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近代革命の社会力学(連載第96回)

2020-04-21 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(2)共和主義者の結集
 1910年ポルトガル共和革命は、その名の通り、共和主義者の結集体である共和党によって実現されたという点で非常に明快であった。ポルトガルにおける共和主義運動の歴史は古く、19世紀前半まで遡るが、近代的な政治勢力として結集したのは、ポルトガル共和党が結党された1876年のことである。
 共和党とは別に、欧州第一次連続革命時の急進自由主義派カルボナリ党の後継を称するグループも1896年に組織され、1908年の国王・王太子同時暗殺事件では中心的な役割を果たすことになるが、この新カルボナリ党とも言うべき系統は共和革命後の政権中枢からは排除されていくことになる。
 一方、共和党は革命後の初代大統領となる文学者テオフィロ・ブラガや第二代大統領となる法律家マヌエル・デ・アリアガなどの知識人を中心とする政党であったが、当時の王国議会にも進出し、新興の進歩的勢力として台頭した。それに伴い、共和主義は議会外にも勢力を広げたが、議会外勢力はともすれば急進的に暴発しやすい。
 事実、1891年に第二の都市ポルトで急進派共和主義者が暴動を起こすと、政府による共和主義者弾圧が強まり、選挙区改悪などを合わせた硬軟両様策により、共和党は1901年に議席を失い、議会外政党に追いやられた。結果として、議会は王党派勢力が独占することとなった。
 しかし、王党派も保守派と改革派に分裂していたうえ、時のカルロス1世は放漫財政により財政破綻を来すなどの失政で信頼を失っていた。そうした中で、前回も見たように、1908年、国王と王太子に対する暗殺事件が発生した。
 このテロを実行したのは共和党ではなく、新カルボナリ党であったと見られているが、事件の背後関係などの詳細については未解明な点が多い。共和主義陣営にとっても暗殺の時点で革命の準備はできておらず、事件は突発的な出来事にすぎなった。
 一方、国王と王太子の同時暗殺という前代未聞の危機に際して、当時の王朝はより強硬な措置で威信を回復するだけの力をもはや持ち合わせていなかった。王太子の死亡に伴って、現場に居合わせながら辛くも難を逃れた18歳の次王子マヌエル2世が即位したが、若い王は政治的妥協を目指すのが精一杯であった。
 その結果、共和党が再び議会政党として呼び戻され、1908年と10年の議会選挙で着実に議席を伸ばした。しかし、すでに共和党内では武力革命を目指す急進派が台頭しており、軍部内にも浸透し始めていたところであった。こうした地殻変動が1910年の一年に凝縮され、革命的蜂起へと発展する。


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