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近代革命の社会力学(連載第144回)

2020-09-09 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(2)独立革命:アスター革命
 ハンガリー革命の第一段階を成す独立革命は、オーストリア‐ハンガリー帝国の解体過程の決定的な一幕を成す事象であった。ほぼ同時に、帝国支配下にあったチェコスロヴァキアも独立宣言をしているが、ハンガリーは同君連合の主要な相方でもあったから、ハンガリーの離脱は帝国の崩壊を決定づけたのだった。
 この独立革命は、1918年10月25日に結成された国民評議会(以下、単に評議会という)をベースとして実行された。評議会は、ハンガリー社会民主党に、リベラルな貴族カーロイ・ミハーイ伯爵のグループ、さらにブルジョワ急進派の三党派の連合として成立した。
 評議会は、当面の要求事項として、即時終戦と帝国からの独立に加え、少数派の権利、農地改革、言論・集会の自由、普通選挙制度など12項目を提示したが、これはおおむねブルジョワ民主主義のマニフェストと言ってよかった。
 評議会はたちまちハンガリー市民の支持を受け、抗議デモに進展した。10月31日、復員したハンガリー軍の兵士の参加も得たデモ隊が首都ブダペストの主要庁舎を占拠したことで、革命は頂点に達した。
 ハンガリー王を兼ねる皇帝カール1世は、カーロイ伯爵を首相に任命し、鎮静化を図った。そして、11月13日には、カールがオーストリアに続き、ハンガリー統治からも手を引くことを声明したのを受け、16日にハンガリー人民共和国(第一共和国)が成立、カーロイが臨時大統領に就任した。
 この独立革命の渦中では、保守派のイシュトヴァーン元首相が暗殺されており、文字通りの無血革命とはいかなかったが、ほぼ無血のうちに成功した。デモ隊が帽子にさし、革命のシンボルとなったアスターの花にちなみ、「アスター革命」と美称されることにも、そうした含意がある。
 こうして成立したハンガリー第一共和国であるが、直ちに難題に直面した。特に、アメリカのウィルソン大統領の要求に応じて、二重帝国時代の王立ハンガリー軍を武装解除し、完全な丸腰状態となっていたため、トランシルヴァニア地方の併合を狙う隣国ルーマニアの侵攻や、同時期に独立したばかりのチェコスロヴァキアによる北部占領に対抗できず、革命前の領域の75パーセントを喪失するありさまであった。
 このような亡国危機の状況は、当然にも経済の崩壊を招いた。とりわけ、北部を新生チェコスロヴァキアによって切り取られたことで、ドイツからの石炭輸入が停止し、冬の燃料の欠乏を来したほか、道路網の寸断は産業の機能停止を結果した。
 貴族出自のカーロイは平和主義者であったが、内外政策ともに実務的な手腕に欠けており、転換期のハンガリーを率いるには力不足であった。他方で、退位を明言しないままスイスに出国したカール1世は、ハンガリー国王としての復帰を狙っており、第一共和国の行方は極度に流動的であった。


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