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近代革命の社会力学(連載第291回)

2021-09-07 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(2)東西パキスタンの離隔と格差
 前回も触れたとおり、パキスタンはその独立に際して、東西に領土が分断されるという変則的な東西飛び地国家として成立したのであるが、東パキスタンは当時のパキスタン(以下、「旧パキスタン」という)の全人口の過半数を占めており、人口構成上は多数派でありながら、政治経済的な中心は圧倒的に西パキスタンにあった。
 このような非対称性はとりわけ経済的な差別として現れ、政府の投資は旧パキスタンの全存続期間を通じて、西パキスタンに偏向していた。旧パキスタン経済において基軸となっていたジュートと紅茶の輸出収益は東パキスタンで生み出されていたにもかかわらず、その恩恵を東パキスタンは公平に享受できない状態であった。
 1960年代になると、西パキスタンにおける農業の革新(いわゆる緑の革命)と独自の絨毯産業の成長により、西パキスタンの自律性が高まると東西格差は経済成長率にも発現し、東パキスタンは取り残され、生活水準も低いものにとどまった。
 こうした東西の経済格差は、地理的な離隔ともあいまって、東西パキスタンの事実上の分断状況を強めていく。経済構造面では1960年代において、すでに旧パキスタンは東西に分離していたとも言え、実際、東パキスタン側からは、外国為替の東西分別管理や海外貿易代表事務所の東西分割といった経済的分離主義の主張が出されていた。
 こうした下部構造面での東西分離が進む一方で、上部構造面でも、如上のとおり、旧パキスタンの人口構成上は多数派の東パキスタンのベンガル人が官界や軍部で占める割合は低く、共に10パーセント台にとどまっていた。
 実際のところ、こうした東パキスタンへの差別は、1958年に軍事クーデターで政権に就いたムハンマド・アユーブ・ハーン大統領の時代に強まった。69年まで続いたアユーブ・ハーンの時代は西パキスタンにとっては「進歩の10年」と呼ばれる経済成長期であったが、東パキスタンにとっては閉塞の10年となった。
 そうした中、東パキスタンでは民族主義的な地域政党である人民連盟が台頭し、1966年には同連盟の創設者であるシェイク・ムジブル・ラーマンが中心となって、外交と防衛に限局された連邦の創設、通貨や外国為替会計の分離、徴税権の分割、東パキスタン独自の軍の保有などを柱とする六項目の要求を掲げた。 
 この「六項目運動」の狙いは、経済的な分離にとどまらず、政治的な面でも東パキスタンに完全な自治権を与えることにあったが、結果的に東の独立につながりかねないこの提案は当然にもアユーブ・ハーン政権からは拒絶され、実現されることはなかった。
 それどころか、アユーブ・ハーン政権は、ムジブル・ラーマンら人民連盟幹部らがインドと共謀して武力革命を企てた容疑で起訴するという弾圧策に出たのであった。1968年に提起されたこの案件は政権にとっては藪蛇となり、翌年、学生運動に始まる東パキスタンでの激しい抗議デモを惹起した。
 この民衆蜂起の渦中、政権はムジブル・ラーマンらへの起訴を取り下げることで慰撫を図ったが、鎮静化させることはできず、アユーブ・カーンは辞職に追い込まれた。この1969年民衆蜂起は大統領の辞職を結果した点で半革命的な意義を持つ出来事であり、これを契機に東西の融和に向けた新たな局面が生じることになる。


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