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近代革命の社会力学(連載第288回)

2021-09-02 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(3)紅衛兵運動と革命委員会
 文革が単なる権力闘争を超えた「革命」としての性質を帯びたのは、下からの革命的隆起という力学が見られたからである。それを象徴するのが、1966年5月、名門の精華大学附属中学に在学する高校生に相当する年代の生徒らが創始した紅衛兵運動である。
 紅衛兵運動は毛沢東思想を教条的に信奉する青年運動としてたちまち全国に拡散したが、単なるデモ行動のようなものではなく、紅五類と称される労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士の子女のみが紅衛兵となる資格を持つ排他的な運動として組織化された。
 かれらは、紅五類の反対属性である黒五類に分類された地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子及びその子女らを反革命派として敵視し、攻撃する運動を展開した。66年8月には毛が「造反有理」の言葉で紅衛兵を支持する書簡を発したうえ、党の「プロレタリア文化大革命に関する決定」でも事実上紅衛兵運動が公認されたことで運動は弾みを得て、過激さを増した。
 その活動は短期間で暴力的なものとなり、反革命派への暴行・陵虐や反革命的とみなされた施設の破壊などの人的・物的なテロ活動にさえ及ぶようになった。その象徴として、66年8月から9月にかけて北京市の教員ら2000人近くが紅衛兵に殺害された「赤い八月」事件がある。
 文革はこうした党外部の紅衛兵運動だけではなく、内部的にも党組織の変革運動を刺激した。その象徴として、1967年以降、従前の党組織を解体する革命委員会の制度が現れた。
 その発端となったのが、同年1月から2月にかけて、文革「四人組」の一人である王洪文と張春橋が中心となって、上海の市政府と党委員会を打倒して設置した上海人民公社である。
 この「上海革命」は当時紡績工場の労働者造反組織を率いていた工場労働者の王洪文が決起して、従来の党組織の解体を求めたことに端を発しており、文革の過程の中でも下からの革命のハイライトとなる事象であった。
 上海人民公社は、「大躍進」の時に政策的に導入された従来の制度的な人民公社とも異なり、実権派が握る党官僚組織を解体したうえ、パリ・コミューンに範を取ったとされる新しい民主的な地方組織として構想されたもので、基本的に労働者人民と人民解放軍、党の代表三者による市政府と党委員会を統合した協同的な権力体であるとされた。
 毛の文革指導部もこうした新しい地方統治モデルを承認したため、上海人民公社が上海革命委員会と改称した後、68年9月までに同種の構造を持つ革命委員会の設置が全国に広がった。
 しかし、多くの革命委員会では解放軍代表が実権を握るようになり、実態は軍政に近いものとなった。このように解放軍が前面に出てきたのは、おそらく当時、軍人で国防部長(国防相)の林彪が毛の最側近として文革の参謀役を務めていたことと無関係ではなかったろう。
 革命委員会を通じて正規軍である人民解放軍の力が増強されたことになるが、一方で、革命委員会には党代表も参加したことで、結局のところ、革命委員会は当初の理想から外れ、従前の党組織の再編に近いものへと変節していく運命を免れなかったのであった。


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