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近代革命の社会力学(連載第273回)

2021-08-02 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐5〉南イエメン独立革命
 以前見たように、南イエメンは中心的な港湾都市アデン植民地とその周辺のイスラーム系小首長国を束ねるアデン保護領から成る二面構造のイギリス領であったところ、イギリスによる事実上の間接支配状態を排除した1952年エジプト革命の余波は南イエメンにも波及し、ナショナリズムを鼓舞した。
 南イエメンでは、ほぼ唯一産業化が進展していたアデンに結成されたアデン労働組合会議(ATUC)が労働運動と結びつく形でナショナリズムを喚起したことが特徴である。イギリスはこれに対抗するべく、1962年にアデン保護領を改めて南アラビア連邦に改編し、アデン植民地もアデン国に改称したうえで、これに加えた。
 こうしたイギリスの植民地体制強化の動きに対し、マルクス‐レーニン主義を奉じるグループが中心となって民族解放戦線(NLF)を結成し、独立革命運動を開始したことは、マルクス主義の勢力が弱かった他のアラブ諸国との大きな差異であり、革命後の展開の相違にも影響したであろう。
 他方、NLFの路線に批判的なATUC系のアラブ民族主義者は南イエメン占領地解放戦線(FLOSY)を結成し、NLFに対抗した。そのため、独立革命はこの両組織が競合しつつも部分的に協調しながら展開されていくことになり、イギリスは同時に二つの武装組織を相手とする苦戦を強いられることになった。
 独立革命は1963年、イギリス人の高官に対するNLFのテロ攻撃を契機に開始された。これに対し、イギリス政府はアデンに非常事態宣言を発したため、この先、67年の独立までの武力紛争はイギリス側の視点に立って「アデン非常事態」とも呼ばれるが、実態としては南イエメン独立革命/戦争であった。
 四年近くに及んだ戦争にはいくつかの局面があったが、緒戦では戦力に勝るイギリスが優位にあった。それが大きく転換するのは、1967年1月‐2月の大規模なアデン街頭デモであった。当初はNLFが組織した民衆デモ行動であったが、これがイギリス軍によって鎮圧されると、引き続いてFLOSYも支持者のデモを組織したため、大規模な騒乱に発展した。
 このように民衆の抗議行動を組織し、下からの力作用を作り出すことに成功した独立勢力の戦略は功を奏し、これ以上の市民の流血を避けたいイギリスは南イエメンからの撤退を予定より早めることとなった。
 67年6月にイギリスの指揮下にある南アラビア連邦のアラブ人警察官らが反旗を翻し、武装蜂起したことは連邦が内部からも崩壊しつつあることを示していた。これを契機にイギリスは撤退を開始、同年11月末までに完了した。その結果、同月末日に南イエメン人民共和国の建国が宣言され、独立が成ったのである。
 なお、南北両イエメンの革命は直接に連動していなかったが、北イエメンにもマルクス‐レーニン主義を奉じる複数の政党が1968年以降に結成され、南イエメンのNLFと連携して北イエメンでの革命を目指したが、成果は上がらず、70年代末に南イエメンの支配政党・イエメン社会主義者党に合併された。


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