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近代革命の社会力学(連載第419回)

2022-04-29 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(2)立憲専制君主制と抵抗運動の閉塞
 前回触れたように、1960年から1990年まで続いたネパールの専制君主制は、1951年立憲革命に対する国王主導による反革命反動として構築されたものであった。シャハ王家としては、ラナ宰相家から革命後に取り戻した権力を今度は民主派に奪われることを恐れてのことである。
 新たな専制君主制は、形式的には憲法に基づく立憲体制ではあったが、国王に権限を集中する専制主義によって立憲主義が大きく制約される構造になっていた。それを象徴するのが、1962年に憲法上導入されたパンチャーヤト制である。
 パンチャーヤトとは村落の五人の長老で構成される会議体を意味し、インドを含む南アジア伝統の慣習的制度であるが、ネパール専制君主制下では、西欧式議会制に代わる独自の会議制度の名称に流用された。
 それは政党活動の禁止を前提に、末端の行政単位(市町村相当)レベルのパンチャーヤト議員のみ直接選挙で選出するが、中間行政単位のパンチャーヤト議員は末端行政単位パンチャーヤトが選出し、国のパンチャーヤト議員は中間行政単位のパンチャーヤトによる選出及び国王による勅任とする複選制の会議体制度であった。
 他方、議院内閣制は採用されず、国王は首相や他の閣僚、さらに地方知事を任免する大権を保持したため、中央・地方の行政をパンチャーヤトが統制することはできず、国王が一手に掌握した。全体として、パンチャーヤトは国王主導の国家運営の輔弼的な役割しか果たさないように仕組まれており、民主主義を著しく制約する制度であったことは間違いない。
 これに対し、1951年立憲革命の中心勢力でもあったネパール会議派は非暴力抵抗運動を展開するが、政党活動を禁止された中では、十分な力量を発揮することはできなかった。1979年には反体制的な学生運動が隆起したをことを契機に、翌年、パンチャーヤト制度の存廃をめぐる国民投票が実施されたが、僅差で存続賛成の結果となり、廃止はなされなかった。
 総じて、1980年代までの抵抗運動は、禁圧下で地下活動ないし在外活動を強いられてきた政党や学生・知識人主導であり、民衆的な広がりに欠けたために低調であり、何らかの外部環境の変化によらなければ、展望が開けない閉塞状況にあったと言える。


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