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近代革命の社会力学(連載第152回)

2020-10-05 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(1)概観
 第一次世界大戦を契機とする革命的体制変動は、オスマン・トルコ(以下、オスマン帝国という)にも及んだ。そもそも大戦の発端となったオーストリア帝国支配下のスラブ人のナショナリズムは、歴史的に東欧バルカン半島にも領土を広げてきたオスマン帝国にとっても、対岸の火事ではなかった。
 実際、バルカン半島では、大戦に先立つ1912年、バルカン同盟を組んだギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビアとオスマン帝国の間で戦争(第一次バルカン戦争)が勃発した。結果として、オスマン帝国は、バルカン領土の大半を喪失することとなった。
 時のオスマン帝国は、20世紀初頭の青年トルコ人革命を経て、立憲帝政へと転換されていたが、革命政権は永年の多民族共存政策を転換し、トルコ民族主義に傾いていたから、バルカン戦争の結果は受け入れ難いものであった。
 そのため、帝国政府はかねてより関係が強まっていたドイツ帝国と結び、大戦ではドイツ、オーストリアの同盟国陣営で参戦することになった。その結果、敗戦を招いたのであったが、オスマン帝国はアナトリア半島の本拠領土の大半を連合国側に分割占領された。
 このような亡国危機状況を打開する目的から、中堅将校の一団が決起したことに端を発するのが、トルコ革命であった。この革命は当初、如上の連合国による占領からの解放を求める解放戦争に始まり、その勢いで、威信を失った帝国の打倒・共和制の樹立へと進展したものである。
 その点では、ある種の独立革命と共和革命とが共時的に発生したものと言えるが、全体としては共和革命としての性格が強い。その意味では、トルコ革命も、先行したロシア、ドイツ、オーストリアの各帝国における革命の波の一環とも言える。
 しかし、トルコ革命は、ロシア革命のように社会主義革命に進展することはなかった。革命当初、ソ連とは友好関係にあり、計画経済など技術的・政策的な影響は受けたものの、ソ連型社会主義体制に移行することは回避された。
 また、解放戦争に端を発したこともあり、革命指導者で初代大統領となったムスタファ・ケマルをはじめ、職業軍人主体の軍事革命の性格が濃厚であり、文民知識人や民衆の主体的な参加は見られなかった。
 とはいえ、トルコ革命は、同時期、すでに形骸していたオスマン帝国版図エジプトに発生した独立‐立憲革命に比べれば、より大規模な社会変革を伴う革命であり、600年以上も続いたイスラーム帝国体制を解体し、イスラーム文化を排除する反イスラーム・近代化革命としての意味を持った。
 その点では、およそ80年後、隣国イランに発生した共和革命が、全く逆に、上からの近代化を強行していた君主制を廃し、イスラーム法学者主体のイスラーム共和制の樹立を導いたのとは、対照的である。
 トルコ革命によって打ち立てられた政教分離による世俗主義は、トルコを中東・西アジアのイスラーム圏では例外的な世俗的近代国家として再編することに成功したものの、如上の軍事革命としての性格から、軍部の政治関与も制度化され、民主主義の進展に関しては、大きな制約となったことも否めない。


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