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近代革命の社会力学(連載第349回)

2021-12-18 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(5)共和革命の成功
 1978年のムハッラム抗議デモの後、明けて1979年に入ると、情勢は一挙に革命化していく。その最大の契機となったのは、帝政を支える物理装置である軍の士気の低下であった。当時のイラン警察は暴動対処の訓練を受けておらず、抗議行動の鎮圧は軍にかかっていたから、その士気の低下は致命的であった。
 もう一つの要因として、最大の支援国・同盟国であったアメリカのカーター民主党政権が帝政を支えることに消極的となっていたことも、革命を後押しした。その点では、1950年代にクーデターを誘導して当時のモサデク民族戦線政権を打倒し、帝政を助けた共和党政権とは異なり、人権外交を掲げるカーター政権は人権抑圧で悪名高いパフラヴィ―朝の延命支援には消極的であった。
 こうした内外の体制維持の鍵を失ったモハンマド・レザー皇帝は権力維持を断念し、軍事政権に代えて野党・民族戦線系のシャープール・バフティアールを首相に任命したうえで、国外へ脱出した。形式上皇帝から任命されたとはいえ、事実上は帝政を離れた権力移行政権となったバフティアール政権は民主化と自由化を掲げ、ホメイニーの帰国を許可した。
 こうして実現した1979年2月のホメイニーの帰国は、熱烈な歓迎を受けた。バフティアールとしては、ホメイニーを取り込んで民主体制を樹立する狙いであったが、ホメイニーはすでに1月中に支持者で構成されたイスラーム革命評議会(以下、革命評議会)を組織し、水面下で革命政権の樹立準備を開始していた。
 そのため、ホメイニーは帰国後直ちに、臨時政府の樹立を宣言し、革命評議会のメンバーでもあったリベラルなイスラーム主義者メフディー・バーザルガーンを首相に任命した。これは、公式政府に対抗する並行政府の樹立に他ならなかった。
 この動きに反発し、退陣を拒否するバフティアール公式政府との間で武力衝突が生じた。臨時政府支持者は政府の武器庫を襲撃し、市民に武器を配布するなど、あたかもフランス革命当時のような騒乱状況に発展する兆しが見える中、軍部が不介入方針を示したことが駄目押しとなり、2月11日に、バフティアール政権は総辞職した。
 これによって、革命評議会・臨時政府が名実ともに新政権として立つこととなった。1978年から約一年に及ぶ共和革命のプロセスがひとまず一段落したわけであるが、ここまでのプロセスは政党・政治団体その他の組織された革命集団によらない革命運動によって遂行されており、相当純度の高い民衆革命であった点において、新しい革命の形を示したと言える。
 中でも、女性の果たした役割には看過できないものがあった。イスラーム社会における女性に対するステレオタイプの見方に反して、イラン革命には多くの女性が様々な形で参加しており、ホメイニーも女性の参加を奨励していた。特に、子連れ女性のデモ参加は兵士に発砲を躊躇させ、士気をくじく物理的な要因の一つとなったと言われる。
 このような純度の高い民衆革命が完全なアナーキーの内乱状態に陥らなかったのは、海外亡命中のホメイニーがその宗教的な権威をもって外から革命運動を指導的に鼓舞し、時宜を得た声明を通じてかなりの程度運動をコントロールさえしていたことが大きかった。その意味では、ホメイニーの革命でもあった。
 ちなみに、革命成就の時点で、ホメイニーはすでに80歳近くに達していた。通常は、青壮年層の人物が指導的な役割を果たすことが多い革命にあって、80歳に近い老人が革命の精神的な支柱とともに、革命後の最高指導者となる例は稀であり、この点でも、イラン革命には他の革命には見られない特徴があった。


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