ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

難民問題の解

2015-09-27 | 時評

難民問題の解は、先進国による人道的受入れと難民送出国への経済支援である━。これが社会科の模範解答であろうが、ここでは、あえて落第解答を示してみよう。

(A)まずは、難民発生の元凶である欧米による中東介入を停止すること。特に現今最大の難民を生じさせているシリア介入をやめ、軍事的優位性と統治能力を保持している現行政権をひとまず認めること。これが最低限のことである。

(B)次に、国連難民保護条約を制定・締結して、締約国の人口や経済情勢などを勘案した受入れ枠を設定、それに従った難民受入れを法的に義務付けること。これは、現行の難民地位条約からさらに進んで、難民の受入れについての基準を定める国際条約である。

(C)究極的には、国家の廃止である。現在地で生存することが難しくなれば、任意の安全な場所に避難するのは、人間としてごく自然な行動である。ところが、その自然な避難行動を国境線の強制力でもって制約しようとするのが、国家という怪物である。よって、そのような桎梏は廃されるのが道理である。

実現可能性の容易さで順位付けされた以上の三つの解答こそ、真の模範解答だと思うのだが、これが現存世界ではなぜ落第点になるのか。

まず、解答(A)は、自国勢力圏を保持したい大国のパワーゲームを前提とした国際関係の通念を否定することにつながるから、落第である。

一見模範的な解答(B)は、難民保護を人道的責務を越えた法的義務に格上げして、締約国に課そうとする点において、国家主権の公理に反するから、落第である。

解答(C)に至っては、国家という崇高な存在を否定する過激なアナーキズムであるから、落第というより、糾弾に値する。

残念ながら、現時点ではこのような採点結果となるだろう。そして、このような採点が覆された暁には、難民問題はもはや特別な「問題」ではなくなるだろう。

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共産党の危険な野心

2015-09-26 | 時評

従来自他共に認める野党中の野党・日本共産党が「国民連合政府」なる政権構想をぶち上げ、おそらく結党以来初めて政権への本格的な野心を見せている。もっとも、共産党はかねてより綱領でも「民主連合政府」の構想を提示している。

しかしそれは、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占め」たうえでの「統一戦線の政府・民主連合政府」とされ、具体的には「民主連合政府は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など国民諸階層・諸団体の民主連合に基盤をお(く)・・・・・・政権である。」と規定されている。

その実現可能性はともかくとしても、綱領上の「民主連合政府」とは、要するに共産党主導での「連合政府」であって、他党との単純な「連立政府」ではない。ところが、今般の「連合政府」構想は「戦争法」(安保法)廃止を目的とした4党1会派(民主、維新、社民、生活、無所属クラブ)との選挙協力・連立という内容であるから、驚きと波紋を呼んでいるのだ。

反共勢力にとっては、たとえ連立であれ、共産党が政権与党入りするのは天地がひっくり返る悪夢であろうが、非党員コミュニストの目からしても、今般の構想には幾多の危険性が認められる。

党派政治が相対化されている地方政治ならいざ知らず、安保法廃止一点での合意で政権樹立という曲芸は国政ではまず無理であろうが―肝心の安保法自体をめぐっても野党間には温度差がある―、仮に成功しても、現在のように野党が断片化した状況では、93年の細川「非自民」八党派連立政権以上に不安定な「野合」政権となりかねない。

ただ、文字どおりに安保法廃止だけを目的としたワン・イシューの暫定政権なら目的達成後、早々に退陣・解散総選挙で手仕舞いすることもできようが、その後、自民党政権が復帰して再び安保法を制定し直せば、すべては元の木阿弥だ。

最近の選挙での伸張で、党が調子に乗るのはわかるが、巨大与党とはなお象とチーターぐらいの差がある現実は否定できない。そういう限界内で可能な等身大の目標は、来年の参院選で再び与野党逆転の「ねじれ」を生じさせ、さらに衆院選では連立与党を安定多数割れに追い込むための選挙協力くらいである。

しかし、現実にはそれすら、確実なめどは立たない。本来なら重要法案をきわどい手法で強行成立させた安倍政権は年内にも解散総選挙に出て、改めて選挙の審判を受けるべきだが、かれらがそのようなリスクを犯すはずもなく、来年まで冷却期間を置いての総選挙となるだろう。

一年間は、安保法の強行によっても大きく揺らいではいない政権支持率を立て直すには十分な時間である。断片化した野党にとっては、一瞬高まった野党への関心を維持するには長い時間である。共産党がそうした現実認識に立たないとすれば、デモの余韻で相当に多幸症的状態に陥っているとしか考えられない。

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晩期資本論(連載第67回)

2015-09-23 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(5)

 マルクスは、信用制度の持つ価値増殖の限界打破と恐慌誘発性という二面的な性格に着目していたが、そのことを資本主義に付きものの景気変動の諸局面に分けて分析している。

再生産過程が、・・・・・・繁栄状態に達したならば、商業信用は非常に大きく膨張するのであるが、その場合、この膨張には、・・・・・円滑に行なわれる還流と拡大された生産という「健全な」基礎があるのである。この状態では、利子率は、その最低限度よりは高くなるとはいえ、やはりまだ低い。実際、この時期こそは、低い利子率、したがってまた貸付可能な資本の相対的な豊富さが産業資本の現実の拡張と一致する唯一の時点である。商業信用の拡大と結びついた還流の容易さと規則正しさは、貸付資本の供給を、その需要の増大にもかかわらず、確実にして、利子率の水準が上がるのを妨げる。

 好況とは、簡単に言えば、高利潤率かつ低利子率の局面である。手形を中心とした商業信用も正常に機能し、かつ銀行資金は潤沢で、貸付金利も低いという資本蓄積にとっては理想状況である。

・・・こうなると、準備資本なしに、またおよそ資本というものなしに事業をし、したがってまったく貨幣信用だけに頼って操作をする騎士たちが、ようやく目につくようになってくる。いまではまた、あらゆる形での固定資本の大拡張や、新しい巨大な企業の大量設立が加わってくる。そこで利子はその平均の高さに上がる。

 好況期には、低金利に支えられ、起業ブームも沸き起こる。銀行からの借入金に依存した新規事業が多数立ち上げられる一方、対等合併の形での巨大企業の設立も起こる。このような好況絶頂期の局面では、利子率が上昇を見せ始めるが、そのわけは―

・・・・労働力にたいする需要、したがってまた可変資本にたいする需要の増大は、それ自体としては利潤をふやすのではなく、むしろそれだけ利潤を減らす。とはいえ、労働力にたいする需要の増大につれ、可変資本にたいする需要、したがってまた貨幣資本にたいする需要も増加することはありうるのであり、これはまた利子率を高くすることができるのである。

 好況絶頂期には当然にも労働力に対する需要も増大する。それは労賃上昇圧力となり、利潤率は低下する。一方で労賃支払いの必要上銀行信用への依存度は高まり、そのことが利子率上昇要因となる。
 マルクスは他の利子率上昇要因として、生活手段や原料価格の高騰や中央銀行からの準備金流出なども挙げているが、ここではそれらの詳細な検討は割愛する。

・・利子が再び最高限度に達するのは、新しい恐慌が襲ってきて、急に信用が停止され、支払が停滞し、再生産過程が麻痺し、・・・・・・貸付資本のほとんど絶対的な欠乏と並んで遊休産業資本の過剰が現われるようになるときである。

 好況絶頂期には、過剰蓄積の状態に達している。すなわち、「過剰生産と眩惑的景気の時期には、生産は生産諸力を最高度に緊張させて、ついには生産過程の資本主義的制限をも越えさせてしまうのである」。恐慌局面では倒産防止のための緊急的な融資への需要が殺到し、貸付資本は欠乏する一方、銀行では焦げ付き防止のため、高利子や貸し渋りも発生する。

・・・一見したところでは、全恐慌はただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる。そして、実際、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかし、これらの手形の多くは現実の売買を表わしているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに越えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。

 外見上は信用制度の急停止に伴う信用恐慌・貨幣恐慌に見える恐慌の内実は、過剰蓄積がもたらす産業恐慌、商業恐慌にほかならない。 

貸付可能な貨幣資本の増加は、必ずしも現実の資本蓄積または再生産過程の拡張を示しているのではない。このことは、産業循環のなかでは恐慌を切り抜けた直後に貸付資本が大量に遊休している段階で最も明瞭に現われる。このような瞬間には、生産過程は縮小されており・・・・・・・・・・、商品の価格は最低点まで下がっており、企業精神は麻痺してしまっていて、一般に利子率の水準が低いのであるが、この低水準がここで示しているものは、まさに産業資本の収縮と麻痺とによる貸付可能資本の増加にほかならないのである。

 恐慌を切り抜けた後に続く不況局面では、生産過程の縮小、物価低落という状況下で、再び銀行の貸付資本が増加するも、融資需要は乏しく、低利子へと回帰していく。ここから理論上は、不況回復期を経て、冒頭で見た「再び過度の膨張に先行する繁栄状態」に帰っていくことになる。まとめると―

 このように、利子率に表わされる貸付資本の運動は概して、産業資本の運動とは反対の方向に進むのである。まだ低いとはいえ最低限度よりも高い利子率が恐慌後の「好転」および信頼の増大とともに現われる段階、また特に、利子率がその平均的な高さ、すなわちその最低限度からも最高限度からも等距離にある中位点に達する段階、ただこの二つの時期だけが、豊富な貸付資本と産業資本の大膨張とが同時に現われる場合を示している。しかし、産業局面の発端では低い利子率と産業資本の収縮とが同時に現われ、循環の終わりには高い利子率と産業資本の過剰豊富とが同時に現われるのである。

 マルクスは「この産業循環は、ひとたび最初の衝撃が与えられてからは同じ循環が周期的に再生産されざるをえないというようになっている。」と法則化するが、実際の景気変動の歴史は、必ずしも単純な周期的反復を示してはいない。特に恐慌抑止のための経済政策の技術が進歩した現在では、恐慌を未然に防止することもできるようになってきている。しかし、それは資本主義的な景気循環を本質的に除去しているわけではなく、過剰蓄積に伴う経済危機は恒常的に潜在化している。

☆小括☆
以上、十四では『資本論』第三巻第五篇第二十五章乃至第三十二章から、信用制度の役割・機能について分析を加えた箇所をかいつまみ、参照しながら検討した。なお、金本位制を前提に通貨・為替制度を検討した第三十三章乃至第三十五章と、資本主義以前の古典的な金融制度を歴史的に分析した第三十六章の参照は除外する。

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晩期資本論(連載第66回)

2015-09-22 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(4)

 マルクスは、商業信用及び銀行信用を二大部門とする信用制度全般が資本主義経済において果たす役割を大きく四本の柱にまとめている。

Ⅰ 利潤率の平均化を媒介するために、または全資本主義的生産がその上で行なわれるこの平均化の運動を媒介するために、必然的に信用制度が形成されるということ。

 これは特に高利潤資本の再生産過程では銀行からの借入や信用買い付けなどの信用諸制度の利用が活発化する一方、低利潤資本では逆に信用制度の利用が抑制されることで、利潤率の平均化が調節的にもたらされることを意味している。

Ⅱ 流通費の節減
1 主要流通費の一つは、自己価値であるかぎりでの貨幣そのものである。貨幣は信用によって三つの仕方で節約される。
・・・・・・・・
2 信用によって流通または商品変態の、さらには資本変態の、一つ一つの段階を速くし、したがってまた再生産過程一般を速くするということ。

 命題1の貨幣節約の態様として、(A)貨幣の不使用(B)通貨流通の加速化(C)紙券による金貨幣の代替が挙げられている。現代ではこれに貨幣の電子化という現象が加わり、通貨流通の瞬時化、ひいては命題2の再生産過程の超高速化を導いている。

Ⅲ 株式会社の形成。これによって―
1 生産規模の非常な拡張が行なわれ、そして個人資本には不可能だった企業が現われた。同時に、従来は政府企業だったこのような企業が会社企業になる。
2 それ自体として社会的生産様式の上に立っていて生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本が、ここでは直接に、個人資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本企業は個人企業に対立する社会企業として現われる。それは、資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。
3 現実に機能している資本家が他人の資本の単なる支配人、管理人に転化し、資本の所有者は単なる所有者、単なる貨幣資本家に転化するということ。

 資本主義的な大規模生産を可能とする株式会社企業は、信用制度、特に銀行信用なくしては存立し得ないであろう。その意味で、信用制度は株式会社の形成・発展を促進する。上記のⅠ及びⅡが信用制度の言わば直接的な役割であったのに対し、これは結果的な役割と言える。
 命題2の「資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止」という弁証法的な社会的所有論は、第一巻結論部でも「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という有名な科白を含むより抽象的な命題として言及されていたところであるが、現代の資本企業は命題3にあるような「所有と経営の分離」を特質とする新たな間接所有的な私的所有形態として再編されている面もあり、「私的所有としての資本の廃止」は必ずしも実現されていない。
 マルクスも第三巻ではこのことを認め、「株式という形態への転化は、それ自身まだ、資本主義的なわくのなかにとらわれている。それゆえ、それは、社会的な富と私的な富という性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立を新たな姿でつくり上げるだけである。」と付言している。
 それどころか、このような資本主義的な限界内での私的所有の揚棄という矛盾は、「新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺の全制度を再生産する。それは、私的所有による制御のない私的生産である。」とも指摘される、まさに現代資本主義において観察されるような現象を生み出す。

Ⅳ ・・・・・・・信用は、個々の資本家に、または資本家とみなされる人々に、他人の資本や他人の所有にたいする、したがってまた他人の労働にたいする、ある範囲内では絶対的な支配力を与える。

 これもまた、Ⅲの命題3から導かれる信用制度の結果的な役割である。ここでは、「人が現実に所有している、また所有していると世間が考える資本そのものは、ただ信用という上部建築のための基礎になるだけである」。例えば「社会的生産物の大部分がその手を通る卸売業」の場合、「投機をする卸売商人が賭けるものは、社会的所有であって、自分の所有ではない。資本の起源が節約だという文句も、同様にばかげたものになる、なぜならば、彼が要求するのは、まさに他人が彼のための節約すべきだということでしかないからである」。 同じことは、株式を資産として保有する投機だけを目的とした株主についても言える。銀行も融資先企業に対して、外部的な債権者としての支配力を有する。
 かくして「社会的資本の大きな部分がその所有者ではない人々によって充用される」ことで、「信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである」

・・・・信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的な基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務である。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。

 信用制度は資本主義的な価値増殖に内在する限界を打ち破る役割を持つが、その投機的性格から恐慌の要因ともなり、それが古い生産様式の解体を促進するという趣意である。
 言い換えれば、「信用制度に内在する二面的な性格、すなわち、一面では、資本主義的生産のばねである他人の労働の搾取による致富を最も純粋かつ最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、しかし、他面では、新たな生産様式への過渡形態をなすという性格」がもたらす(マルクスは明示しないが)信用制度の五番目の役割である。
 マルクスは、これを「信用制度の発展―そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止」という一句にまとめている。ただ、信用制度が金融恐慌のような破局的事態を招くことについては先例も存在するが、それが資本所有そのものの廃止を潜在的であれ含んでいるかどうかについては、疑問の余地があろう。

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晩期資本論(連載第65回)

2015-09-21 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(3)

 銀行資本が象徴しているのは信用制度であるが、銀行信用を含めた信用制度の基礎には「再生産に携わっている資本家たちが互いに与え合う信用」、すなわち商業信用がある。

この信用(商業信用)を代表するものは、手形、すなわち確定支払期限のある債務証券、延払証券・・・・・である。

 典型的には、約束手形が想定される。マルクスはここで、「われわれはさしあたり銀行業者信用は全然考慮しないこととする。」と断っているが、実際のところ、手形の支払い資金は銀行預金から支出されることが通常であり、また銀行は手形割引に引受人として関与し、その割引金利はプライムレートの基準となるなど、商業信用と銀行信用は密接にリンクしている。
 ただ、こうした銀行信用との絡みを捨象した「純粋な商業信用の循環については、二つのことを言っておかなくてはならない」。

第一に、このような相互の債権の決済は、資本の還流にかかっている。すなわち、ただ延期されただけのW―Gにかかっている。

 例えば、約束手形を振り出した業者Aが受取人の業者Bに支払うには、Aの商品が期日までに売れなければならない。すなわち、「支払は、再生産すなわち生産・消費過程の流動性にかかっているのである」。言い換えれば、「各人は、自分が手形を振り出したときには、自分自身の事業での資本の還流をあてにしていたか、またはその間に彼に手形の支払いをすべき第三者の事業での還流をあてにしていたかのどちらかでありうる」。

第二に、この信用制度は、現金支払の必要性をなくしてしまうものではない。

 手形は貨幣の代替物ではないので、満期が到来すれば、現金決済しなければならない。「還流の見込みを別とすれば、支払いは、ただ、手形振出人が還流の遅れたときに自分の債務を履行するために処分できる準備資本によってのみ、可能となることができるのである」。

この商業信用にとっての限界は、それ自体として見れば、(1)産業家や商人の富、すなわち還流が遅れた場合の彼らの準備資本処分力であり、(2)この還流そのものである。

 「手形が長期であればあるほど、まず第一に準備資本がそれだけ大きくなければならず、また価格の下落や市場の供給過剰による還流の減少または遅延の可能性がそれだけ大きくなる。さらに、もとの取引が商品価格の騰落をあてこんだ思惑によってひき起こされたのであれば、回収はますます不確実である」。そして、手形不渡りは企業倒産にもつながる信用失墜となる。

ところが、労働の生産力が発展し、したがってまた大規模生産が発展するにつれて、(1)市場が拡大されて生産地から遠くなり、(2)したがって信用が長期化されざるをえなくなり、したがってまた、(3)思惑的要素がますます取引を支配するようにならざるをえないということは、明らかである。

 生産力が発展すれば遠隔取引や思惑取引も増大するため、商業信用は不可欠となる。「信用は、量的には生産の価値量の増大につれて増大し、時間的には市場がますます遠くなるにつれて長くなる。ここでは相互作用が行なわれる。生産過程の発展は信用を拡大し、そして信用は産業や商業の操作の拡大に導くのである」。

・・・・いま、この商業信用に本来の貨幣信用が加わる。産業家や商人どうしのあいだの前貸が、銀行業者や金貸業者から産業家や商人への貨幣前貸と混ぜ合わされる。

 冒頭でも注記したとおり、商業信用は銀行信用とリンクしている。典型的には、手形割引である。手形割引などは実質上金融手段であり、これにより「各個の製造業者や商人にとって、多額の準備資本の必要が避けられ、また現実の還流への依存も避けられるのである」。

しかし、他面では、一部はただ融通手形のやりくりによって、また一部はただ手形づくりを目的とする商品取引によって、全過程が非常に複雑にされるのであって、外観上はまだ非常に堅実な取引と順調な還流とが静かに続いているように見えても、じつはもうずっと前から還流はただ詐欺にかかった金貸業者とか同じく詐欺にかかった生産者とかの犠牲によって行なわれているだけだということにもなるのである。

 手形詐欺は資本主義経済ではしばしば発生する典型的な経済犯罪である。「それだから、いつでも事業は、まさに破局の直前にこそ、ほとんど過度にまで健全に見えるのである。」というのも、経験則であろう。
 もっと大きく見れば、「事業は相変わらずいたって健全であり、市況は引き続き繁栄をきわめているのに、ある日突然崩壊が起きるのである」。これはいささか誇張であり、崩壊の前には市況に何らかの予兆が現われているものであるが、信用取引は複雑で目に見えにくいため、予兆の発見が遅れがちであることはたしかであり、それは信用経済が最高度に拡大した現代資本主義の恐ろしさである。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(37)

2015-09-20 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(下)

コミュニスト:いよいよこの対論も最終回を迎えます。最後は「革命の社会学的可能性」がテーマですか。

リベラリスト:一番肝心なことでしょうからね。早速私の結論を言えば、少なくともあなたが提唱されるような共産主義革命の可能性はほぼゼロだろうということになります。

コミュニスト:おおむね予想された回答です。それにしても、そこまで悲観的な理由を改めてお聞かせください。

リベラリスト:そもそも革命というものが、すでに歴史の中の政治現象になっているという事実があります。たしかに、20世紀前半ぐらいまでは様々な革命が世界各地で見られました。我がアメリカ合衆国の成り立ちも革命によっていますし、あなたがたの近代日本を造った明治維新も青年サムライたちが主導した一種の革命でした。ロシア革命も、その名のとおり革命です。しかし、これらはすべて過去の出来事で、二度と繰り返されるものではありません。

コミュニスト:なぜ、そう決め付けられるのでしょう。たしかに、今挙げられたような「武装革命」は過去のものだとしても、私が提唱するような「非武装(非暴力)平和革命」は新たな時代の新たな革命の形態だと思うのですが。

リベラリスト:政治経済の機構が整備されてきた20世紀後半以降の世界において、革命という政治行動は、どのような「形態」のものであれ、ほとんどの人にとって想定外のこととなっているのです。もちろん特定の政権に対する抗議行動なら今も見られ、時に政権崩壊を結果するプチ革命的な行動は見られますが、それはいわゆる革命ではないし、まして共産主義革命などではありません。

コミュニスト:それは事実ですが、しかし今後とも人類は資本主義・市場経済の限界に気づかず、革命的に覚醒することはないと断言できますか。あなたは先ほど、共産主義革命の可能性は「ほぼゼロ」と言われましたが、裏を返せばわずかながら可能性はあるようにも聞こえますが。

リベラリスト:たしかに「資本主義・市場経済の限界」は見えても、一方でその利点についても認識されていて、それは人類にとっての基本路線だというのが地球的な規模での世論ではないでしょうか。もちろん世論は変化しますから、永遠に同じとは言いませんが。

コミュニスト:私は「世論」のような社会心理学的な要素よりも、先ほど指摘された政治経済的な機構の整備という社会物理学的な要素を重視します。たしかに、そうした「機構的整備」が革命の可能性を狭めているのは事実と認めますが、この「機構」はますます地球環境の持続可能性を危うくし、自身の存立基盤をも壊そうとしているのですから、「機構」を根底から変革する必要があるのです。

リベラリスト:私は、地球環境問題を契機に共産主義革命が起こるだろうという予測には否定的です。環境問題は抗議デモの旗印にはなっても、革命には結びつかないでしょう。そもそも自然環境と社会経済とを結びつけて考えるという発想自体が専門家的で、一般大衆はなかなかそのように発想しないものです。

コミュニスト:だとすれば、自然環境は人間の社会経済のあり方とは無関係だという宣伝が資本やそのイデオローグによってなされていることも影響しているでしょう。

リベラリスト:「資本主義経済が地球環境の持続可能性を害している」という命題が大衆にも容易にわかるほどに証明されれば、事情は変化するかもしれませんが、その命題は未証明の仮説の域を出ていません。それが証明されない間は、「機構」を根こそぎ変革しようという動きは出ないでしょう。たとえ証明されたとしても、「全世界での連続革命」などというものは、マルクス以来の机上論です。

コミュニスト:たしかに、マルクスの同時代である19世紀には机上論的であったでしょう。しかし、インターネットを通じたソーシャルネットワークの時代にはどうでしょう。

リベラリスト:私は一般的にソーシャルネットワークの価値は過大評価されていると思っています。インターネット草創期にも「ネットで世界とつながる」なんて言われていましたが、実際はどうだったでしょう。情報言語は世界共通ですが、ネットでも使用される人間の日常言語は世界共通化できず、ソーシャルネットワークでつながっているのは同じ言語を共有する国内にほぼ限られているのではありませんか。むしろソーシャルネットワークを通じて閉鎖的なナショナリズムが力を持つような逆説的現象すら見られるところです。

コミュニスト:たしかにインターネットは言語的障壁を完全には克服できていませんが、その点は多言語による即時翻訳ソフトの開発によって技術的に克服可能だと思います。また理想的とは言えませんが、英語のグローバルな普及はかなりの程度、言語的障壁を補っていると考えられます。

リベラリスト:また悲観的予測で申し訳ないですが、私はラングとパロールに分化する言語の性質上、完璧な翻訳ソフトの開発は困難と見ています。いちおう規則的に規範化されたラングの側面はともかく、個人的な言語運用にかかるパロールの側面でコンピュータは変換不能に陥ってしまうのです。ただし、英語の普及はたしかに言語的障壁の克服に一定役だちますが、英語の運用能力は教育程度によるところが大きく、大衆が自在に英語で世界中とやり取りし、世界連続革命を実行するという構図は空想的に思えます。

コミュニスト:この対論全体を通じて、リベラリズムとは革命的ペシミズムだと改めて認識致しました。

リベラリスト:決して「反革命的」と受け止めていただきたくないのですが、リベラリズムは「革命の前にできることはある」と考える点では、楽観主義なのです。それでうまくいかなければ革命の可能性も検討しようということで、保守主義のように「革命とは国家社会の秩序を破壊する犯罪である」と決め付けて、革命についての議論自体を封じようとするものでありません。ですから、反共主義でもなく、共産主義に関する議論に対しても開かれています。

コミュニスト:その意味では、「自由な共産主義」をめぐる議論は本来最終のないものという趣旨から、最後の「総括的対論」の回には無限記号∞を付しておきました。お相手ありがとうございました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

〔注記〕
当連載で引用されている拙稿『共産論』は、旧版の内容を前提としています。最新版はこちらからご覧いただけます。

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民衆は目覚めたか

2015-09-19 | 時評

集団的安保法案をめぐる大衆デモのうねりが内外で注目を集めた。福島原発事故後の反原発デモの頃から、こうした大衆行動の再生が見え始めており、今回の反安保デモも唐突に生じたわけではない。

とはいえ、55年前、安倍首相の母方祖父・岸首相を退陣に追い込んだ1960年日米安保条約改定当時のデモに比べれば、政治的な成果はほとんどなかった。今回のデモを契機に安倍首相が退陣する可能性はない。

デモのうねりを「革命」になぞらえた知識人もいるが、それは真の革命については何も知らないと言っているのと同じである。近年のデモ行動の世界的な傾向性として、現政権の退陣を要求する「反政権デモ」の形態をとることが多いが、現政権が退陣すれば満足して終息してしまうのは真の革命ではなく、一過性の抗議行動にすぎない。

反安保法デモを来年以降予定される国会選挙での「落選運動」につなげようという「戦略」もあるようであるが、しかしこれも「反安倍政権デモ」の延長であり、革命ではない。野党が断片化した現状では、落選運動自体の効果も限定的にとどまるだろう。

多数党支配を本旨とする議会制自体が今回のような超憲法的立法をも許すのであるから、革命というなら、反政権ではなく、反議会制を掲げなければならない。もちろん、その先にあるのは議会制を超える民主的な政治体制の構築であるが、それは議会制と地下通路でつながっている資本主義の廃止とも結合していなくてはならない。

60年安保闘争が終息して以降の日本国民は、続いて始まった資本主義的経済成長の果実である「所得倍増」という麻酔薬で政治的に眠らされてきた。同じように安倍政権も「成長戦略」の麻酔を追加すれば、政治的に目覚めかけた国民を再び眠らせることができるとたかをくくっているようだ。

現状はまだ半覚醒状態にとどまるので、再び麻酔が効いてくる可能性は高い。政権も麻薬の追加注射を急ぐだろう。しかし「成長戦略」が失敗すれば、完全覚醒もあり得なくない。そういう微妙な転換点に来ている。


【追記】
安倍政権は「所得倍増」の代わりに、「GDP増大」を打ち出した。そして新たに持ち出されたキャッチフレーズ「一億総活躍社会」とは、国民総生産拡大のための新たな勤労総動員である。安保法とほぼ同時成立の改悪派遣法が、その梃子の役割を果たすだろう。国民総体の非正規労働狩り出しで、所得倍増どころか、所得半減となりかねない麻薬である。

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近未来日本2050年(連載第21回)

2015-09-19 | 〆近未来日本2050年

五 「緊縮と成長」政策(続き)

減税政策
 ファシスト政権が選挙で圧勝し、かつその後も幅広い支持を維持している最大要因が、減税政策である。その内容は多岐にわたるが、大衆的に最も支持されたのは消費減税である。
 消費税はファシスト政権樹立前には15パーセントにまで引き上げられていたところ、ファシスト政権はこれを一気に7パーセントまで引き下げたのである。そのうえで、「欲しがります、勝つために」のキャッチフレーズで大衆の競争的労働意欲と消費欲を刺激する策に出て、消費の増大を実現させた。
 もう一つの奇策と言うべき大胆な策は、所得、相続、法人の三税で導入された逆累進課税である。逆累進課税とは高額所得者/有資産者や高収益企業ほど税率を軽減する制度であり、まさしく累進課税の逆を行くものである。これは露骨な富裕層・大企業優遇策にほかならないが、稼得や収益を増大させるために自助努力した者は課税上優遇するという競争主義的なコンセプトに基づく税制であり、先の脱社会保障とも通底する政策と位置づけられる。
 なお政府は相続税について、私有財産に対する行き過ぎた制約になっているとして、将来的な廃止または例外的な富裕税化を検討し、財政経済改革本部の諮問会議に諮って審議しているところである。
 さらに外資誘致やベンチャー企業育成のため、全国の経済的な拠点都市域に「法人免税特区」を設定し、特区に本社・本店機能を置く企業の法人税を免除する制度も創設した。この制度はいわゆる「タックスヘイブン」として国際的な批判を浴びているが、政府は内政干渉としてこれを一蹴している。
 こうした大胆な減税政策により、国の税収は半分近くまで落ち込む状態となったが、それを脱社会保障政策と医療・福祉の領域にまで資本化・民営化を全面拡大する新自由主義政策の徹底によって補填しようとしているのである。

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近未来日本2050年(連載第20回)

2015-09-18 | 〆近未来日本2050年

五 「緊縮と成長」政策

経済再生の成功
 2050年日本の議会制ファシズムはその独裁的、抑圧的体質にもかかわらず、国民的に幅広い支持を受けているが、その最大の秘訣は20世紀末以来の歴史的な課題であった経済再生に成功したことにあると言われる。実のところ、ナチス政権も含め、過去の成功したファシズム体制はすべて経済危機に対処する経済再生政権でもあった。この法則は、2050年における日本ファシズムでも明確に実証されたのである。
 実際、ファシスト政権成立前の日本経済は積年の財政赤字の累積に加え、深刻な労働人口減による生産力の低下が顕著となり、2040年代にはGDPでドイツにも抜かれ、世界第四位に後退していたのだった。そうした中、「緊縮と成長」をキャッチフレーズに登場したのがファシスト政権であった。「緊縮」と「成長」は相矛盾する面もあるが、それを同時に実行するのが「緊縮と成長」政策の妙味であり、これを可能にしたのがファシストの政治手法であった。
 政権は議会審議を形骸化させる強権的な手法をもって経済再生策を矢継ぎ早に打ち出し、およそ半世紀ぶりの財政黒字化に成功、さらには年率3パーセント台の経済成長も実現したのだ。このような「緊縮と成長」政策は、以下の四本の柱から成り立っている。
 第一の柱は脱社会保障、すなわち社会保障からの撤退(これについては、前章で詳述した)。第二は減税。第三に新自由主義の徹底(ただし、政権は「新自由主義」という標語を避け、「市場フロンティア政策」と自称している)。第四に外国人労働者の大量移入。
 これらの政策を機動的に実行するため、政権は旧来の財政経済諮問会議を内閣府所属行政機関としての財政経済改革本部に改組したうえ、本部長を首相が兼任し(本部長代理は内閣官房長官が兼任、副本部長は民間起用大臣)、官邸の指令で一元的に政策を断行できる仕組みを作り出しているところである。

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戦争観念法

2015-09-17 | 時評

今国会での可決・成立がほぼ確実となった集団的安保諸法案は、批判者らによって「戦争立法」と渾名されてきたが、実のところ、今般の立法は多分にして内容空疎な観念立法にとどまっている。

法律の必要性についての政府の力説も、それに対して反対派が掲げる「立憲主義」の教説も、すべてが空虚な観念論戦の様相を呈したのも、無理からぬことである。

今法案は「存立危機事態」「重要影響事態」なる二つのキー概念を擁しているが、集団的自衛権の発動要件となる前者の言わば国の存亡に関わるような危機とは、個別的自衛権の発動事例となる直接侵略の場合以外には現実に想定できない事態である。

他方、より危険度が低く、外国軍への後方支援の発動要件となる「重要影響事態」は「重要」「影響」という曖昧な用語をつなげただけの空理であるから、現実に何らかの「事態」が発生した際に判断基準としてはとうてい働かない。政府自身を判断不能に陥れるだけである。

かくして、今法案は軍事参謀のような真の軍事専門家が作成したものではなく、抽象的な法観念を振り回す法律家主導で作られた法案という性格が濃厚である。具体的事例をもって追及されても、政府がまともに答弁できないのも当然であった。

このように内容空疎な法案の成立を政府が異様なまでに急いだ理由は、この法案を早期に成立させて直ちに戦争を発動したいから、ではない。それよりも、この「戦争観念法案」には政治外交上の重要な意義があるからだ。

一つは、現支配層の宿願である改憲の前哨戦とすることである。今法案は「解釈改憲」という姑息手段をとっているため、9条との整合性を担保するためとして集団的自衛権の発動要件を「限定」するという論理が持ち出された経緯もある。

しかし、観念的とはいえ、集団的自衛権の解禁を明確にしたことで、憲法9条の規範性は仮死状態に陥る。このことは、最終的に9条の廃止につながるだろう。将来の政府は、「限定」された今法案(法律)では適切に集団的自衛権を行使できないという理屈から、桎梏である憲法そのものを改正しなければならないという改憲論理を持ち出すこともできるようになる。

もう一つは、対米得点稼ぎとしての意義である。これは日米同盟における米国側負担を軽減したいという米国側の意向に答えるもので、現支配層の存立基盤である軍事大国・米国の庇護を今後とも確実にするという事大主義的な外交意図に出たものである。

同時に、今般法案の成立過程は、巨大与党が議会制の枠組みを使って野党も議会外の声も排斥して超憲法的な立法を断行できるという実例を示した。このような政治を「ファシズム」と呼ぶかどうかは別として、少なくとも議会制度が民主主義を保証するものでないことだけはこれではっきりしただろう。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(36)

2015-09-12 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(中)

コミュニスト:前回、私が提唱するような貨幣経済を廃した共産主義が現実に成り立つかどうかは、果たして人類が本性とも言える強欲さを放棄できるかどうかという人類学的問いにかかってくると言われました。

リベラリスト:それに関する私の答えは、「放棄できない」です。この点であなたとは大きく意見が分かれるでしょうが、人類の強欲さは後天的あるいは政策的に体得されたものではなく、生来のもので、まだ証明はされていないものの、強欲さに関する共通遺伝子を持っているのではなかろうかと推測しています。

コミュニスト:実際、それは証明されていませんね。たしかに、人類は所有に対する並外れた欲望を共通して保持しているように見えます。しかし、一方でそうした欲望を抑制する精神も持ち合わせていますね。

リベラリスト:ええ。私の理解によると、資本主義とは、そうした所有欲を技術的な法や計量的な経済制度によってコントロールする巧妙な仕組みです。つまり多種多様な物や無形的なサービスに至るまで、物欲の対象となる商品化して貨幣交換によって規律しながら、生産・供給するというシステムです。このように、人類は商品という形で生存のネットワークを築く唯一の生物ですが、これをマイナスにばかり受け止めず、長所ととらえることはできませんか。

コミュニスト:私には難しいですね。必需物資まで商品化するから、貨幣の手持ちが少ない貧困者は必需物資も入手し難くなり、生命の危機さえ招来します。私は交換経済全般を否定はしませんが、物々交換と比べても、貨幣交換は生存権を脅かすシステムです。

リベラリスト:その点は、もう一つの人類的なシステムである福祉で補充すればよいと考えますが、あなたは否定的なのですよね。

コミュニスト:福祉も所有欲の前には常に制限されてしまうからです。その点、共産主義は所有欲を政策的にコントロールするのではなく、地球環境の持続可能性という大きな視座から、福祉をも本源的に包摂するような形でもってこれを昇華しようという革命的な試みだとも言えます。

リベラリスト:持続可能性も一般的に否定するつもりはありませんが、地球そのものが永遠に持続する保証はないわけです。確率として最も高いのは太陽の死滅による地球の連鎖的な死滅です。こうした外部的要因は、人間の手ではいかんともし難い。未来への責任も理念として大切ですが、人類の特性として現在という時間性を最も重視する現世的ということもありますから、遠大な持続可能性論によって所有欲を昇華しようとすることにも限界があると思います。

コミュニスト:どうも、いずれ地球は外部的要因で死滅するのだから、今のうちに搾り取れるだけ搾っておけと言っているようにも聞こえます。これはあなた方アメリカ人の本音ですか。

リベラリスト:それはいささか曲解です。アメリカ人に現世的性格が強いことは認めますが、現世的なのは人類全般の本性です。ですから理念としての環境的持続可能性を否定はしませんが、それも所有欲を規律する一つの契機ととらえるべきで、持続可能性の観点から共産主義へという流れには素直に乗れないのです。

コミュニスト:人類は現世的ではありますが、同時に未来という時間観念も持っています。私はそういう二面性に期待をかけるのですが、甘いでしょうか。

リベラリスト:甘いというか、理想主義だと思います。理想は大切ですが、物事は理想どおりにいかないものです。とりわけ、革命というような一大事になればなおさら・・・・。

コミュニスト:革命の実現可能性は社会学的な検討を要する問題ですので、最終回で議論するとして、人類の本性に関する問いについては、理想主義対現実主義という対立軸によるのではなく、先ほど指摘した人類の持つ二面的な性格をもっと直視し、そうした二面性を止揚するような視座を開拓すれば、資本主義を既定化する狭い観念から脱することができるのでないかと考えるものです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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晩期資本論(連載第64回)

2015-09-09 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(2)

銀行資本は、(1)現金、すなわち金または銀行券と、(2)有価証券とから成っている。

 銀行資本の構成要素はこの二つに大別される。これをさらに細かくみると、前者(銀行券は現代では中央銀行に集中される)は銀行業者自身の投下資本と預金に分かれ、後者は手形に代表される商業証券と、国債証券に代表される公的有価証券、各種株式等である。

利子生み資本という形態に伴って、確定した規則的な貨幣収入は、それが資本から生ずるものであろうとなかろうと、すべて資本の利子として現われることになる。まず貨幣収入が利子に転化させられ、次に利子といっしょに、その利子の源泉となる資本も見いだされる。同様に、利子生み資本とともに、どの価値額も、収入として支出されさえしなければ、資本として現われる。すなわち、その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して元金(principal)として現われるのである。

 マルクスが挙げる簡単な例で言えば、25ポンドの利子を生む500ポンドの資本があるとして、「25ポンドの源泉が単なる所有権また債権であろうと、地所のような現実の生産要素であろうと、とにかくそれが直接に譲渡可能であるか、または譲渡可能になる形態を与えられる場合を除けば、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものでしかないのである」。
 このような幻想的な資本のことを「仮想資本」(擬制資本)という。なお、「架空資本」という言い方もあるが、これでは作為的に仮装された資本というニュアンスになりかねないので、一般的ではないが、ここでは「仮想」の語を用いる。

仮想資本の形成は資本換算と呼ばれる。すべて規則的に繰り返される収入は、平均利子率で計算されることによって、つまりこの利子率で貸し出される資本があげるはずの収益として計算されることによって資本換算される。

 例えば年収入100ポンドで利子率5パーセントとすると、計算上これは2000ポンドの年利子と想定され、「そこで、この2000ポンドは年額100ポンドにたいする法律上の所有権の資本価額とみなされる」。
 「こうして、資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡に至るまで消え去って、自分自身によって自分を価値増殖する自動体としての資本の観念が固められるのである」。これが先に利子生み資本の呪物的性格と言われたもののからくりである。

債務証書―有価証券―が国債の場合のように純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも、この証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 国債の場合は、「資本そのものは、国によって食い尽くされ、支出されている。それはもはや存在しない。国の債権者がもっているものは、・・たとえば100ポンドといった国の債務証書である」。これに対して、「会社の株式は、現実の資本を表わしている。すなわち、これらの企業に投下されて機能している資本、またはこのような企業で資本として支出されるために株主によって前貸しされている貨幣額を表わしている」。とはいえ、「株式は、この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする按分比例的な所有権にほかならないのである」。

国債証券だけではなく株式を含めてのこのような所有権の価値の独立な運動は、この所有権が、おそらくそれがもとづいているであろう資本または請求権のほかに、現実の資本を形成しているかのような外観を確定する。

 ここで、「仮想資本」という語の意味がより明瞭になる。しかも―

・・このような所有権は、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品になるのである。その市場価値は、現実の資本の価値が変化しなくても(といってもその価値増殖は変化するかもしれないが)、その名目価値とは違った規定を与えられる。一方では、その市場価値は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。

 こうして、株式市場に代表される有価証券市場が形成される。周知のとおり、晩期資本主義はこうした有価証券市場を中心に回っていると言っても過言でない。しかし―

これらの証券の減価または増価が、これらの証券が表わしている現実の資本の価値運動にかかわりのないものであるかぎり、一国の富の大きさは、減価または増価の前も後もまったく同じである。

 つまり、こうした証券市場の変動は、実体経済とは離れて生じる。しかし、そうした言わば仮想市場が巨大化した晩期資本主義にあっては、仮想市場の動向が実体経済にも影響を及ぼす。証券バブル経済とその破局はその極端な例である。この点、マルクスも「利子生み資本や信用制度の発展につれて、同じ資本が、または同じ債権でしかないものさえもが、いろいろな人手のなかでいろいろな形で現われるいろいろに違った仕方によって、すべての資本が二倍になるように見え、また三倍になるようにも見える。」と予見していた。

最後に、銀行業者の資本の最後の部分をなすものは、金または銀行券から成っている彼の貨幣準備である。預金は、契約によって比較的長期間にわたるものとして約定されていないかぎり、いつでも預金者が自由に処分できるものである。それは絶えず増減している。しかし、ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので、営業状態が正常なときには一般的な平均額はあまり変動しない。

 とはいえ、預金は「利子生み資本として貸し出されており、したがって銀行の金庫のなかにあるのではなく、ただ銀行の帳簿の上で預金者の貸方として現われているだけである。他方では、預金者たちの相互の貸しが彼らの預金引き当ての小切手によって相殺され互いに消去されるかぎりでは、預金はこのような単なる帳簿金額として機能する」。その点では、預金も仮想資本としての性格を持つ。「預金とは、じっさいただ公衆が銀行業者にたいして行なう貸付の特殊な名称でしかないのである」。まとめると―

 すべて資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたいするこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価格の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味しないのである。

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晩期資本論(連載第63回)

2015-09-08 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(1)

信用制度の一方の面は貨幣取引業の発展に結びついており、この発達は当然、資本主義的生産のなかでは商品取引業の発展示と同じ歩調で進んでいく。すでに前の篇(第十九章)で見たように、事業家の準備金の保管、貨幣の受け払いや国際的収支の技術的操作、したがってまた地金取引は貨幣取引業者の手に集中される。この貨幣取引業と結びついて、信用制度のもう一方の面、すなわち利子生み資本または貨幣資本の管理が、貨幣取引業者の特殊な機能として発展する。貨幣の貸借が彼らの特殊な業務になる。

 こうした特殊業務としての貨幣貸借がむしろ中核業務となったのが、近代的な銀行制度である。「貨幣資本の現実の貸し手と借り手とのあいだの媒介者」となった「銀行は、一面では貨幣資本の集中、貸し手の集中を表わし、他面では借り手の集中を表わしている」。

まず第一に、銀行は産業資本家たちの出納係であるから、銀行の手中には、各個の生産者や商人が準備金として保有する貨幣資本や彼らのもとに支払金として流れてくる貨幣資本が集中する。

 こうした「商業世界の準備金は、共同の準備金として集中される」という形で、銀行は「貨幣資本の一般的な管理者」ともなる。

第二に、銀行の貸付け可能な資本が貨幣資本家たちの預金によって形成され、彼らはこの預金の貸出を銀行に任せる。さらに、銀行制度の発達につれて、またことに、銀行が預金に利子を支払うようになれば、すべての階級の貨幣貯蓄や一時的な遊休資本は銀行に預金されるようになる。それだけでは貨幣資本として働くことのできない小さな金額が大きな金額にまとめられて、一つの貨幣力を形成する。

 こうした銀行の小資金集積機能は、マルクスの時代にあっては「銀行制度の特殊な機能として、本来の貨幣資本家と借り手とのあいだでの銀行制度の媒介機能からは区別されなければならない。」とも付言されていたが、現代資本主義では貸付と並ぶ銀行の中核的機能として定着している。

最後に、少しずつしか消費できない収入も銀行に預金される。

 これも周知のとおり、現代資本主義では労働者階級も多くは銀行に預金口座を保有し、小額消費に充てる賃金収入等を預金しているところである。ここにおいて、銀行は全階級横断的な「貨幣資本の全般的な管理者」として経済支配力を持つに至る。

・・・・銀行業者が与える信用は、いろいろな形で与えられることができる。たとえば、他行あての手形、他行あての小切手、同種の信用開設、最後に、発券銀行の場合は、その銀行自身の銀行券によって与えられる。

 この記述は金本位制時代の兌換銀行券を前提としており、金本位制度が廃され、銀行券の発行権限を中央銀行に集中する体制が一般化した現代ではすでに失効している。むしろ、「実際には銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけであって、銀行で最大の重要性をもつものはつねに預金である。」という付言のほうが、より現代の銀行制度に適合的である。

種々の特殊な信用制度は、また銀行そのものの特殊な諸形態も、われわれの目的のためにはこれ以上詳しく考察する必要はない。

 マルクスの時代には、一般的な銀行以外の信用制度や特殊銀行は未発達であり、特段論及の必要はなかったであろうが、現代資本主義では労働者階級を顧客とする消費者信用も重要な信用制度として定着しているし、信託銀行や投資銀行のような特殊銀行も発達し、一般銀行とともに金融インフラを形成しているところである。

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晩期資本論(連載第62回)

2015-09-07 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(6)

 第一巻でマルクスは商品の持つ呪物的性格について、「商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、かれらの外に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということである。」と指摘して、商品フェティシズム論を展開していたが、第三巻で再びこの経済人類学的モチーフを援用し、金融資本を資本関係の最高度の呪物的形態と規定している。

利子生み資本では資本関係はその最も呪物的な形態に到達する。ここでは、G―G´、より多くの貨幣を生む貨幣、自分自身を増殖する価値が、両極を媒介する過程なしに、現われる。

 すなわち一般的な商業(商人)資本と対比すると、「商人資本(G―W―G´)の形態は、まだ一つの過程を、反対の両段階の統一を、商品の買いと売りという二つの反対の過程に分かれる運動を、表わしている。これは、G―G´すなわち利子生み資本の形態では消えてしまっている」。
 言い換えれば、「資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的な自己創造的な源泉として、現われている。(貨幣、商品、価値)が今では単なる物としてすでに資本なのであって、資本は単なる物として現われる。総再生産過程の結果が、一つの物におのずからそなわっている属性として現われるのである」。

利子生み資本では、この自動的な呪物、自分自身を増殖する価値、貨幣を生む貨幣が純粋につくり上げられているのであって、それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びていない。社会的関係が、一つの物の、貨幣の、それ自身にたいする関係として完成されているのである。

 より具体的には、「利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼり取る剰余価値の一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現われ、利潤は今では企業者利得という形態に転化して、再生産過程でつけ加わるただの付属品、付加物として現われる」。マルクスによれば、利子生み資本の呪物的性格の正体は、こうしたかの「利潤の質的分割」にある。

貨幣資本においてはじめて資本は商品となったのであって、この商品の自分自身を増殖するという性質は、そのつどの利子率で決定されている固定価格をもっている。

 このような資本=商品にあっては、「種々の使用価値としての種々の商品の相違が消え去っており、したがってまたこれらの商品やその生産条件から成っている種々の産業資本の相違も消え去っている」のに加え、「資本によって生みだされる剰余価値も、ここでは再び貨幣の形態にあって、資本そのものに属するものとして現われる」。
 第一巻の商品フェティシズムの論述において、「商品形態のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。」とも指摘されていたことが、ここで改めて想起されている。

☆小括☆
以上、十三では、利子生み資本について扱う『資本論』第三巻第五篇のうち、総論的な初めの四つの章、すなわち第二十一章乃至第二十四章を参照しながら、金融資本の構造的な特質について概観した。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(35)

2015-09-05 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(上)

コミュニスト:本対論もいよいよ終盤に達しましたが、最後にまとめの意味で、総論的な問題について対論してみたいと思います。

リベラリスト:そうですね。今日は中でもかなりメタ・レベルの問題になりますが、あなたの共産論に関する全体的な感想として、意識とか意志のような精神的な要素を重視する唯心論的な傾向を感じます。これは、唯物論のチャンピオンであったマルクス主義とはやや異なる一面のように思え、私も一定共感できなくはない部分なのです。

コミュニスト:いわゆるマルクス主義と直接に比較すれば、たしかに精神的な要素により着目はしています。ですが、唯心論かと言われると、答えはノーということになります。これは『共産論』よりも『世界歴史鳥瞰』序論のほうで「物心複合史観」としてまとめたことなのですが、私見は物質的な要素と精神的な要素の両方を複合的にとらえる総合的な視座に基づいております。

リベラリスト:言ってみれば、折衷説のようなものですが、二つの対立物を折衷する場合、どちらを基盤と考えるかという問題が生じます。あなたの場合は、物質的な要素と精神的な要素といずれを基盤と考えるのでしょうか。

コミュニスト:「折衷説」という理解のされ方は本意ではありません。物心複合論は物と心とを単純につなぎ合わせようというのではなく、そもそも人間存在自体、物質的なものと精神的なものが弁証法的な関係でもって複合された「物心複合体:material-spiritual complex」であるという人間観に基づいているのです。

リベラリスト:たしかに、人間は大半を水分が占める肉体という物質的な要素と脳というそれ自体も物質的な基礎を伴う精神という要素から成っていますから、まさしくおっしゃるような「物心複合体」ですが、人間の場合は、他の動物に比べても精神的要素の比重が高いと思われます。

コミュニスト:精神の発達度にかけて、人間は最も高度な生物であるという限りではそのとおりです。ただ、精神も物質的な基礎なくしては存立し得ない一方で、物質は精神によって作り変えることもできるという意味では、両者の関係は複合的であり、単純な上下/優劣関係にはありません。

リベラリスト:そうですか。しかし、あなたも言われるように歴史=文明の履歴と考えれば、歴史とはある意味で人間の精神史なのです。歴史を物質史に作り変えようとした―そうした改変もまた精神の作用ですが―マルクス主義の誤りは明らかと思われます。

コミュニスト:マルクス主義を自称した後世の論者はともかく、マルクス自身は歴史=物質史というような単純な史観に立っておらず、むしろ生産様式の歴史という経済史を開拓したのですが、時代ごとの生産様式は地球環境や地域の地理的条件といった物質的な条件と生産方法に関する人間の発明という精神的な要素の絡み合いによって決定されますから、経済史はまさに物心複合史観によって初めて正確に俯瞰できるのです。

リベラリスト:その点、あなたの予言によれば、これから始まるであろう人類後半史は富の追求を第一義とするような「所有の歴史」から、よりよく在ること(better-being)・充足が目的となるような「存在の歴史」に変わるであろうというのですが、この点には異論があります。

コミュニスト:つまり「所有の歴史」は今後とも変わらないであろうということですか。

リベラリスト:ええ。これはもはや哲学だけでは解けない問題で、人類学に引き寄せなければならないと思いますが、しばしば強欲と自己批判されるような富の蓄積を追求しようとする人間精神は今後も不変であり、その意味で人類史には前半史も後半史もないというのが私見になります。

コミュニスト:それは大変に悲観的ですが、そもそもリベラリズムという思想はそうした悲観論のうえに立って、経済的な自由―それは資本主義として到達点に達しました―を保持しつつ、それによって生じる不平等・貧困といった弊害は福祉政策で補填するほかはないというペシミズムにほかなりませんから、特に驚くには当たりませんが。

リベラリスト:それだけではなく、伝統的な共産主義者がしばしば軽視してきた言論の自由をはじめとする精神的な自由の擁護もリベラリズムの重要な柱であることは忘れないでください。

コミュニスト:リベラリズムが精神的自由をことさらに強調してみせるのは、一方で人間の強欲さを経済的自由の名の下に擁護しようとすることを隠すイチジクの葉ではないかと思うのですが。

リベラリスト:経済的自由を偏重するいわゆるネオ・リベラリズムと、精神的自由を擁護する本来のリベラリズムとは明確に区別してください。ともあれ、開き直った言い方をするなら、あなたが提唱するような貨幣経済を廃した共産主義が現実に成り立つかどうかは、果たして人類が本性とも言える強欲さを放棄できるかどうかという人類学的問いにかかってきますので、次回はこの問題を取り上げましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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