ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後ファシズム史(連載第8回)

2015-11-27 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

7:ブラジルの場合
 戦前ファシズムは圧倒的に欧州を本場としており、非欧州地域には―その多くが欧州列強の植民地だったこともあり―、広がっていなかったが、独立国としての歴史があり、欧州系移民も多い中南米諸国には、ファシズムの潮流が及んでいた。中でも、かなり明瞭な形でファシズムが現われたのが、南米ブラジルである。
 ブラジルのファシズムは、地主階級中心の寡頭政治―第一共和政―が限界をさらけ出していた時期に、ジェトゥリオ・ヴァルガスによってもたらされた。法律家出身のヴァルガスは専門知識人に出自した点では、旧宗主国ポルトガルのファシズム指導者サラザールとも共通の要素があり、彼が樹立したファッショ体制もサラザールのそれと同様に「新国家体制」と呼ばれた。
 ただ、両者には相違点もある。ヴァルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れた直後、支持者や一部軍人の支援を受けてクーデターに成功し、臨時軍事政権から権力を委譲される形で大統領に就任した。この暫定政権の時期にはまだファシズムの傾向は希薄だったが、32年の立憲派による反政府蜂起を武力鎮圧すると、ヴァルガスは34年にイタリア・ファシズムの影響を受けた新憲法を制定したうえ、37年には予定されていた大統領選挙を強権発動により中止させ、独裁体制を強化した。
 ヴァルガスのファシズムは、国粋主義と反共主義の一方で、労働者の権利保護も重視する一部左派色を帯びたもので、「貧者の父」という異名すら取る両義的な側面があった。この点では、次の第二部で取り上げるアルゼンチンのペロン政権との類似性が認められる。
 ただし、ヴァルガスは政党を結成することはなく、思想的には近かったファシスト政党を禁圧すらしているため、彼の体制は擬似ファシズムとみる余地もあるが、ヴァルガス自身は党派政治家の出身であり、ポピュリストとして大衆動員的な政治手法を追求した点からすると、ファシスト党を介さない不真正ファシズムの特徴を持つと言える。
 第二次大戦中のヴァルガス政権は、当初ナチスドイツとの協調姿勢を示したが、大戦後半期になると、ブラジルに善隣政策で接近してきたアメリカと協調するようになり、事実上連合国側に寝返った。
 こうしてポルトガルのサラザール政権同様、連合国側に受け入れられたヴァルガス体制は戦後も延命されるはずであったが、そうはならなかった。大戦終結直後の45年10月、軍事クーデターによりヴァルガスは辞任を強いられ、ブラジル・ファシズムは終焉した。
 このようなあっけない幕切れとなった直接の理由として、ヴァルガスが軍部を掌握し切れていなかったことがあろう。その点、ポルトガルのサラザールの場合、自身は首相にとどまりつつ、軍の有力者を名目的な大統領にすえて軍部を懐柔していたが、ブラジルには首相制度がなく、ヴァルガス自身が任期を越えて大統領に居座っていたのだった。
 またヴァルガスの国家主導による経済成長政策の果実を得た中産階級の間から、民主化を求める声が高まり、ヴァルガス自身も政権末期には一定の民主化を進めていたことも、自らの体制の命脈を縮める結果となった。
 こうして46年以降、ブラジルは第二共和制下で民主化のプロセスを開始するが、その過程で、ヴァルガスは中道左派の労働党候補として出馬した51年の大統領選挙に勝利し、今度は民主的な手段で返り咲きを果たした。戦前ファシズムの指導者が戦後に民選大統領として復帰するのは極めて例外的である。
 ブラジル有権者はヴァルガス自身にヴァルガス体制の清算を委ねたとも言える結果だったが、そのような芸当はやはり困難だったと見え、54年に起きたヴァルガスの政敵に対する暗殺未遂事件を契機に軍部から辞任要求を突きつけられ、再びクーデターの危機が迫る中、ヴァルガスは拳銃自殺を遂げる。
 こうして、またしてもヴァルガス政権は不正常な形で突如幕切れしたのだが、ヴァルガスの影響は死後も続いた。以後は、ヴァルガスの「新国家体制」の両義性を反映して、中道保守の社会民主党と中道左派の労働党が第二共和制下のヴァルガス派有力政党として立ち現われるのである。

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戦後ファシズム史(連載第7回)

2015-11-26 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

6:ポルトガルの場合
 ポルトガルの戦前ファシズムは、経済学者出身という異色の経歴を持つアントニオ・サラザールによって打ち立てられたカトリックを精神的基盤とする「新国家体制」として、1933年以降、制度化されたが、第二次世界大戦ではスペインとともに、しかしスペイン以上に明確な中立を保ったことで、戦後も生き延びることに成功した。
 サラザールは他の戦前ファシズムの指導者のように「総統」のような超越的指導者とはならず、1968年に転落による頭部外傷が原因で退任するまで、一貫して首相にとどまるという形で議会制の体裁のまま独裁支配を続けたことが特徴である。
 とはいえ、全議席が与党的政治団体「国民同盟」によって独占される体制であったので、議会制は完全に形骸化していたのではあるが、議会制の形を残してのファシズムという点に着目すれば、ポルトガルのファシズムは現代的な「議会制ファシズム」の不完全な先駆けという見方もできなくない。
 そうした外見の穏健さに加え、サラザール政権は大戦末期に戦況を見越して価値観を異にする連合国側に基地提供するなど、連合国寄りの立場を示したことが好感され、戦後はマーシャルプランの受益やNATO加盟も認められるなど、孤立していた隣国スペインのファシズム体制とは異なる厚遇を受けた。
 こうして、ポルトガルの戦前ファシズムは戦後に国際的体制保証を得たため、敗戦国となったドイツ、イタリア、あるいは日本の戦時擬似ファシズムのように強制的に解体されることはもちろん、スペインのファシズムような「暫定性」の内在的論理によって自主的に解消される可能性もなかった。
 そうした磐石の体制下で、サラザール政権は、国内的には共産党をはじめとする左派勢力を秘密警察により抑圧するとともに、対外的にはアフリカ大陸を中心とする植民地の維持に固執し、戦後の民族自決の波に抗して独立運動を軍事的に鎮圧する植民地戦争を展開した。
 68年のサラザール退任、70年の死去後も後継者によって延命されたポルトガルの戦前ファシズムの清算は、内部からの決起を待つしかなかった。それは軍部青年将校によって行なわれた。軍部内では植民地戦争に動員される将校の間で体制に対する疑問が広がり、左傾化した青年将校のグループが形成されていた。
 このグループ「国軍運動」が中心となって決起した1974年の革命―カーネーション革命―で、ようやくポルトガルの戦前ファシズムは、その植民地もろとも解体されることとなった。
 革命直後には急進的な軍事政権が成立したが、75年にその行き過ぎを是正する穏健派のクーデターが成功し、76年の大統領選挙で前年クーデターを主導したアントニオ・エアネスが当選、以後、80年の再選を経て86年まで大統領の座にあったエアネスの下で民主化プロセスが進められた。
 こうして、ポルトガルでもスペイン同様、76年以降、しかしスペインとは異なるプロセスでファシズムの解体が行われた。現在、ポルトガルには西欧諸国の標準モデルの多党制に基づく議会制民主主義が定着している。
 旧ファシズムの流れを汲む政党は現時点で確認されないが、2000年に結党された新党として、ナショナリズムを標榜する国民維新党が存在する。同党は現時点で中央・地方とも議席を持たないが、02年以降、国政選挙に参加し、回を追うごとにじわじわと得票数を増やしており、今後が注視される。
 2010年代初頭のポルトガルは財政破綻に直面したが、サラザールも1920年代末、当時の軍事政権から財政再建のため財務大臣に抜擢され、緊縮政策で成果を上げたことが自らの権力掌握へのステップとなった歴史が想起される。
 しかし、11年以降、緊縮政策を主導したのは、カーネーション革命によって誕生した中道保守系政党「社会民主党」―名称にもかかわらず、社民主義ではない―であった。緊縮政策の是非はともあれ、ポルトガルで財政危機を契機にファシズムが出現する可能性はもはや乏しいと見てよいだろう。

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晩期資本論(連載第77回)

2015-11-24 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(4)

 マルクスは、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」を生じさせる要因について、詳細に考察しているが、ここでは行論上それらは割愛するとして、幻惑的な「外観」を剥ぎ取って正しく規定し直された命題は―

・・・・商品の価値は、新たにつけ加えられた労働を表わしているかぎりでは、つねに、三つの収入形態をなしている三つの部分に、つまり労賃、利潤、地代に分解するのであって、この三つのもののそれぞれの価値の大きさ、すなわちそれらが総価値に占めるそれぞれの可除部分は、・・・・・・別々の特有な法則によって規定される・・・。

 さらにこの命題を階級関係の形成にもつながる分配関係の観点から言い換えれば、次のようになる。

・・・・・年々新たにつけ加えられる労働によって新たにつけ加えられる価値は、・・・・・・・・三つの違った収入形態をとる三つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者に属するもの、一部分を資本の所有者に属するもの、そして第三の一部分を土地所有権の保持者に属するものとして、または彼らのそれぞれの手に落ちるものとして、表わしているのである。つまり、これらは分配の諸関係または諸形態である。なぜならば、それらは、新たに生産された総価値がいろいろな生産要因の所有者たちのあいだに分配される諸関係を表わしているからである。

 ここで分配というとき、「年間生産物が労賃、利潤、地代として分配されるという、いわゆる事実」、つまり「生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利」としての分配関係と、「生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎」となる分配関係とが区別される。後者の意味での「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」とされる。このような社会的機能の基礎を成す分配関係から、資本家、労働者、土地所有者の三大階級もまた派生してくる。そうした資本主義的分配関係をさらに仔細にみると―

労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する。つまり、これらの特定の分配関係は、生産条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特定の社会的関係とを前提するのである。

 より具体化すれば、「ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみ―つまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自の社会的な姿をとっていることの結果としてのみ―、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われる。しかも、ただ剰余価値がこのように彼の利潤として現われることによってのみ、再生産の拡張に向けられ利潤の一部をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われる」。この理こそ、まさに『資本論』全巻に通ずる主要命題であった。

利潤は、・・・・生産物の分配の主要因としてではなく、生産物の生産そのものの主要因として、資本および労働そのもののいろいろな生産部面への配分の部分として、現われる。利潤の企業者利得と利子への分裂は、同じ収入の分配として現われる。

 「個々の資本家には、自分が本来は全利潤を収入として食ってしまえるかのように思われる」利潤は、保険・予備財源や競争法則などの制限を受けるほか、資本主義的生産過程全体も生産物価格に規制され、その規制的生産価格もまた利潤率の平均化やそれに対応する資本配分により規制されるというように、「利潤はけっして個人的に消費できる生産物の単なる分配範疇ではない」。
 また利潤の企業者利得と利子への分裂という形での分配にしても、自己増殖する剰余価値を生み出す資本という資本主義的生産過程の社会的な姿からの発展であり、「それは、それ自身のうちから信用や信用機関を、したがってまた生産の姿を発展させる。利子などとして、いわゆる分配形態が規定的な生産契機として価格にはいるのである」。

地代について言えば、それは単なる分配関係であるように見えるかもしれない。・・・・・・しかし、(1)地代が平均利潤を越える超過分に制限されるという事情、(2)土地所有者が生産過程と社会的生活過程全体の指揮者および支配者から、単なる土地賃貸人、土地の高利貸、単なる地代収得者に引きずり下ろされるという事情は、資本主義的生産様式独自の歴史的な結果である。

 地代は資本主義的生産様式以前から存在するが、資本主義的地代はそうした旧来の古典的な地代とは本質を異にし、資本主義的な生産関係から派生する非生産的な、ある種の寄生的土地所有関係の産物である。

・・・・・資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであり、その分配形態も、自分からそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。

 先に「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」と言われていたとおり、生産関係と分配関係が表裏一体であれば、両者の命運も一蓮托生である。

ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したことがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立が、広さと深さを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。

 ここで示唆されているのは、資本主義的生産様式が発展し切って、生産諸力との間に自己矛盾を来たした暁のことである。こうして第一巻末で、発達した資本主義から新たな生産様式が内爆的に生起することがやや図式的に示されていたことに再び立ち帰ることになるが、これについては稿を改めて検討する。

☆小括☆
以上、十六では全巻の補論の意義を持つ第三巻第七篇「諸収入とそれらの源泉」に即して、資本主義社会における典型的な三大階級の形成という観点から、整理を試みた。

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晩期資本論(連載第76回)

2015-11-23 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(3)

 『資本論』第二巻では、資本を生産手段の生産に係る部門Ⅰと消費手段の生産に係る部門Ⅱとに分けて分析する再生産表式が展開されていたが、マルクスは最終篇で再度この問題に立ち帰っている。
 なぜなら、「われわれがここでこの問題に立ち帰るのは、第一には、前のところ(第二巻)では剰余価値がまだ利潤(企業者利得プラス利子)と地代というその収入形態では展開されていなかったからであり、したがってまたそれをこれらの形態で取り扱うことはできなかったからである」。以下は、収入形態での展開を付加した修正版表式を説明した部分の長文引用である。

部門Ⅱの生産物には労賃や利潤や地代が支出され、要するに収入が消費されるのであるが、この部門Ⅱでは、生産物は、その価値から見れば、それ自身三つの部分から成っている。一つの成分は、生産中に消費された不変資本部分の価値に等しい。第二の成分は、生産で前貸しされて労賃に投ぜられた可変資本部分の価値に等しい。最後に第三の成分は、生産された剰余価値に、つまり、利潤プラス地代に等しい。部門Ⅱの生産物の第一の成分、不変資本部分の価値は、部門Ⅱの資本家によっても労働者によっても、また土地所有者によっても、消費されることはできない。それは彼らの収入のどんな部分もなしてはいないのであって、現物で補填されなければならず、またこの補填ができるためには売らなければならない。これに反して、この生産物の残りの二つの部分は、この部門で生みだされた収入の価値に、つまり、労賃・プラス・利潤・プラス・地代に等しい。

部門Ⅰでは、生産物は、形態から見れば、同じ諸成分から成っている。しかし、ここで収入を形成する部分、労賃・プラス・利潤・プラス・地代、要するに可変資本部分・プラス・剰余価値は、こここではこの部門Ⅰの生産物の現物形態では消費されないで、部門Ⅱの生産物で消費される。だから、部門Ⅰの収入の価値は、部門Ⅱの生産物のうちの、部門Ⅱの補填されるべき不変資本をなしている部分で消費されなければならない。・・・・・(その)部分は、その現物形態のままで部門Ⅰの労働者や資本家や土地所有者によって消費される。彼らは、自分たちの収入をこの生産物Ⅱに支出する。他方、その現物形態にあるⅠの生産物は、それが部門Ⅰの収入を表わしているかぎりでは、部門Ⅰの生産物によって不変資本を現物で補填される部門Ⅱによって生産的に消費される。最後に、部門Ⅰの消費された不変資本部分は、ちょうど労働手段や原料、補助材料などから成っているこの部門自身の生産物のうちから補填され、この補填は一部はⅠの資本家どうしの交換によって行なわれ、一部はこの資本家の一部分が自分自身の生産物を直接に再び生産手段として充用することができるということによって行なわれる。

 マルクスが改めて再生産表式に立ち返ったもう一つの理由として、「・・・第二には、まさにこの労賃、利潤、地代という形態にはアダム・スミス以来全経済学を一貫している信じられないような分析上の大間違いが結びついているからである。」ということがあった。
 ここで言う「大間違い」とは、「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに分解する」との所論を指している。マルクスはこのような謬論が生じる要因となる五つの「困難」を列挙しているが、上記の修正再生産表式との関連で重要なのは次の第四及び第五の点である。

(4)・・・さらに一つの困難が加わってきて、それは、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立のいろいろな収入の形で現われるようになれば、いっそうひどくなるのである。すなわち、収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を変え、したがって、それらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなくて総生産過程を見渡す場合には消えてしまうかのように見える、という困難である。たとえば、不変資本を生産する部門Ⅰの労働者と資本家の収入は、消費手段を生産する部門Ⅱの資本家階級の不変資本を価値的にも素材的にも補填する。

(5)・・・・・・・剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態すなわち利潤と地代とに転化するということによって、もう一つ別の混乱が起きる。商品の価値が基礎だということが忘れられてしまう。また、次のようなことも忘れられてしまう。すなわち、この商品価値が別々の成分に分かれるということも、これらの価値成分がさらに収入の諸形態に発展するということ、すなわち、これらの価値成分が別々の生産要因の別々の所有者たちとこれらの個々の成分との関係に転化し、一定の範疇と名義にしたがってこれらの所有者のあいだに分配されるということも、価値規定やその法則そのものを少しも変えるものではない、ということがそれである。

 こうした事情から、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」、あるいはそのように錯認する取り違えが起きるというのである。その詳細の考察は次章に回されているが、ここではこうした「取り違え」を矯正する簡単な論理として、さしあたり次のことが指摘されている。

・・・まず第一に、商品のいろいろな価値成分がいろいろな収入においてそれぞれ独立な形態を受け取るのであって、このような収入として、それらの源泉としての商品の価値にではなく、それらの諸源泉としての別々の素材的生産要素に関連させられるのである。それらはこの素材的生産要素に現実に関連させられてはいるが、しかし価値成分としてではなく、諸収入として、生産当事者たちのこれらの特定の諸部類、すなわち労働者、資本家、土地所有者の手に落ちる価値成分として、である。

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しぶとい大阪ファッショ

2015-11-22 | 時評

先般の大阪府・市統合に関する住民投票否決、さらに維新の党の分裂で風前の灯かと思われた大阪維新勢力が、府・市W首長選に圧勝し、蘇生した。先の住民投票も僅差否決であったから、蘇生の予兆はあったのだが、なかなかしぶとい大阪ファッショである。

振り返れば、この勢力は、全国政党化するに当たり、当初は反動的価値観を共有する老国粋主義者の小党と合同したが、そうした守旧的戦略ゆえに国政選挙で伸び悩むや合同を解消し、今度は新自由主義経済政策の面で近い保守系小政党と合同した。

ところが、両者は元来、政治的価値観の面では齟齬があったため、集団的安保法成立後の野党再編方針への対処をめぐり党内対立が生じると、一転、分裂を画策して事実上解党、再び地域政党に立ち戻ることで、蘇生を果たしたと言える。巧妙という見方もできるが、まさにこのような露骨に根無し草的な党利党略こそ、ファシズムの特徴を示している。

ただ、再び地域政党に立ち戻ったことで、この勢力が全国を席巻する可能性はひとまず遠のいたとも言えるが 予断は許さない。例えば、地域政党のまま連立与党入りする可能性はある。W選では表面上「対決」する形となった政権与党、とりわけ自民党は実際のところ、大阪維新勢力とは価値観と政策を共有し合っているからだ。

もう一つの可能性は、集団的安保法成立以来、弾みがついている改憲国民運動と結合して、新たな全国政党を結成することである。これは毛色の異なる反動勢力との合同ということになり、またしても失敗する可能性はあるが、実現すれば台風の目となり得る。

いずれにせよ、現代大阪は日本型ネオ・ファシズムの根城となってきたことは間違いない。以前も指摘したように、大阪人が抱く東京への対抗心・反骨精神がファッショ的に刺激されているのだろうか。別の発露もあると思われるのだが。

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「恐怖からの自由」で連帯

2015-11-22 | 時評

パリ同時テロで、フランスの最右翼政党・国民戦線が勢いづいているという。「戦線」とまるで武装組織のような名称を持つ同党は、今後欧州で躍進する可能性のある「反移民ファシズム」のまさしくフロントランナーとなるかもしれない。

かつての戦線はナチとも重なる反ユダヤ主義が売り物だったそうだが、反ユダヤ主義が時代遅れとなった現在は、反移民―ほぼイコール反イスラム―を売り物としている。

さしあたりは、移民規制強化のような一般的な保守系とも重なる主張にとどまっているが、それだけでは一般的保守との差が出せない。そこで一歩踏み込んで、国内の移民の追放/収容を持ち出す可能性がある。そこからさらに突き進んで、移民の大量抹殺まで行けば、現代版ナチスの完成である。

当面は、来月予定の統一地方選が最初の試金石とされる。近年のネオ・ファシズムは地方政治から出てくることも多いので、実際、ここで戦線が躍進すれば、国政選挙にも影響する。そして、2017年予定の大統領選で史上初の戦線系大統領誕生へ・・・・。

しかし、そう簡単に問屋がおろすかどうか。かつてナチス・ドイツに占領されたフランスを含め、欧州には反ファシズムの免疫があるはずだからだ。しかし、テロがさらに打ち続けば、免疫も利かなくなるかもしれない。

新たな免疫は何か。この点、パリ同時テロの後に主催されたトゥールーズでの「反テロ・デモ」を伝える時事通信のいつもながらの短文記事に、母とデモに参加したという8歳児の言葉が紹介されていた。曰く、「自由っていうのは、襲われることなく踊ったり映画館に行ったりできること」。

これは世界人権宣言にも明記されている「恐怖からの自由」の8歳児なりの「解釈」である。「襲われることなく踊ったり映画館に行ったりできること」は先住国民のみならず、移民やその送出源となるシリア等の源地国民も等しく望むところのはずだ。

言い換えれば、「恐怖からの自由」を旗印に、先住国民と移民、さらに源地国民は連帯することができ、そのような連帯こそ、これら三者の間を分断し、先住国民至上の社会を作ろうとする反移民ファシズムへの免疫ではないか。

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テロは「フランス問題」

2015-11-21 | 時評

テロはいつどこで起きてもおかしくない━。これが「反テロリスト」の十八番である。これは、「いつどこでもテロを起こす」というまさしくテロリストの脅しと全く同一の論理に基づく不安惹起言説である。

「反テロリスト」は日本にも存在し、東京五輪を見越して日本でもテロが起きるなどとしきりに煽り、警察権力の強化に結びつけようと画策しているが、この手の「反テロリスト」の言説戦略の狙いが大衆にテロの恐怖を煽って警察、諜報機関の権限を強化することにあるのは間違いなく、前に指摘した「テロ‐反テロ」ゲームの一環でもあるのだ。

テロはまさしく恐怖を惹起する戦術行動だが、それに対抗するとする「反テロリスト」の「いつどこでも」言説もまた、対抗的に恐怖を煽る戦略である。このような戦略に乗せられないためには、テロは決していつどこでも起きているのではないという事実を認識することである。

実際、今年始めの新聞社襲撃テロといい、先般のパリ同時テロといい、このところ狙われているのは専らフランスである。さらにパリの後、別集団によって引き起こされたマリのホテル襲撃事件の舞台マリはアフリカにおけるフランスの旧植民地である。

近年の大量殺傷テロは、フランス国内ないしは旧フランス植民地諸国に集中しているのである。なぜなのかは簡単に解答できないことであるが、おそらくはフランスの移民政策の問題点とそれとも関連する帝国主義時代の負の遺産が、今になって絡み合い噴出しているのだと思われる。

最近のテロは、場所はともあれ「フランス絡み」で起こるという事実は否定のしようがない。その意味で、テロは「フランス問題」である。そう言えば、テロの語源テルールもフランス語起源であり、かの国は何かとテロと縁が深いようである。

ここでフランスを槍玉にあげるつもりはないが、テロ対策は「いつどこでも」ではなく、今、まずフランスでその内外政策を反省的に検証するところから始められるべきである。本当に、いつどこでもテロが起きる時代に突入しないためにも。

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「テロ‐反テロ」ゲーム

2015-11-14 | 時評

同時多発テロと、新たなテロ対策。それをかいくぐっての新たなテロ━。もはや、これはテロリストと反テロリストの間での戦闘ゲームである。実際、不謹慎にも、オンラインゲームのような光景が目に浮かんできそうだ。

このゲームでは、テロリストと反テロリストは表面上敵同士だが、互いの行為を理由ないし動機として次の行動を用意するという点で、互いの存在を必要とし合う一種の共犯関係―敵対的共犯者関係―にある。

テロが一件起きれば、新たな治安対策や空爆作戦でこれに対抗する。そうした対抗措置への報復として次なるテロを起こす。このサイクルを繰り返すことで、テロ組織はかえって強化され、一方、反テロを名目とした政府権限も強化される。互いに増強されていくWin-Win関係なのだ。

わけても、一件テロが起きるたびに拡大されていく政府権限は、アメリカや昨晩大規模な同時多発テロが起きたフランスのような「人権大国」をも警察権力が肥大化した「警察大国」に変貌させつつある。*筆者は、このような民主主義を標榜する警察国家を「民主警察国家」と名づけるが、このような国家現象については、いずれ連載論文で取り上げる予定である。

このWin-Winゲームが卑劣なのは、テロリストと反テロリストの指導部は直接対決しないことである。どちらもそれぞれの仕方で、最高度の警備体制に置かれ、厳重に守られている。とりわけ反テロリスト側の政府要人はまさにテロ対策としてかつてないほど厳重に警護されているので、かれらがテロに遭う危険性はほとんどない。

かつては時に君主や元首さえ標的にされる要人暗殺もしばしばあったが、現在では警備体制の技術的な強化により、こうした要人標的テロは不可能に近い。そのため、専らテロの犠牲となるのは、無防備な一般市民である。

政府は治安強化を叫ぶが、市民一人一人に警護をつけることは不可能であり、警護体制における階級格差は解消しようがない。否、要人警護体制を緩めれば、格差は一定軽減されるが、そんなことを当局が許すはずもない。

というわけで、今や21世紀における日常風景になってしまった「テロ‐反テロ」ゲームは、現実世界のゲームとしてはこうした「警護格差」という不平等によって支えられていることを直視する必要があるように思う。

ちなみに、このゲームを終了する方法;それはテロへの対抗措置として空爆でテロリストを殺戮するというようなそれ自体もテロに等しい行動をやめることである。それがWin-Lose関係に見えるという者は、権力的な「体面」にとらわれているのだ。

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戦後ファシズム史(連載第6回)

2015-11-13 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

5:タイの場合
 アジアで戦前、日本と同型の擬似ファシズムが成立した国として、タイがある。タイの擬似ファシズムの成立経緯はいささかねじれている。まず、タイでは1932年、立憲革命が発生し、それまでの絶対君主制に終止符が打たれる。
 この革命を主導したのは、少壮軍人や文民官僚から成る人民団という政治結社であった。革命当初は民主的な志向性を持つ集団であり、革命後最初の政権は文民政権であった。しかし、翌33年に軍人が首相に就くと、人民団の武官派が主導権を握った。この延長線上に、戦中戦後にかけてのタイにおける擬似ファシズムの指導者となるプレーク・ピブーンソンクラーム(以下、通称的略称に従い、ピブーンと表記)が登場する。
 イタリアのファシズムに親近感を持っていた職業軍人のピブーンは、38年に首相に就任すると、プロパガンダ宣伝、個人崇拝といったファッショ的政治手法を駆使しつつ、国粋主義・タイ人優越主義の見地から、華人への迫害・差別政策を強力に推し進めた。
 太平洋戦争が勃発すると、国民総動員体制を採るとともに、当初は中立を標榜するも、間もなく日本との同盟に転じ、枢軸国側に立って米英に宣戦布告した。しかし、その過程で日本軍のタイ領内通過を認めるという形で日本軍による準占領状態に陥ったことへの国民の反発が高まり、ピブーンは44年、いったん辞職に追い込まれた。
 戦後処理において、連合国はタイを日本並みに敵国扱いはせず、戦後直後のタイでは、戦時中の日本の準占領状態へのレジスタンス運動を組織した自由タイ運動が政権を掌握するが、短命に終わった。以後しばらくは人民団と人民団文官派が結成した中道リベラル系の民主党の間で政権抗争が続き、民主化のプロセスは進まなかった。
 そうした隙を突いて、48年、ピブーンが軍部内の支持勢力を動かしてクーデターに成功、首相に返り咲きを果たしたのだった。戦後の彼はかつて敵対したアメリカとは協調姿勢を取り、経済協定、軍事協定を締結して、アメリカを後ろ盾とすることに成功した。
 そのため、戦後のピブーンは民主主義の外形を取り繕う傾向が強くなり、55年には自身の与党となる新党を結成したが、君主制は維持されていたうえ、ピブーンの権力基盤はあくまでも軍部支持勢力にあり、結局のところ、彼の体制は擬似ファシズムのままにとどまった。
 しかし、純粋の軍事政権とも異なり、軍部内を掌握し切れず、最終的に57年の軍事クーデターで政権を追われるまで、たびたびクーデター未遂や反乱に見舞われ、独裁体制を固めることはできなかった。
 ただ、ピブーンは度重なる混乱を収拾する権力維持の術には長けており、一時は「永久宰相」とも呼ばれたが、首相留任を決めた57年の選挙で不正が疑われたことを契機に反政府デモが発生、騒乱が続く中、元は側近だったサリット将軍のクーデターによりピブーン政権は崩壊した。ピブーンは最終的に日本に亡命、客死する。
 こうして戦前、戦後に通算で15年にわたり首相を務めたピブーンの擬似ファシズム体制は終焉するが、それは民主的な変革によって清算されたものではなく、ピブーンの失墜はむしろこの後、軍部が前面に出ておおむね70年代末まで、同じく擬似ファシズムの性質を持つ反共体制を断続的に維持するきっかけとなるのである。

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戦後ファシズム史(連載第5回)

2015-11-12 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

4:日本の場合
 日本の戦前ファシズムはしばしば「天皇制ファシズム」と呼ばれることもあるが、この場合、昭和天皇がファシズム体制の統領に見立てられる。けれども、ファシズムは基本的に大衆運動を基盤として成立するもので、本質上政党政治の枠内にある。
 その点、日本におけるファシズムは北一輝らが主唱する政治思想・運動として、青年将校らの間に浸透した時期もあるが、彼が2・26クーデター未遂事件に連座する形で処刑された後は退潮し、イタリアやドイツのように、ファシズムが政党として組織化されるようなことはなかった。
 もっとも、戦争期に三度にわたって首相を務めた近衛文麿が主導した新体制運動はナチ党のような独裁政党の樹立構想を含むものであったが、不磨の大典とされた明治憲法の枠内では大政翼賛会のような中途半端な官製選挙マシンの設立に終わり、本格的なファシスト政党樹立には至らなかった。
 結局のところ、「天皇制ファシズム」と呼ばれるものは、当時の天皇・日本軍部とその追随勢力が主導した戦時動員体制であり、天皇中心の国家絶対主義的な側面を外見的にとらえれば、ファシズム様の特徴も認められた限りでは「擬似ファシズム」と呼ぶべき政策的な暫定性の強い体制であった。
 そうした「暫定性」という点では、スペインのフランコ体制との類似性がなくはなかったが、日本の軍国体制にフランコに相当するような統領的軍人指導者は存在せず、集団指導型の体制であった。また天皇も、明治憲法では神聖不可侵な超越的存在者とされ、独裁的指導者ではなかった。 
 そのため、戦後の占領下でも、連合国はドイツにおける「非ナチ化」のような体制そのものの解体措置ではなく、軍国主義勢力の排除、特にその中心にあった軍部の解体に最大の力点を置いたため、新憲法にも非武装平和条項が現われることになった。
 戦争に主体的に協力した文民・民間人に対する公職追放もなされたが、微温的であり、間もなく開始された冷戦の中で、今度は共産党員の公職追放が当面する課題となったことから、追放解除が相次ぎ、軍国主義の排除は不徹底に終わる。憲法上の非武装中立も解釈によって緩和され、事実上の再武装化である自衛隊が出現する。
 占領終了後も、ドイツのようにファシズムの再興を阻止する反ファッショ政策が採用されることはなく、かといってファシスト政党が新たに出現することもなく、ただ憲法の平和条項が反軍国主義の旗印として辛うじて維持されるにとどまった。
 このように、日本では清算の対象となるべき戦前ファシズムが擬似的なものでしかなかったことが、戦後日本における「歴史認識」にも特有の困難さをもたらしている。日本国民はドイツ国民のように選挙を通じてファシズムを選択したのではなく、選択の自由がないまま、軍部主導での戦争に強制動員されていったため、時間の経過とともに、歴史に対する「反省」の念が希薄となりがちなことは否めない。
 言い換えれば、日本国民にはファシズムの免疫が存在しない。このことは、今後新たに本格的なファシズムが出現してきた時、その免疫がないため、今度は選挙でファシズムを選択してしまう危険もあることを意味しているであろう。

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戦後ファシズム史(連載第4回)

2015-11-11 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

3:スペインの場合
 スペインでは共和派政権との内戦に勝利したフランコが、イタリアやドイツにはやや遅れ、1936年以降、ファシスト体制を樹立していたが、第二次大戦中のフランコ政権は内戦で支援を受けたナチスドイツをはじめとする枢軸国側に共鳴しつつ、表向きは「中立」を保つという両義的な策を採ったおかげで、戦後も生き延びることに成功した。
 そのため、スペインのファシズムはフランコが高齢で死去した75年まで遷延していくことになる。従って、スペイン・ファシズムは戦後にその絶頂期を迎える。もっとも、戦後のフランコ体制はファシズムではなく、フランコが出自した軍部を基盤とする権威主義独裁体制だとする見方も有力である。
 たしかに、フランコ体制における実質的な与党であったファランヘ党は支配政党と言えるほどの力を持たず、同党自体もフランコがファシストと伝統的な反動派を糾合して結成し直した経緯があり、フランコ体制はイデオロギー的に雑多な反共右派の寄り合い所帯の性格が強かった。
 とはいえ、フランコは総統を名乗り、終身間国家指導者として君臨し続けたし、ファランヘ党も政治動員上のマシンとしては機能していたのであり、フランコ体制を戦後のスペイン語圏中南米に多く出現する純粋の軍事独裁政権と同視することはできず、ファシズムの特徴を備えていたとみるべきである。
 その特徴は、スペイン社会における伝統的な権威の源泉であるカトリック教会や政治的な権威を持つ軍部を中核とした「権威ファシズム」であり、その点ではイタリアやドイツの真正ファシズムと比べ、曖昧な性格を免れなかったが、元来ファシズムには明確で体系的なイデオロギーがあるわけではなく、信条的な反共主義と心情的な国粋主義を共通項に成立する国家の絶対化という点では、スペイン・ファシズムこそ、ファシズムらしい真正ファシズムだったとさえ言えるのである。
 だたし、フランコはファシズム体制を恒久的なものとは考えておらず、自身の死後には王制復古すべきとの考えであった。そのため、彼の体制はあくまでも暫定的なものであり、フランコは国王空位の間の「終身摂政」といういささか中途半端な位置づけを自らに与えていた。
 ある意味では、そうした「暫定性」を口実に立憲政治を排除していたとも言える。「暫定性」の論理はまた、国際的には戦前ファシズムの生き残りとして国際的に異端視され、孤立する中で体制を延命させるための理屈でもあったであろう。
 フランコに「功績」があったとすれば、彼は死の間際になっても心変わりせず、「暫定性」の論理を守り通したことである。そのため、75年のフランコの死後は、大きな動乱もなく、王政復古=立憲君主制への移行がなされ、これに伴い、西欧的な議会制の導入も図られた。これは、ファシスト政権の指導者自身の遺志に基づき戦前ファシズムが清算された稀有の事例である。
 ファランヘ党は間もなく国民同盟として再編され、選挙参加するが、中小野党の域を出ることはないまま、89年に至り、他の保守系政党を吸収しつつ、国民党として再編された。従って、部分的には同党が旧ファシズムの継承者ではあるが、現在の同党は中道左派の社会主義労働者党とともにスペインの二大政党政を担う代表的な保守政党であり、もはやファシスト政党とは言えない。
 現時点で明確にファシズムの特徴を持つ政党は、2002年に結党された真正ファランヘ党であるが、同党は一部の自治体にわずかな議席を持つにとどまり、国政レベルでの支持の広がりは見られない。スペインでは、戦前ファシズムの清算はフランコ没後の40年間でほぼ完了したと言えるであろう。
 ただし、それはスペイン内戦中とその戦後処理過程でフランコ政権が断行した共産党員を中心とする反フランコ派大量殺戮の罪を法律上免責し、真相究明も封印するという社会的合意のうえでの「清算」である。その意味では、スペインにおける戦前ファシズムの清算は政治的なものにとどまり、歴史的には未了であるとも言えるのである。

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晩期資本論(連載第75回)

2015-11-10 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(2)

資本―利潤(企業者利得・プラス・利子)、土地―地代、労働―労賃、これは、社会的生産過程のあらゆる秘密を包括している三位一体形態である

 マルクスは、資本主義社会の三大階級の形成要因となる資本主義的生産様式の三つの要素を、このように―いささか皮肉的に―キリスト教の三位一体論になぞらえて、定式化している。ただし、「利子は資本の本来の特徴的な所産として現われるが、企業者利得は、それとは反対に、資本にはかかわりのない労賃として現われるので」、第一位の要素である資本―利潤は、資本―利子に集約される。

・・・資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式では、資本、土地、労働は、それぞれ、その生産物であり果実である利子(利潤ではなく)、地代、労賃の源泉として現われる。前者は理由で後者は帰結であり、前者は原因で後者は結果である。・・・・・・・・すべての三つの収入、すなわち利子(利潤ではなく)、地代、労賃は、生産物の価値の三つの部分であり、つまり一般に価値部分であり、または、貨幣で表現すれば、ある貨幣部分であり価格部分である。

 マルクス特有の皮肉的な比喩によれば、「公証人の手数料とにんじんと音楽との関係」ぐらいに表面上は無関係に見える利子、地代、労賃の三つの部分が、資本主義経済システムにおいては、三位一体的に結びついている。この理をマルクスは木にたとえて、「この三つの部分は、一本の多年生の木の、またはむしろ三本の木の、年々消費してよい果実として現われる。」と表現している。この結合関係をより経済学的にまとめると―

土地所有と資本と賃労働とは、次のような意味での収入の源泉から、すなわち、資本は資本家が労働から引き出す剰余価値の一部分を利潤の形で資本家のもとに引き寄せ、土地の独占は別の一部分を地代の形で土地所有者のもとに引き寄せ、そして労働は最後に残る処分可能な価値部分を労賃の形で労働者のものにするという意味での源泉から、・・・・・・・・・・・現実の源泉に転化して、この源泉からこれらの価値部分が発生し、また、生産物中のそれに相当する部分、つまりこれらの価値部分がそのなかに存在するかまたはそれに転換されうる生産物部分そのものが発生することになり、したがって、それを究極の源泉としてそこから生産物の価値そのものが発生することになるのである。

 こうしたメカニズムはしかし、「生産関係そのものを一つの物に転化させる」物象化が支配的な資本主義社会における「現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、いろいろな新たな姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産過程は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである」。

企業者利得と利子への利潤の分裂は、・・・・・・・・剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいする剰余価値の形態の骨化を完成する。

 先の「骨化」の第一段階である。すなわち、「利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからまったく引き離されてしまい、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立の源泉としての資本から発生するように見える」。

最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして剰余価値の一部分を次のような一階級の手に引き渡すものとして、現われる。その階級とは、自ら労働するのでもなければ労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を貸し出すさいの危険や犠牲といった道徳的な慰めになる理由を楽しんでいることもできない階級である。 

 土地―地代の段階まで来ると、このように価値の諸成分の骨化と呼ばれる現象は完璧の域に達する。すなわち、「ここでは剰余価値の一部分は、直接には社会関係に結びついているのでなく、一つの自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化の形態は完成されており、内的な関連は決定的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過程のいろいろな素材的要素に結びついた様々な生産関係の相互にたいする独立化によって、完全にうずめられているのである」。

資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている。

 マルクスはこうした資本主義的社会編制を「魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界」と揶揄しているが、「現実の生産当事者たちがこの資本―利子、土地―地代、労働―労賃という疎外された不合理な形態でまったくわが家にいるような心安さをおぼえるのも、やはり当然のことである。なぜならば、まさにそれこそは、彼らがそのなかで動きまわっており毎日かかわりあっている外観の姿なのだからである。」とも指摘する。実際、われわれ資本主義社会の住人は、まさに魔法にかかったように、この三位一体を当然のごとくに受け止め、通常は疑問を感ずることなく、生活しているのである。 

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晩期資本論(連載第74回)

2015-11-09 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(1)

 『資本論』第三巻の最終篇は全巻の総括を兼ねた補遺に相当し、一部未完に終わっている未整理部分から成るが、全体の趣旨としては、資本主義における資本家‐労働者‐地主の三大階級の形成要因に関わっている。

労賃、利潤、地代をそれぞれの収入源泉とする単なる労働力の所有者、資本の所有者、土地所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義的生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている。

 ただし、この三大階級編制はあくまでもモデル的な規定であり、「争う余地なく、近代社会がその経済的編制において最も著しく最も典型的に発展している」英国ですら、「中間階級や過渡的階層が・・・・・・到る所で限界設定を紛らわしくしている」。現実の階級編制は複雑多岐にわたるわけである。

・・・まず答えられなければならないのは、なにが階級を形成するのか?という問いである。そして、その答えは、なにが賃金労働者、資本家、土地所有者を三つの大きな社会階級にするのか?とう別の問いに答えることによって、おのずから明らかになるのである。

 ここでのマルクスの問題提起は、経済学的というより、社会学的である。すなわち三大階級の形成要因を解明しようというのである。

一見したところでは、それは収入が同じだということであり、収入源泉が同じだということである。三つの大きな社会的な群があって、その構成分子、それを形成している個々人は、それぞれ、労賃、利潤、地代によって、つまり彼らの労働力、彼らの資本、彼らの土地所有の経済的実現によって、生活しているのである。

 ここで、マルクスは階級の形成要因を収入源泉によって分類する立場を示している。そこで、第三巻最終の第七篇も「諸収入とそれらの源泉」と題されている。このような収入源泉による階級分類は、今日の社会調査でも利用されているところである。

とはいえ、この立場から見れば、たとえば医者や役人も二つの階級を形成することになるであろう。なぜならば、彼らは二つの違った群に属しており、二つの群のそれぞれの成員の収入はそれぞれ同じ源泉から流れ出ているからである。同じことは、社会的分業によって労働者も資本家も土地所有者もそれぞれさらにいろいろな利害関係や地位に無限に細分されるということ―たとえば土地所有者ならばぶどう畑所有者や耕地所有者や森林所有者や鉱山所有者や漁場所有者に細分されるということ―についても言えるであろう。

 収入源泉別の社会階級分類による限り、ここで指摘されているとおり、その分類は無限細分化され、三大階級論は失効する。この後、細分化された「階級表」のようなものを展開する意図がマルクスにあったかどうかは、マルクスの草稿が途切れているため、想像するほかないが、経済原論の性格が強い『資本論』の分析においては、細部は捨象し、三大階級論モデルを基本とすることになるだろう。

・・・生産手段をますます労働から切り離し、分散している生産手段をますます大きな集団に集積し、こうして労働を賃労働に転化させ生産手段を資本に転化させるということは、資本主義的生産様式の不断の傾向であり発展法則である。そして、この傾向には、他方で、資本と労働からの土地所有の独立的分離が対応している。言い換えれば、資本主義的生産様式に対応する土地所有形態へのすべての土地所有の転化が対応している。

 これこそ、『資本論』全巻を通じての基本命題であった。三大階級編制もこの発展法則の展開過程で形成される。

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海の非領有化

2015-11-08 | 時評

中台間の「雪解け」が演出される一方で、南シナ海をめぐっては中国と周辺諸国の間での緊張が高まり、米国が軍事的な示威行動に出るなど、冷戦的状況が起きている。

だが、そもそも南シナ海とは、すなわち南中国海の謂いであり、この海洋名で呼びながら、南シナ海は中国の領海でないと反駁することには矛盾がある。同様に、もし日本海は日本の領海でないと主張されたらどうなるか。

筆者はここで、南シナ海は中国の領海であるという主張に左袒するつもりはない。むしろ、海洋に特定の国名を冠して呼ぶことの問題性を提起する。日本海もその例外としない。問題はしかし、海洋名を中立化すれば済むというわけでもない。

筆者はかねてより、いくつかの記事で、地球の私有・領有という観念そのものに反対し、地球は誰の物でもないという考え方を提示してきた。人類が広い意味での「所有」の観念に深くとらわれている現時点では極少数説であるが、このような考え方は海洋から始めるにふさわしい。

海洋は陸地と異なり、物理的な線引きができないので、「領海」と言ったところで、水に有刺鉄線を設けて国境警備隊を配備するわけにいかない。せいぜい、周辺海域の島に物理的な設備を設けるのが精一杯で、もともと領有関係が曖昧なのだ。

もしどうしても「領有」という観念によるなら、およそ生物のふるさとでもある海こそは、地球上の全生物が共同で領有する場であるべきだろう。

このような「海の非領有化」という革新的な国際法概念を海洋に多数の国が連なる東アジアから創出することはできないものだろうか。少なくとも、東アジアが海洋紛争の悪しき見本となることだけは回避されたい。

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中台首脳会談‐良い「雪解け」

2015-11-08 | 時評

南極の雪解けとは違い、こちらは良い雪解けである。1949年の中台分断以来初となる7日の中台首脳会談は、東アジアに積み残された冷戦の雪解けの第一歩となるかもしれない。否、そうなるべきであろう。

かねて東アジアでは、世界レベルでの冷戦が終結した後も、中台に加え、南北朝鮮という冷戦期に登場したイデオロギー的分断国家を二組も抱える異常な状態が続いてきた。時に一触即発の危機がいまだにあり、そのことが日本の軍拡論者の口実にもされている。

ただし、中台間では1980年代以降の両国の経済発展の中で経済交流が進み、政治的対立を超えた経済的一体化の蓄積のうえに、今回の歴史的な首脳会談が実現したとも言える。

懸念すべきは、台湾側の独立志向的な動きである。この点では、90年代以降、二大政党政が定着した台湾の「民主化」が裏目に出る恐れもある。現時点では野党の民進党が政権復帰すれば、独立論を持ち出して、中台関係を悪化させるかもしれない。

民進党は台湾の国民党一党独裁を終わらせた歴史的功績を持つリベラル系政党であるが、対外政策では歴史的に中国共産党の敵手であった国民党に代わって、反中共政党として確立されるというねじれが起きている。ここでは互いの違いを際立たせて競合する政党政治、とりわけ二大政党政の悪い面が発現している。

しかし、東アジア冷戦を終結させるには、中台関係の雪解けは必須であり、この点に関しては二大政党とも違いがあるべきではないだろう。違いは内政面でいくらも出せるはずである。来年1月の総統選に向け、民進党の優勢も伝えられるが、政権交代によって今回の首脳会談の成果を反故にすることは回避してほしいものである。

ちなみに日本政府は、こうした中台接近が「対中牽制の外交カードを失いかねないとの懸念もあり、静観している」(日本経済新聞)との分析もあるが、自国の国益確保のため、東アジア冷戦の存続を願望するかのような姿勢は守旧的というほかない。

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