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近代革命の社会力学(連載第165回)

2020-11-06 | 〆近代革命の社会力学

二十二 タイ立憲革命

(3)人民団の決起と新政府
 ラーマ7世時代の革新的な文武官によって結成された人民団が本格的な革命集団に急転したのは、7世が画策した財政再建のための政府リストラ計画が契機であった。7世は大恐慌後の財政赤字の急激な拡大に対処するため、官僚の給与据え置きに加え、官僚の削減などを計画していたのだった。
 他方、7世は遅ればせながら、欽定憲法を制定して、立憲国家の外観を整備したい意向であったが、守旧派重臣の反対があり、実現しなかった。そうした中、人民団の間では、当面、国王の恣意的なリストラ計画を阻止するため、立憲君主制の実現へ向けた革命の計画が練られた。
 そのための秘密会議が開かれた末、ラーマ7世が静養のため首都を離れた1932年6月24日の決起が決定された。人民団には多くの職業軍人が参加していたことからも、革命の方法として、軍事クーデターが手っ取り早かった。
 このクーデターは、人民団メンバーの佐官級中堅将校の指揮の下、陸軍部隊と海軍陸戦隊の共同作戦として実行され、首都を預かっていた摂政親王を拘束した。そのうえで、立憲君主制への移行を主旨とする革命的な人民団宣言が発表された。これは静養中の国王にも伝達され、不意を突かれた国王も、この革命政変を追認せざるを得なかった。
 このようにして、電撃的な立憲革命はほぼ無血のうちに成功した。ラーマ7世は廃位されることなく、周辺領域を植民地化していた列強も革命を基本的にタイの内政問題と認識し、介入しなかったため、革命後の新政府樹立はスムーズに行われた。
 移行期体制である人民委員会の下で新憲法を公布したうえ、1932年末にはプラヤー・マノーパコーンニティターダーを首班とする革命後最初の内閣が成立した。マノーパコーンは人民団のメンバーではなかったが、最高裁判事を経験した法律家であり、革命後の新政府で中立的な舵取り役を期待されての登用であった。
 マノーパコーンは革命成功により役割を果たしたはずの人民団の解散を命じるも、これに反発した急進派が分派を結成するなど、新政府には早くも権力闘争の芽が生じていた。
 それに加え、理念的な面では、閣外にあった人民団創設者のプリーディー・パノムヨンがなお指導者であり、彼が翌1933年3月に発表した綱領文書・経済計画大綱が波紋を呼ぶ。
 同大綱は、土地の国有化や労働者の総公務員化などの施策を軸とする社会主義的な志向性を持った野心的な綱領文書であった。この時代、アジアのフランス留学生が留学中、程度の差はあれ、社会主義や共産主義に傾倒することはしばしば見られたことであったが、プリーディーもその一人であった。
 彼は社会主義革命を志向するほど急進的ではなかったが、政府の経済政策の枠内で社会主義化を進める考えであった。しかし、プリーディ大綱が実現されれば経済権益を奪われかねない華僑層の反発を呼び―プリーディー自身やマノーパコーン首相を含め、新体制にも華僑出自が多かった―、社会主義を忌避するラーマ7世からも非難された。
 そうした情勢を受け、マノーパコーン首相は憲法を一部改正して内閣に立法権能を持たせたうえ、反共法を制定し、プリーディーを共産主義者とみなして、フランスへ追放した。首相としては、この強硬策によって旧人民団の勢力を削ぎ、政権を安定させるつもりであったが、それは大きな計算違いであった。


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