ、ファルーク国王が押し切り、強引に参戦した経緯があったため、国王が最大の敗戦責任者とみなされた。
 そうした中で、軍部内の若手民族主義者グループが秘密結社・自由将校団を結成し、革命を構想するようになった。その中心人物が後に大統領となるガマール・アブドゥル‐ナーセルであり、1952年、彼を中心とする自由将校団の決起により、ムハンマド・アリー朝が打倒され、共和制に移行、イギリスの支配からも解放された。
 このエジプト共和革命はアラブ民族主義の象徴となり、中東地域ばかりか、まだ植民地支配下にあったアフリカ諸地域にも間接的な影響を及ぼすこととなった。また、ナーセル政権は政治経済的には社会主義を志向したため、アラブ社会主義の代名詞ともなり、周辺諸国の連続的な社会主義革命の動因ともなった。
 初期ナーセル政権は民族主義的な社会主義政策の一環として英仏が管理していたスエズ運河の国有化に踏み切ったことで、英仏の軍事介入を招き、第二次中東戦争とも呼ばれるスエズ危機を招くが、ナーセルは実質的に勝利し、スエズ運河国有化を達成したことで、国際的にも反帝国主義の象徴として、第三世界の英雄となった。
 かくして、1952年エジプト共和革命は、エジプト一国の国内的な革命にとどまらず、第二次大戦後、第三世界全体に革命の波を引き起こす契機ともなった大きな余波を持つ革命事象である。

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比較:影の警察国家(連載第36回)

2021-04-11 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐5:重大知能犯局

 重大知能犯局(Serious Fraud Office:SFO)は、その名の通り重大知能犯の捜査及び訴追を専門に行う捜査機関である。SFOはイギリスが長い斜陽の時代(英国病)を克服し、金融分野復権を果たしつあった1980年代、主として金融犯罪の取り締まりを念頭に設置された特殊な捜査・訴追機関である。
 1987年に創設された比較的新しい機関であるが、より総合的な中央捜査機関である国家犯罪庁(National Crime Agency:NCA)が2013年に発足する以前としては、史上初の全土的な捜査機関であり(ただし、スコットランドは管轄外)、言わば経済警察としての役割を担って登場した機関である。
 その意味では、中央集権的な国家警察機関を持たず、地方警察を主とした伝統的な警察制度を維持してきたイギリスにあって、中央警察集合体が形成される先駆けを成した機関と言える。
 名称に冠せられているfraud は「詐欺」と訳されることもあるが、SFOが対象とする事案は、他人から金品を騙し取るといった単純な詐欺よりも(ただし、被害額100万ポンド以上の巨額詐欺は別)、金融・証券取引上の不正や企業会計上の不正に重点があり、さらには2010年以降は贈収賄に関しても管轄権が拡大されたことで、汚職を含むホワイトカラー犯罪取締機関としての性格が強まった。
 上述のとおり、SFOはNCAと並ぶ中央捜査機関であるが、内務大臣が監督するNCAとは異なり、イングランド及びウェールズ法務総監(Attorney General for England and Wales)が監督する。
 法務総監は政治任命職ではあるが、大臣ではなく、諸国の検事総長に近い役職である。実際、SFOは捜査した事案を自ら起訴する訴追機関でもあることから、通常の検察庁と並び、法務総監の監督下に置かれている。
 ちなみに、イギリス(イングランド及びウェールズ)では、1986年まで検察庁の制度が存在せず私人訴追の慣習に従い、一般刑事事件は警察が直接に代理人を立てて起訴する制度を維持していたが、大陸欧州諸国の制度との整合性の観点から、1986年に検察庁の制度を創設した。これはSFO創設の前年のことであり、両者は一連の刑事司法制度改革の一環とみなすことができる。
 かくして、SFOは経済警察と経済特捜検察を併せ持つ超権力機関と言えるが、その有罪獲得率は高くなく、捜査業務の適正さに疑問が呈されることもある。SFOが21世紀に入ってから予算を削減されていることも影響していると見られる。
 その点、保守党のメイ政権はSFOをNCAに吸収合併する考えを示し、2017年総選挙でも公約の一つに掲げていたが、メイ政権の退陣に伴い、この吸収合併計画は頓挫している。もしこの統合が改めて実現すれば、NCAがより巨大化して、アメリカのFBIに近い存在となり、影の警察国家化を促進する可能性がある。

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近代革命の社会力学(連載第220回)

2021-04-09 | 〆近代革命の社会力学

中間総括Ⅱ:第二次世界大戦と革命

 第二次世界大戦は現時点においても人類史上最大規模の国際戦争であり、それを契機に世界地図が塗り変えられた近代史の重要な転換点でもあったが、こと革命という視点からみると、意外なほど「不作」であった。
 その点、19世紀から20世紀への転換点に勃発した第一次世界大戦は、それを動因として、戦争の両陣営にまたがる形で、欧州やその周辺地域において多数の革命が続発し、革命にとっての「豊作」となったのとは大きな違いがある(中間総括Ⅰ参照)。
 そうした対照性の理由として、第二次大戦当時、欧州地域ではすでに革命の波が一段落しており、戦争がさらなる革命的変動を呼び起こすことはなかったということがある。敗戦国となった枢軸陣営のドイツやイタリアも連合国の占領下で旧体制の解体が行われ、革命に発展することはなかった。
 もっとも、イタリアのファシスト政権の独裁者ムッソリーニは逃亡中、パルチザン部隊に拘束された後、略式処刑されたうえに遺体を市中にさらされるという革命的な最期を遂げたが、これはファシスト・イタリアがすでに敗戦・降伏し、体制崩壊した後のことであり、直接的な革命の結果ではない。
 第二次大戦を動因とする革命としては、バルカン半島や中国大陸、ベトナムなどで、枢軸国の侵略に抵抗したレジスタンス勢力が実行した革命が局地的に見られた程度である。その所産の中では、バルカン半島のユーゴスラヴィア、中国大陸の中華人民共和国はいずれも共産党主体の新しい社会主義国家として、戦後秩序の中で独自の地位を占めるに至った。
 わけても、共産党を広大な中国の支配政党に押し上げた中国大陸革命は第一次大戦時のロシア革命に匹敵する大革命事象であり、ロシアから極東に至るユーラシア大陸をまたいだ社会主義の拡大という新たな世界地図を作出した。
 もう一つ、第二次大戦後の大きな地政学的変動として、東欧・中欧でも親ソ連の社会主義国家が続々と誕生したことがあるが、これらの諸国はいずれも枢軸側の占領ないし傀儡統治から解放された後、ソ連の占領下でソ連の直接間接の干渉の下に成立した衛星国家群であり、そこに革命の要素を見出すことはできない。
 一方、アジアにおける枢軸側代表国であった日本でも、敗戦後、連合国(≒アメリカ)の約7年に及ぶ長期の占領下に政治・経済・社会の多方面にわたる抜本的改革が断行され、その実質的な内容は民主化革命に匹敵するものであったが、これも占領統治という言わば横槍の所産であって、真の意味での革命ではなかった。
 こうした革命的不作状況の中にあって、連合国側に与したオランダに挑戦し、勝利した希少なインドネシア独立革命は、当時いまだ連合国側の植民地支配下または属国状態に置かれていたアフリカ・中東方面にも長期波動的な衝撃波を及ぼしたと言える。
 その結果、おおむね1950年代から1980年代半ば頃にかけての30年余り、革命の波はアフリカ・中東地域やアジア、ラテンアメリカなどの「第三世界」へ遷移していき、この比較的短い歳月の間に数多くの革命が群発することになる。
 しかも、その群発革命はこの間の新たな対立軸となった米ソ両超大国の主導による東西冷戦構造と無関係ではなく、諸革命も冷戦構造の中で、社会主義を掲げ、反米/反西側の立場から展開されることが多くなる。

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近代革命の社会力学(連載第219回)

2021-04-07 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(5)「指導された民主主義」への道
 1949年の対オランダ戦争終結後、改めてのインドネシア共和国の正式な樹立によってインドネシア独立革命が一段落すると、1950年代前半に本格的な建国期を迎えるが、その中心にあるのは一貫してスカルノであった。
 遡ると、日本軍政下での独立準備委員会の段階で、スカルノは建国五原則(パンチャシラ)として、①愛国主義②国際主義③合議制④社会福祉⑤唯一神信仰を掲げていた。この段階では、第3原則の合議制によって、曖昧ながらも議会制が示唆されていた。
 ただし、独立宣言直後に発布された1945年憲法では、五原則を踏まえつつも、西欧流の大衆民主主義に対置する形で、「指導された民主主義」(または指導制民主主義)を打ち出し、強力な大統領の指導による国家建設を構想していた。
 ところが、1950年の新憲法では一転して西欧流の議会制を志向し、大統領権限を制約された二元的な議院内閣制を導入した。おそらくは国際社会の支援で独立戦争を克服した後、対外的なイメージへの配慮と戦争に貢献した諸勢力への報償を優先したものであろう。
 この時点では、スカルノら世俗主義のインドネシア国民党と穏健なイスラーム主義勢力の連立が基調で、独立戦争中に反乱を起こした共産党は排除されていた。しかし、世俗主義者とイスラーム主義者の同居は不安定なうえ、政権から排除された共産党にも不満が募っていた。
 共産党の側では、労働者階級出自のディパ・ヌサンタラ・アイディットがカリスマ性を持った若手の指導者として台頭し、48年の未遂革命後、壊滅状態だった党を再建し、積極的な大衆活動によって党勢を拡大した。
 1955年に初の総選挙が施行されたが、共産党は議席の16パーセント程度を獲得して議会第四勢力となり、57年のインドネシア心臓部・ジャワ島の統一地方選挙では第一党となるなど、無視できない野党勢力として躍進した。
 他方、総選挙後、50年代後半期には、地方で武装反乱が相次いだ。元来、群島国家のインドネシアにおける続発的な地方反乱は、共和国解体の危機に直結する。そのため、スカルノ大統領は1959年、憲法停止、議会解散という非常措置に出た。大統領自身による「自己クーデター」であった。これ以後、スカルノは「指導された民主主義」に立ち戻る決断を下した。
 そうした権威主義的な指導を伴う民主主義という自己矛盾を内包する理念の具体化として、 NASAKOM体制が打ち出された。 NASAKOMとは、民族主義(Nasionalisme)に宗教(Agama:イスラーム)、さらに従来排除されていた共産主義(Kommunisme)を加えた三大勢力の協働体制を意味するインドネシア語の頭文字略称である。この混沌とした体制の全体を統制・指導するのが、最高指導者すなわちスカルノというわけである。
 ここでの新たな特徴は共産主義勢力、すなわち共産党を体制内に取り込んだことである。スカルノ自身は共産主義者ではなかったが、上述のとおり共産党が躍進し、無視できなくなっていたことに加え、この頃、独立戦争では前線に立ち、地方反乱の鎮圧作戦でも重要な役割を果たす軍も政治的な発言力を高め、スカルノにとって脅威となっていたことに対抗し、共産党を言わば盾に利用する意図も働いていたと見られる。
 こうして、1960年代前半にかけて、インドネシアは新たな段階に入るが、NASAKOMによって共産党を取り込んだことで、高い代償を払うことになる。共産党は軍内にも浸透し、やがて共産党系中堅将校らによるクーデターの企てに発展し、それがスカルノ自身の失墜にもつながったからである。

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