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近代革命の社会力学(連載第256回)

2021-07-02 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(2)ルワンダ革命/ブルンディ革命

〈2‐1〉ベルギー領ルアンダ‐ウルンディ
 東アフリカ内陸で隣接するルワンダとブルンディの両共和国は、ともに独立した1962年まではベルギー領ルアンダ‐ウルンディ(ルワンダ‐ブルンディの転訛)として一体化された実質的なベルギー植民地であった。
 ベルギーは欧州では新興の中小国ながら、帝国主義国家としてはアフリカ侵出の先鞭をつけ、アフリカ中部に広大なコンゴ植民地を築いていたが、第一次世界大戦に際してはドイツを攻め、旧ドイツ領東アフリカに含まれていた地域を占領し、初めは委任統治領として、第二次大戦後は国連信託統治領として支配したのがルアンダ‐ウルンディである。
 そうした経緯から、ルアンダ‐ウルンディはベルギー領コンゴに隣接する小さな地域でありながら、ベルギーにとっては東アフリカへの出口として戦略的重要性を持ち、かなり密度の高い植民地支配を施行したのである。
 元来、ルワンダとブルンディには、それぞれムワミの称号を持つ君主を推戴する古王国が存在しており、宗主国の旧ドイツもベルギーも、これを廃することなく、利用していた。その際、両王家は牧畜民トゥツィ族であったことから、宗主国側はトゥツィ族を優遇する策を採った。
 それに対して、両王国の一般民衆は農耕民フトゥ族が多数を占めていたが、植民統治下では劣遇されていた。元来、トゥツィとフトゥの相違は、牧畜か農耕かという歴史的な生活様式の差にすぎなかったが、アフリカ大陸では一般的に牛を家産とする牧畜民が相対的に豊かであり、支配階級に座ることが多かった。
 ルワンダとブルンディの両王国でも、牧畜民のトゥツィが王権を担う構造が定着していた所以であるが、ベルギー当局は植民地支配の円滑を図るため、トゥツィとフトゥの民族差を絶対化し、両民族を厳格に区別する身分証明制度さえ導入し、分断する仕組みを導入したのである。
 この分断支配は成功を収めたが、大きな代償を伴った。トゥツィとフトゥの相違は、社会経済的な階級差を越えて人種的な差異として認識されるようになり、トゥツィはフトゥとは異なる人種に属する優越民族であるとする科学的根拠を欠いた民族学説まで流布するようになり、両民族間の分断は感情的なレベルに達したからである。
 このようにアフリカでも特異な黒人間の人種差別政策がルアンダ‐ウルンディに定着する中、第二次大戦後にはこの地域でも独立運動の機運が高まるが、その原動力となったのは、劣遇されてきたフトゥ族の運動であった。
 こうしたフトゥ族の権利回復運動は「フトゥ・パワー」と呼ばれ、とりわけルワンダ地域で強力となったため、ベルギー当局としても、1950年代頃より、フトゥ族の地位向上に取り組まざるを得なくなった。
 こうして、独立直前のルワンダとブルンディでは、程度の差はあれ、フトゥ族による体制変革運動が勃興し、両民族間の緊張関係が高まる不穏な地殻変動が始まっており、このことが独立に前後しての共和革命にも複雑に作用していくことになる。


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