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近代革命の社会力学(連載第136回)

2020-08-19 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(6)バイエルン革命とその挫折
 連邦国家ドイツ帝国では、全国一律ではなく、帝国構成邦ごとに革命が連続的に継起する形で革命が進展していったのであるが、中でも南部の大邦バイエルン(ヴィッテルスバッハ朝バイエルン王国)では独自の革命的展開が見られた。
 当地では、帝国中心邦プロイセンよりも一足早く1918年11月7日に革命的蜂起が始まり、翌日には独立社会民主党のクルト・アイスナーを首班とする臨時政府が樹立された。アイスナーは社民党とは異なり、レーテに好意的であり、レーテとの協調を重視していた。
 とはいえ、アイスナーの政治理念は決して急進的なものではなく、ロシアのボリシェヴィキのような革命的独裁には反対していたため、穏健社民党の立場と実質的に大差ないものであった。そのため、急進派からは支持されなかった。そのうえ、1919年1月の総選挙では、カトリック保守派のバイエルン人民党が勝利し、独立社民党は惨敗した。
 この選挙結果は、元来保守的なバイエルンの政治風土の表れであった。そのうえ、アイスナーは、同年2月、首相辞職表明のため議会へ登院する途上、王政復古主義者のテロリストの凶弾に倒れた。
 バイエルン首相は、総選挙後、第二党の社民党から出たヨハネス・ホフマンが継いでいたが、この政権は脆弱であり、1919年4月には独立社民党と一部のアナーキストが連携した革命が発生、ホフマン政権に代わり、レーテ政権が樹立された。これにより、改めてバイエルン・レーテ共和国が誕生した。このように、バイエルンでは社民党が脆弱であったことが、より急進的なレーテ革命を招来した。
 ところが、この第一次レーテ共和国は共産党を排除して成立していたため、共産党がクーデターによりレーテ共和国を奪取した。これを率いたのは、ロシア出身の共産党指導者オイゲン・レヴィーネであった。レヴィーネはロシアのボリシェヴィキともコンタクトがあり、この共産党クーデターはボリシェヴィキとも連携した計画のうえに実行されていた。
 ロシアのレーニン政権としては、前月にハンガリー革命の結果成立したハンガリー・ソヴィエト政権と並び、共産党系バイエルン・レーテ政権を革命の輸出先として重視し、世界革命の潮流を作り出そうとしていたが、これは虚しい期待に終わった。すでにベルリンでの急進派蜂起を武力鎮圧することに成功していた社民党中央政府がバイエルン・レーテ政権を打倒するべく、迅速な行動を起こしたからである。
 レヴィーンらはバイエルン独自の武装勢力として赤軍の結成を準備していたが、間に合わなかった。一方、中央政府は5月、ベルリン一月蜂起でも鎮圧作戦でフル稼働したドイツ義勇軍を投入して効果的な掃討作戦を展開、数日でレーテ政権を打倒した。
 その後、中央政府はバイエルンを事実上の軍政下に置いたうえで、革命派の大量処刑を断行した。レヴィーネも捕らえられ、7月に反逆のかどで処刑されている。こうして、独自の展開を見せたバイエルン革命も、社民党中央政府により粉砕され、挫折に終わった。
 ちなみに、オーストリア移民のアドルフ・ヒトラーもミュンヘンのレーテに参加しており、共産党クーデター後に行われたレーテの選挙では代議員に選出されている。ヒトラーにとって初めての政治経験が革命的レーテであったという事実は、興味深い。
 しかし、彼にとっては信念に基づかない日和見参加であり、バイエルン革命挫折後、ワイマール共和国下で共産主義者を調査する公安要員として任用された彼は、これをきっかけに軍の諜報部に加わるのである。奇妙にも、いずれワイマール共和国を解体するヒトラーを育てたのは、ワイマール共和国自身なのであった。


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