ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第50回)

2019-12-10 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐4〉反動化から第二帝政へ
 1848年4月の制憲議会選挙の結果、反社会主義派の圧勝となったことで、社会主義派の命運は決まったも同然であった。同派の指導者ルイ・ブランは当選したが、彼が指導していた「労働者のための政府委員会」は改組のうえ、担当閣僚も交代となった。
 こうした露骨な排除に対して、社会主義派は5月、大規模なデモ行進を行い、社会主義派のもう一人の指導者オーギュスト・ブランキを中心に議場に乱入して議会の封鎖を企てたが、失敗し、ブランキらは逮捕された。
 この後、議会乱入事件に労働者が関わった「国立作業場」の閉鎖を新政府が決めると、労働者はこれに反対する請願を敢行するが、政府に拒否された。これに抗議して、労働者はバリケードを築き、武装蜂起の態勢に入った。こうして、いわゆる「六月蜂起」と呼ばれる新たな革命の段階を迎える。
 これが成功していれば、近代史上初のプロレタリア革命に発展した可能性があるが、実のところ、政府側はこうした民衆蜂起を想定していたのだった。ある意味では、政府側の挑発作戦であり、「作られた革命」であった。民衆側にしてみれば、選挙結果に動揺し、先を急ぎすぎて罠にはまったのである。
 政府側はルイ・カヴェニャック将軍を全権行政長官に任命し、戒厳令下、徹底的かつ体系的な鎮圧作戦を展開した。その結果、四日間の戦闘を経て民衆蜂起は鎮圧された。民衆側死者は3000人に上る苛烈な作戦であり、事後にも徹底した弾圧検挙が行われ、関与者はかつてカヴェニャックが征服に関わった北アフリカのアルジェリアへ追放処分とされた。ブランも英国への亡命を強いられた。
 こうして「六月蜂起」は革命に進展することなく、終了した。この時点で、二月革命そのものも終焉したと言える。この間、ラマルティーヌは社会主義派との妥協を目指して調停に尽くしたが、総選挙後の流れはより保守的な共和主義者が主導し、革命を強制終了させる方向へ動いており、その流れを止めることはできなかった。
 このように、革命のプロセスでは選挙が革命の進展を止め、保守的な流れを作り出すことがしばしばあるが、これは資金力が決定要因となる選挙議会制度が本質的に持つ反革命的・保守的な機能のなせるところである。フランス二月革命では、そうした機能が明瞭に表れたと言える。
 「六月蜂起」後の展開は、より反動的であった。新たな憲法からは、二月革命の限定的な成果である社会権(労働権)条項は削除され、アメリカ合衆国にならった大統領共和制が採択された。新憲法の下、48年12月に実施された初の大統領選挙では、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが「六月蜂起」鎮圧の立役者カヴェニャックを大差で破り、圧勝した。
 ルイ・ナポレオンは当初は泡沫候補にすぎなかったが、曖昧な共和主義者として行動しつつ、無難なイメージと叔父ナポレオンへの郷愁感情を巧みに利用しつつ、広報戦略を駆使してブルジョワ層や農民層からも支持を得て当選を勝ち取った。その意味では、彼こそは近代史上初の大衆迎合主義ポピュリストの政治家であった。
 しかし、彼の野心は別のところにあった。大統領に就任した後、革命の成果を骨抜きにする政策を展開した末、1851年には自身の政権を解体する「自己クーデター」の形で憲法を停止し、翌年には国民投票をもって皇帝に即位、第二帝政を開始するのである。まさに半世紀前に叔父がたどった道である。
 こうして、二月革命は反動化から帝政へという18世紀フランス革命の反復に終始した。しかし、革命のマグマは18年に及んだ第二帝政の期間中、潜勢力的に持続しており、次の革命を待機している状態であった。さしあたり、それは1870年代まで持ち越しとなる。


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