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近代革命の社会力学(連載第157回)

2020-10-16 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(6)共和体制の限界とその後
 トルコ共和革命によって創出された新生トルコの共和体制は、ケマルのカリスマ的権威に依存した世俗的な近代化という点に圧倒的な重心が置かれた反面、政治経済的な構造革命に関しては、不十分な点が多々残されたと言える。
 経済的には、オスマン帝国時代以来の地方首長アーガによる大土地所有制にメスを入れる農地改革が西部地域に偏り、ケマルの早世によって、さらに後手に回った。そもそも農民はトルコ共和革命の主体でなく、革命の支持者は軍人や都市エリート層が主力であり、総体としてブルジョワ革命の性格が強かった。
 そのため、殖産に関しても、民族資本の育成を通じた資本主義を基調としたが、1929年の大恐慌を契機に、ソ連型の計画経済が試行された。しかし、これは経済危機における暫定的な経済対策の性格が強く、ソ連型社会主義への恒久的な移行は回避された。
 政治的には、ケマル存命中は彼の権威主義独裁であり、与党として結党された共和人民党の翼賛的な一党支配体制であった。そのため、ブルジョワ保守政党を中心とした多党制を基調とする西欧型のブルジョワ民主主義が現れることもなかったのである。
 実際、ケマルが標語的に定めた六つの国是:共和主義・人民主義・世俗主義・改良主義・民族主義・国家主義の中に、民主主義の文字は見えない。また、階級闘争を否定する人民主義の教条から、労働者階級の凝集と労働者政党の育成も妨げられた。
 また、民族主義は「統一と進歩」政権時代の汎トルコ主義のような覇権主義な概念とは異なるが、トルコ人中心の国民国家の創設に力点を置いたことで、国内少数民族であるクルド人の権利が軽視される結果となり、後年、不満分子となったクルド人の強力な反体制活動を招くことになる。
 一方、ケマルが出自した軍部は革命の守護者、とりわけ世俗主義の護持者として強い政治的発言力を持ち、ケマルの没後も、クーデターを含む合法・非合法両様で政治に介入していく軍部後見体制が確立された。
 ただ、ケマルが1938年に早世すると、後継のイスメト・イノニュは軍人出身ながら、慎重な民主化を進め、複数政党制を容認した。その結果、第二次世界大戦後、共和人民党を離党した人々により、リベラルなブルジョワ政党として民主党が結党され、1950年には総選挙で圧勝、同党からジェラル・バヤル大統領が選出された。
 銀行員出身のバヤル自身、元はアンカラの大国民会議以来、ケマルの下で議員や経済相、首相も務めた革命の申し子の一人であったが、ケマル没後、イノニュ政権では冷遇されるようになっていた。
 バヤル民主党政権は、実権者のアドナン・メンデレス首相の下、共和人民党政権時代には脇役だった地方地主層を支持基盤としつつ、外資導入や経済自由化など、経済政策の転換を図った。しかし、国是である世俗主義の緩和に踏み込んだことで軍部の逆鱗に触れ、1960年、中堅将校らの軍事クーデターにより政権は崩壊した。
 これ以降の歴史は共和革命の範疇から外れるので、言及しないが、ケマルの如上六原則の中で、世俗主義は次第に弛緩し、イスラーム政党の伸長を招く一方、民主主義の欠如という限界は今日まで引き継がれていくこととなった。


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