ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝・目次

2013-05-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期 p1 p2
(1)中産階級的出自
(2)進歩‐保守的な恋愛
(3)哲学との出会い
(4)古代唯物論研究

第2章 共産主義者への道 p3 p4 p5
(1)17歳の職業観
(2)新聞編集者として
(3)在野知識人へ
(4)盟友エンゲルス
(5)『共産党宣言』まで

第3章 『資本論』の誕生 p6 p7 p8
(1)初期の経済学研究
(2)プルードンとの対決
(3)経済学研究の道
(4)主著『資本論』をめぐって

第4章 革命実践と死 p9 p10 p11 p12 p13
(1)共産主義者同盟の活動
(2)国際労働運動への参画
(3)パリ・コミューンへの関与
(4)バクーニンとの対決
(5)労働者諸政党との関わり
(6)最後の日々

第5章 「復活」の時代 P14 p15 p16 p17
(1)マルクス主義の創始
(2)エンゲルスからレーニンへ
(3)ロシア革命とマルクス
(4)ソ連体制とマルクス
(5)正当な再埋葬

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期 p18 p19
(1)中産階級的出自
(2)兄の刑死
(3)逮捕と追放
(4)弁護士資格取得

第2章 革命家への道 p20 p21 p22 p23
(1)ペテルブルクへ
(2)最初の政治活動
(3)何をなすべきか
(4)社会民主労働者党への参加

第3章 亡命と運動 p24 p25 p26
(1)党内抗争と理論闘争
(2)第一次ロシア革命と挫折
(3)哲学への接近
(4)レーニン主義政党の構築

第4章 革命から権力へ p27 p28 p29 p30 p31
(1)第二次革命の渦中へ
(2)10月革命と権力掌握
(3)ボリシェヴィキの全権掌握
(4)内戦・干渉戦と「勝利」
(5)最高権力者として

第5章 死と神格化 p32 p33 p34 p35
(1)レーニンの死
(2)忠実な相続人スターリン
(3)偉大な亜流派トロツキー
(4)人間レーニンの回復

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載最終回)

2013-04-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復(続き)

レーニンの脱神格化
 ソ連邦解体は、スターリン以降のソ連体制によって付与されてきたレーニンの神格を剥ぎ取る契機ともなった。レーニンの脱神格化である。レーニンの脱神格化とは何か。それはレーニンに対するタブーなき批判の自由が確保されることである。
 旧ソ連時代にもスターリン死後のフルシチョフ政権当時にスターリン批判が共産党指導部自身によって行われたことはあったが、革命と建国の父レーニンに対する批判は長らくタブーであり、タブーが徐々に解けたのはソ連末期のゴルバチョフ政権下で情報公開と言論の自由化が進んでからのことであった。
 ただ、レーニンを批判するという場合、単に彼の理論と実践の個別的な誤りを指摘するだけでは足りない。それを超えて、彼の理論と実践を全般的に批判的分析の対象とすることが必要となる。
 なかでもマルクス主義者レーニンがマルクス離反者でもあった事実を正面から見すえなければならない。ソ連当局によって宣伝され、今日でもなお基本的に維持されている「レーニンはマルクスの理論を後進的だったロシアの現実に適用した」というレーニン評価は見直されなければならないのだ。
 すでに随所で触れてきたとおり、彼はマルクス理論の「適用」どころではない、それからの「離反」を示している。彼の理論はマルクスの用語を使用してはいるが、マルクスとは別個のレーニン独自のもので、端的に「レーニン主義」と呼ばれるのが最もふさわしい。ソ連とその同盟国が体制教義としていた「マルクス‐レーニン主義」は実態と乖離したイデオロギーにすぎなかったのである。
 レーニン脱神格化の第二弾は、為政者レーニンの失政を直視することである。すでに見たように、レーニン政権下での社会的混乱は並大抵のものではなかった。
 それは想像を超えた混乱であったため、10月革命は、反革命派の間ではおよそ革命なるものが大衆にとっていかに辛い苦難を強いるものかを宣伝する材料として今日まで使われているほどである。
 レーニンをはじめボリシェヴィキは一般命題的な「テーゼ」を巡る論争に明け暮れることが多く、具体的な政策立案能力には欠けていたと言わざるを得ない。その最たるものが民衆の生活にとって肝心な農業・食糧政策であった。レーニン政権は「戦時共産主義」という誤った政策のために帝政ロシア時代にも見られなかったほどの飢餓を引き起こした。農業・食糧問題での失政は悲惨な内戦の要因でもあった。
 マルクスから離反して労農革命を唱導したレーニンが為政者として農業問題に関して一貫した良策を打ち出すことができなかったのは、彼にとって農民との同盟は権力掌握のための手段的な意味合いが強かったためである。彼自身は農民に共感などしていなかったし、かつてのナロード二キのように農村に直接足を踏み入れることもなかったのである。
 ・・・とこのようにレーニンを断罪していくと、レーニンを全否定し、歴史から抹消してしまうことになりかねない。実際、今日ではレーニンも10月革命もソ連も存在しなかったかのような空気が世界に見られる。ロシアにおいても、旧暦10月25日の革命記念日はもはや祝日ではなくなっている。
 しかし、レーニンが指導した革命事業は神ならぬ人間のなせる業であり、そこには反面教師的な側面も含めて多くの教訓が含まれている。それは近代における革命について考える際の素材の宝庫なのである。革命など真っ平ご免蒙りたいと思っている人にとっても、なぜ、どのようにして革命が起きるのかを考える手がかりが得られるだろう。
 そうした意味で、映画のタイトルにもなった「グッバイ、レーニン!」は“神レーニン”に対する決別宣言でなければならず、“人間レーニン”に対しては、「ハロー、レーニン!」でなくてはならない。
 ちなみに、ソ連邦解体を主導したロシアの“急進改革派”エリツィン政権は、レーニン廟に保存されているレーニンの遺体の撤去・埋葬を企てたが、反対も根強く、実現しなかった。たしかにレーニンを葬り去るにはまだ早いが、人間レーニンを回復するためには、普通の人間として埋葬し直すほうがよいのではなかろうか。(連載終了)

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第68回)

2013-04-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復

ソ連邦解体とレーニンの「責任」
 レーニンが10月革命によって作り出した体制は、74年後の1991年、やはり一種の革命によって解体・消滅した。このことに対して革命から6年余りで世を去ったレーニンにどの程度の「責任」が認められるかが問われるであろう。
 これは裏を返せば、仮にレーニンがスターリンの没年1953年(レーニン83歳)まで健在してソ連を指導していたら、ソ連体制はもっと持続していたであろうかという問いに等しい。
 答えはノーであろう。なぜなら問題の発端は10月革命そのものにあったからである。10月革命はレーニンとボリシェヴィキの当座の権力掌握という「蜂起の技術」に関しては鮮やかに成功した革命であったが、長期的に見れば超未熟児のような体制を産み出した「早まった革命」であり、100年は持続しなかった「失敗した革命」でもあった。
 レーニンの「早まった革命」はマルクスの「革命の孵化理論」を踏まえず、資本主義が発達し切らない前に労働者と農民―実際はレーニンらの職業的革命家―が蜂起して社会主義の建設に向かうというものであったから、初期のレーニン自身が予見していたロシアにおける資本主義の発達の可能性を阻害する一方で、マルクスによれば発達した資本主義の中から産まれるはずの共産主義を産み出すこともできず、商品生産と賃労働といった資本主義的要素を残したまま、他方では生産手段の国有化という形で擬似共産主義的な要素を併せ持つ中途半端な国家社会主義という方向へ収斂していかざるを得なかったのである。
 この点ではちょうど同時期、メンシェヴィキ支持派が多数を占めたスウェーデンの社会民主労働者党が議会政治の枠内で長期政権を担い、資本主義と共存しつつ労働者の生活水準を引き上げる高度福祉国家の建設に乗り出していったこととは好対照であった。
 このスウェーデン・モデルは、マルクス主義を放棄し、やがてケインズ経済学に依拠するいわゆる「修正主義」の代表的成功例であり、ロシアでもこのモデルが適用されていたら、その後の展開は全く違ったものとなったかもしれなかった。
 しかし、ロシアのメンシェヴィキはあまりにも弱く、本来的には少数派でありながら戦術に長けたボリシェヴィキに勝って政権を掌握するなど望むべくもなかったのだ。
 しかし、レーニンが作り出した超未熟児体制も国家社会主義の形態をまといながら、スターリン時代には工業化、経済成長をかなりの程度達成し、よく生き延びはしたと評価することもできる。何はともあれ、ソ連の70年間で、ロシアと他の連邦構成共和国は「発展」―「社会主義的不均等発展」もあったにせよ―したのである。
 しかし、1991年のソ連大衆は政治的抑圧と物不足の貧弱な消費生活を強いるだけの体制の存続に関して、もはやいかなる幻想も抱いてはいなかった。
 同年8月、かねてからソ連体制の根幹に関わるブルジョワ自由主義的な改革プログラムを進めていたゴルバチョフ大統領―前年の憲法改正で共産党一党支配を廃止していた―に対して、共産党保守派がクーデターを起こすと、モスクワ市民はちょうど74年前の8月に反革命派コルニーロフ将軍のクーデターに対峙した市民たちのように、体を張ってクーデターを阻止したのである。
 年末、“急進改革派”のロシア大統領エリツィンらによってレーニン政権が締結した22年連邦条約の無効が宣言され、10月革命とソ連邦の終焉が決定的となっても、ソ連大衆は強く反対することはなかった。
 この結果、ロシアは10月革命を取り消し、2月革命の線まで立ち戻って、レーニンにより中断されていた資本主義の道を再び歩み出すこととなった。レーニンを非難する言葉こそ聞かれなかったが、彼は無言で断罪されたのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第67回)

2013-04-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー(続き)

トロツキー幻想
 トロツキーは本来、スターリンなどよりはるかに傑出した10月革命の元勲でありながら、スターリンによって排除され非業の死を遂げたため、死後多くの崇拝者を出した。かれらはトロツキストと呼ばれるマルクス主義の一派を成して今日でも活動を続けている。
 レーニンがスターリン以降のソ連体制によって神格化されたとすれば、トロツキーは反スターリン主義者によって聖人化されてきたと言える。しかし、レーニンともスターリンとも違うとされるトロツキーの理論的独自性については、しばしば過大評価がつきまとってきた。
 彼を最も有名にした永続革命論(一段階革命論)はレーニンの即時武装蜂起の意思決定にも示唆を与えたことが知られるが、トロツキー理論のもう一つの支柱である世界革命論について言えば、「プロレタリアートによる革命の輸出」というテーゼ自体はレーニンが一国社会主義論を打ち出した前出論文の中でも示唆していたことである。 
 ただし、レーニンの場合はトロツキーのように世界革命―さしあたりは西欧諸国での革命―をソ連における社会主義建設の条件とまでは考えていなかった点で、トロツキーはマルクスとエンゲルスがかつて『ドイツ・イデオロギー』で打ち出したテーゼ「共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能」に立ち戻っているようにも見える。
 しかし、スターリンの一国社会主義論の下で、ソ連の工業化と経済成長がかなりの程度達成されたことで、永続革命論・世界革命論の意義は失効してしまった。
 もっとも、トロツキーのように、10月革命はスターリンによって「裏切られた」と解釈し、スターリン流社会主義を偽りの“社会主義”とみなすならば、トロツキーの所論はなお失効していないことになるが、それではトロツキーの社会主義認識とはいかほどのものであったのだろうか。
 この点、トロツキーの農民強制論、すなわち「プロレタリアートは農民を強制して社会主義の建設を急がねばならない」というテーゼは、要するにネップのように農民のブルジョワ的願望を満たす慰撫政策に異を立てたもので、同じことを農業集団化によって大々的に実行したのがスターリンであったとも言える。
 その意味で、農民強制論はスターリンでも支持できるようなテーゼである。富農出身であったトロツキーは、農民は本質的に動揺階級であって、革命的闘争にも反動的闘争にも参加する信用のおけない階級とみなしていたが、このような農民観もスターリンと共有できるものであっただろう。
 しかしその一方で、トロツキーはネップ期の経済体制については、諸産業が労働者国家の手中にある限り「資本主義はその形式を残していても客体としては存在しない」という論理で、これを擁護する矛盾した主張もしている。このような理解はネップの発案者であったレーニン自身がより率直にネップの本質を「国家資本主義」と認めていたことと対比しても妥協的・後退的な理解と言わざるを得ない。
 トロツキーがレーニン以上に民主主義的であると評されるのが党官僚制に対抗する党機関の下部服従論である。たしかに彼は言葉の上ではレーニン以上に党官僚制に対して否定的であった。
 しかしそのトロツキーが一方では人間を本質上怠惰な動物とみなし、資本主義を社会主義で置き換えるには、政府による強制と労働の軍隊化が不可欠であるとして、労働組合の国家管理を提起したのである。
 この考えは労働組合を党官僚制への対抗力と考えていたレーニンによって強く批判され、一時トロツキーを警戒したレーニンをしてスターリンにトロツキーへの対抗を準備させるまでになった。スターリンはこのことを後々まで記憶していたに違いない。
 もっとも、労働組合はスターリン時代を通じて、レーニンの要望よりもまさにトロツキー提案に沿う形で完全な国家管理下に置かれてしまうのであるから、この点でのトロツキーとスターリンの距離は遠くない。
 ちなみに「労働の軍隊化」といったテーゼからも、トロツキーにはスターリンと同様、軍隊的組織への傾倒が看て取れる。彼が10月革命時の軍事指揮で活躍し、革命後は赤軍(ソ連軍の前身)の創設者となったのも、決して偶然とは言えない。
 労働者をサボタージュ分子、農民を動揺分子と見下していた彼は、レーニン以上にエリート主義的な観点を持つがゆえに、スターリンとともに軍隊的規律強制に積極的なのである。
 こうしてみてくると、トロツキーはレーニンよりも宿敵スターリンとの間に意外な共通点を共有しつつ、レーニンとスターリンの間を天翔るような偉大な亜流派であったと理解できるのではなかろうか。
 実際的な面からしても、仮にトロツキーがスターリンを抑えてレーニンの後継者に就いていたとして、決して成功はしなかっただろう。最晩年の論文でレーニンはトロツキーの自己過信とともに行政的な側面への過剰な没入に苦言を呈していたが、実際のところ、トロツキーの行政的手腕には疑問符が付く。そのことは外務人民委員(外相)時代に担当した戦争終結を巡る外交交渉の結果にも表れている。
 当時、彼はレーニンの単独講和論にもそれに反対する革命戦争論(戦争継続論)にも与さず、「抗戦も講和もしない」との中間的な立場をとり、結局交渉では成果を上げないままロシアに不利な条件での単独講和を甘受せざるを得なかったのである。
 このようなトロツキー流の中間的な立場は彼がまだ調停派であった頃からのものである。彼は当時、その煮え切らない態度をレーニンから「彼はどんな見解も持たない・・・・・低級な外交家だ」と痛罵されたことがあった。トロツキーはずっと後に調停派時代の自らの態度を自己批判したが、その本性は終生変わらなかったようである。もっとも、こうした中間的な立場はトロツキーの分析的な性向に由来するものと言えなくもない。 
 結局、トロツキーはいくぶん学究肌の面を持った自意識の強い作家肌の人間であって、彼の真価は文筆面で大いに発揮された。実際、彼は自意識の強い人間にふさわしく、史料的というよりも文学的に価値の高いすぐれた自伝を残した。この点は自己を語ることに禁欲的で、自伝の類を一切残さなかったレーニンともマルクスとも異なるトロツキーの魅力と言えるかもしれない。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第66回)

2013-04-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー

予定された敗者
 スターリンのライバル・トロツキーは10月革命時にはペトログラード・ソヴィエト議長として軍事革命委員会を率いて武装蜂起を指揮した立役者であった。この時レーニンはまだ臨時政府から追われ地下潜伏中の身であり、前面に出られなかったことから、10月革命の実戦面での功績はトロツキーにあったと言って過言でない。
 そして、レーニン最晩年にはトロツキーは後継候補に浮上したうえ、レーニンがスターリンと衝突してその解任を検討するに至って、最有力後継候補となったはずであった。にもかかわらず、結果として彼はスターリンの巻き返しに遭って、言わば逆転負けを喫してしまった。それも生命を奪われるような形で。
 何よりもまず彼はナロードニキ→メンシェヴィキ→調停派→ボリシェヴィキと渡り歩いた革命的渡り鳥であった。そのうえボリシェヴィキ入党は第二次革命渦中の1917年のことにすぎなかった。この点で、スターリンが初めからボリシェヴィキで一貫していたことと比べ、党歴に弱みがあった。
 また性格の点でも、レーニンから指摘されたように、トロツキーには自己過信の強い自惚れ屋の一面があった。このような性格は当然、同志たちから好かれず、党内で多数派を形成することに失敗する要因ともなった。
 さらに理論面でも、彼の長期的スパンを伴う世界革命論にはどこかメンシェシェヴィキ的な革命待機論の響きが感じられ、単純明快なスターリンの一国社会主義論と比べて魅力に欠けたのであった。とりわけ早く新しい革命事業をやりたがっていた若手党官僚たちにとってはそうであった。
 最後に、あまり言われないことではあるが、トロツキーのユダヤ系富農という出自も看過できないマイナス要素であったろう。元来、ボリシェヴィキは母方から一部ユダヤ系の血を引くレーニン自身を含め、多くのユダヤ系党員を擁していたから、党内的にはユダヤ系出自は直接に問題視されることはなかったが、ロシア社会全般ではユダヤ人差別の存在は覆うべくもなかった。
 実際、第二次革命とその後の内戦期にも動乱に便乗したユダヤ人に対する集団暴行・虐殺事件(ポグロム)が頻発していた。こういう状況では、ユダヤ人がロシアを中核とするソ連の指導者となることにはロシア人の反感が予想された。それに加えて、富農はボリシェヴィキにとって打倒対象であるはずであった。
 こうしてトロツキーは24年のレーニンの死の直後から坂道を転げ落ちるようにして失墜させられていく。まず25年に陸海軍人民委員(国防相)を解任されたのを皮切りに、27年の党大会で党・政府の全役職を奪われたうえ、29年には国外追放の身となり、流浪の末最終的にメキシコまで流れていかなければならなかった。それでも敵の魔手を逃れることはできず、40年、ついにメキシコで暗殺されてしまうのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第65回)

2013-03-28 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

レーニンとスターリン〈2〉
 政策的な面でスターリンがレーニンを裏切ったと言えなくないのは、ネップを早々と廃止して農業の全面的集団化に踏み切ったことである。
 しかし、ネップは元来、農民反乱を抑えるための慰撫策の側面が強かったうえ、レーニン存命中から農民の売り渋りによる食糧難という新たな問題を抱え込んでおり、とうてい持続可能な政策ではなかったのである。
 もっとも、そこから一挙に農業集団化へ飛躍したことで新たな農民反乱を招くこととなったが、元来ボリシェヴィキの農業綱領は土地の国有化を前提とするものであったし、スターリンの農業集団化政策の中で基礎的な単位集団と位置づけられた協同組合(コルホーズ)はレーニン最後の論文の中で提示されていた協同組合構想にも十分合致する制度であった。
 農業集団化に合わせてキャンペーンを打たれた「階級敵としての富農絶滅」は農民反乱を鎮圧するための公安政策であり、実際、集団化に抵抗する農民は「富農」の烙印を押されてシベリア送りや財産没収の対象とされた。このような抑圧もレーニン時代の食料割当徴発制の時に用いられた手法の応用にほかならなかった。
 他方、1928年度から始まった第一次五か年計画も、ネップ期の21年に設置されていたゴスプランの記念すべき初仕事であった。
 こうしてみると、ネップの廃止もその時期の問題はともかく、レーニンの遺志に反するようなものではなく、レーニン政権が存続していたとしても、いずれは実施されるはずのことだったのである。
 政治路線的な面では、スターリンが当初ソ連一国でも社会主義の建設が可能だとする一国社会主義から第二次世界大戦を経てソ連中心の帝国主義的膨張へ転回していったことも、レーニンからの逸脱として論議の的となってきた。
 しかし、一国社会主義もレーニンが第一次世界大戦中の1915年に書いた論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」の中ですでに提起していたことであった。彼はこの論文の中で、資本主義の不均等発展の法則を立て、そこから初めは少数または一つの国だけで社会主義を建設することも可能だと論じていたのである。
 しかし、図らずもドイツ革命が連鎖的に起きたため、レーニンもドイツ革命支援の目的を込めてコミンテルンの設立を急いだのであったが、臨機応変の無原則主義者であった彼はトロツキーのように世界革命なくしてソ連の社会主義建設は進まないとまでは考えていなかった。
 スターリンはレーニンの理論を教条化することができる程度にはレーニン理論を学習していたのであって、世界革命論で理論武装したトロツキーへの対抗上、レーニンの一国社会主義論を引っ張り出してきたのである。従って、これも決してスターリンがレーニン路線から逸脱したのではなく、レーニン路線の継承なのである。 
 しかし、そこから新帝国主義へ転回していくのはさすがにレーニンとは無縁のように見える。ここにはスターリン政権初期の工業化の進展と第二次世界大戦を通じてソ連がアメリカのライバルとして急浮上していくというレーニンも予見できなかった新しい国際政治経済状況が関わっている。
 とはいえ、レーニンとボリシェヴィキを支援する各国政党の国際組織として始まり、実際レーニンの「テーゼ」を追認ばかりしていたコミンテルンは、すでにしてインターナショナリズムならぬインペリアリズムの芽となりかけていたのではないだろうか。
 最後に、本質的に実務者であったスターリンが苦手とした哲学的な基礎理論の面でも、彼は弁証法をひどく単純化して対立物の統一という原理に限局しようとしたとの批判がある。しかし、これについても、エンゲルスによる弁証法の図式化をいっそう進めて弁証法の核心を対立物の統一に見ようとしていたレーニンの未完の書『哲学ノート』をスターリンはやはり“学習”していたに違いない。
 以上の検討からして、スターリンはレーニンの背信者などではなく、実は案外忠実な相続人であったことが理解される。本来、スターリン主義とはレーニン‐スターリン主義と連記されてもよいものであったのである。
 そう理解することで、今日何かとソ連体制の元凶として非難されがちなスターリンの名誉回復ともなろうというものである。同時に、そう理解することで、レーニンをスターリンから切り離して讃美することもできなくなり、スターリンの暗部はレーニンの暗部と二重写しになってくるはずである。
 スターリンは特異な個人崇拝体制を築いたが、これも彼が神格化したレーニンの威を借りて初めて可能となったことであった。スターリンとはレーニンという死んだトラの威を借りたキツネにすぎなかったのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第64回)

2013-03-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

レーニンとスターリン〈1〉
 レーニン死して、後継争いを制したスターリンの時代が到来した。世上しばしば「レーニンの正しい路線をスターリンが歪めたために、ソ連体制は最終的に失敗した」と言われてきたが、このような評価は果たしてどの程度妥当するのであろうか。
 スターリンが加えた歪みとして筆頭に挙げられるのは、生前レーニンが警戒していた党官僚制を肥大化させて党と人民大衆との著しい乖離を生じさせたことである。
 しかし、党官僚制はレーニンの持論であった中央集権的党組織論から必然的に生ずるものであって、レーニンと無縁のものではあり得ない。党中央委員会を頂点とするヒエラルキー的党組織は、党が政権を担うようになればそれ自体が国家官僚制の類似物に転化することは必定であり、10月革命後のレーニン自身もそうした党官僚の頂点に立ったわけである。
 ただ、レーニンは党官僚制に対する防波堤を労働組合に求めようとしていた。彼は労組を長期的に見て「すべての労働者に国民経済を管理すること」を教える「共産主義の学校」ととらえ、実際ネップ期には労組の自立性が相対的に保障されていたのである。
 しかし、労組にそこまでの役割を期待するのは、マルクスが労組に賃労働制廃止、つまりは革命的な役割まで期待していたことと同様、過大な要請であった。まして党官僚制がすでに強固に形成されつつある中、労組も党の支配下に置かれてしまっている状況で、労組に対抗力を期待することはほぼ不可能であったと言ってよい。スターリンはそういう現実を、自らも古参の党官僚として十分に理解していたのである。
 党官僚制の問題とともに、スターリンのレーニンに対する裏切りと非難されてきたのが、有為の人材の大量喪失を招いた「大粛清」である。
 この点、今日ではレーニン時代にも前に述べたような「赤色テロ」による大量抑圧があったことが明らかになっている。ただ、レーニンの「赤色テロ」は党外の反革命勢力に向けられたものであったのに対し、スターリンの「大粛清」はまさに粛清、つまりは党内の反対派(と彼が疑った者)に向けられた内部テロであった点に大きな違いがある。
 しかし、レーニン時代にもすでに帝政ロシア秘密警察のスパイであったことが発覚した党幹部マリノフスキーに対する粛清という一件があったし、「大粛清」で多用された秘密警察―当時は内務人民委員部(NKVD)と改称されていた―を動員した裁判なしの、または略式裁判による収容所送致や銃殺といった方法は、すでにレーニン時代の「赤色テロ」でも使われていた適正手続無視の手法をスターリンが学習し、いっそう拡大・応用したものにすぎなかった。
 それにしても、レーニン存命中にはこれほど大がかりな内部粛清はあり得なかったと言われるかもしれない。現象的に言えばそうであるが、内部粛清の理論的な淵源がレーニンの「鉄の規律」という党組織論にあることは否めない。「鉄の規律」は党内の異論派への非寛容を生み出し、粛清的雰囲気を高めるのである。
 実際、「大粛清」の序曲となった1936年‐37年のいわゆる「見世物裁判」で真っ先に標的にされたのは、10月革命蜂起に反対してレーニンが一時除名を検討したカーメネフとジノヴィエフであった。彼らは当時海外に亡命していたトロツキーと結託して反ソ活動を行ったとする虚偽の自白をさせられ、銃殺されたのであるが、彼らの粛清は20年前のレーニンの意思に基づくと見ることもできる。もっとも、レーニンは彼らの党からの抹消を望んだだけで、地上からの抹消を望んだわけではなかったのであるが。
 ちなみに、この「見世物裁判」で粛清された今一人の古参幹部は、スターリンが対トロツキー闘争の過程で一時手を組んだこともあるブハーリンであったが、彼もレーニン最晩年にレーニンから弁証法に対する無理解を指摘され、後継候補から事実上外されていた。
 こうしてみると、スターリンはレーニンからも問題視されたことのある人物たちを彼なりの仕方で最終的に“始末”したのだとさえ言えるのである。
 ただ、スターリンの「大粛清」が極端な広がりを見せたことは、彼の個人的な性格によるところも大きかったのは事実である。スターリンの性格の特異性は極端なまでの猜疑心の強さにあった。スターリンは他人の些細な態度や言動の中に不忠と裏切りの臭いを嗅ぎ取るのであった。おそらくそれは晩年のレーニンが指摘した粗暴さよりは、むしろ小心さの表れと見るべきものであろう。
 そうしたスターリンの小心さが当時ヨーロッパ方面におけるドイツ、極東における日本の脅威が高まり、第二次世界大戦の足音が迫る中、彼の猜疑心を病的なまでに増幅させていたのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第63回)

2013-03-14 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン

レーニン神格化政策
 レーニンの死後、彼に対してソ連当局がとった態度は神格化と呼ぶにふさわしいものであった。そして、このようなレーニン神格化政策を主導したのが他でもないスターリンだったのである。
 彼は死の直前期のレーニンと不和になり、個人的な性格を論文の中でなじられるという屈辱を受け、内心レーニンへの反感が募っていたはずであるが、間もなく始まるであろう後継者争いに打ち勝つため、さしあたりレーニンを神格化して自らレーニンに最も忠実な弟子であることの証しを立てなければならなかった。
 生前のレーニンは明確な後継指名をしていなかったが、病床で筆記させた最後の論文の一つで、トロツキーとスターリンの名を挙げ両人の協力を要請していたことから、この二人に的を絞っていたことは間違いない。
 しかし、死の直前のレーニンがスターリンと激しく対立したことからすると、トロツキー株が上がっていたように見えた。もっとも、トロツキーの弱点は元来メンシェヴィキであり、ボリシェヴィキに正式に加入したのは、第二次革命の時であるにすぎないことにあった。
 となると、スターリンがトロツキーとの違いを際立たせる道は故レーニンへの絶対的忠誠と帰依を見せつけることであった。そこで彼はレーニンの遺体の保存措置に関する党政治局決定を主導し、レーニン廟の建設を推進したのである。そして、いち早く「レーニン主義の基礎」という論文を発表してレーニン思想の教条化にも着手した。
 こうしたレーニン神格化政策の効果は大きく、もともとレーニンに対する忠誠心にいくぶん疑問の持たれるトロツキーとの後継争いで優位に立つことに成功した。そのうえで、彼はかつて10月革命時には軍事蜂起に反対してレーニンの不興を買ったカーメネフとジノヴィエフを味方につけてトロツキーを少数派に落としておいて、1927年の党大会ではトロツキーとともにコミンテルン議長ジノヴィエフも追い落として権力基盤を固めたのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第62回)

2013-03-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

ロシアの労働者と農民がヴェ・イ・レーニン率いる共産党の指導の下に成し遂げた10月社会主義大革命は、資本家と地主の権力を打倒し、抑圧の鉄鎖を打ち砕き、プロレタリアートの独裁を確立し、新しい型の国家にして革命の成果の防衛及び社会主義と共産主義の建設の基本的な手段であるソヴィエト国家を作り出した。資本主義から社会主義への人類の世界史的転換が始まった。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法前文第一段


(1)レーニン死去

早かった死期
 
レーニンは大規模な内戦・干渉戦がようやく終息に向かった1920年に50歳を迎えた。まだ老いる年齢ではなかったが、体制の基盤が固まるのに反比例してレーニンの健康は衰えていく。
 彼は22年4月、18年の暗殺未遂事件の際の銃撃で肩に打ち込まれた銃弾の摘出手術を受けたが、その直後の5月と12月に二度にわたって脳梗塞と見られる発作を起こした。
 その年末にはかの「グルジア問題」をめぐってグルジア人のスターリンと対立し、「レーニンの遺言」として知られる最後の論説の中で、スターリンの性格を「粗暴」と評し、党書記長からの解任を検討するが、実現しなかった。
 スターリンとの対立は翌年もう一度発生する。今度は病状が悪化したレーニンを政治活動から遠ざけ、党中央で治療管理する方針を決めたスターリンがクループスカヤ夫人に対しレーニンに政治活動をさせないよう求めたことを妻への暴言と受け止めたレーニンが激怒し、スターリンに謝罪か絶交かを迫ったのだ。
 レーニンの病状を考えると、彼の態度は過剰反応とも言えるものであったが、このエピソードにはレーニン夫妻の一心同体的な絆の深さが表れている。レーニンが壮健だった頃の二人は苦難に直面すると、散歩や山歩きをして支え合うような間柄であった。そこにはマルクス夫妻とも似た関係が見られた。
 それだけにレーニンは自分を遠ざけようとするスターリンの政治的な野心を嗅ぎ取った以上に、妻に対するスターリンのぞんざいな物言いを自らに対する侮辱と受け止めたものと見られる。
 この一件の後、23年3月、レーニンは三度目の発作を起こしてついに言語機能を喪失し、事実上政治生命を絶たれた。これはレーニンの病状が一時的でも回復するようなことがあれば解任が現実のものとなったかもしれないスターリンにとっては幸いなことであった。
 翌24年1月、四度目の発作を起こして意識を失ったレーニンは、同月21日、息を引き取った。53歳での死はマルクスよりも10歳以上若かったが、その後の取り扱いはマルクスと雲泥の差があった。
 レーニンの葬儀は荘重な国葬として執り行われたうえ、党政治局の決定により遺体は永久保存措置を施され、特別に建設されたレーニン廟に納められ、今日に至るまで一般公開されている。
 旧都ペテルブルクはソ連邦解体後にほぼ旧名のサンクト・ペテルブルクに戻されるまで、レーニンにちなむレニングラードと改称されていた。彼の郷里シンビルスクもレーニンの本姓ウリヤーノフにちなむウリヤーノフスクと改称され、こちらは現在でもそのままである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第61回)

2013-02-25 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として(続き)

上意下達政治
 為政者としてのレーニンの統治スタイルは上位下達のワンマン政治であった。このやり方は革命家時代からの彼の習慣であって、党内権力を確立してからの彼はいつも一人で決め、起草した文書を「テーゼ」と名づけて定言命法的に通達し、機関決定を迫るのであった。これは要するに、レーニンの指導への服従命令を意味していた。
 こういうワンマン・スタイルが如実に表れたのが、2月革命直後に帰国した際に示したかの「4月テーゼ」であった。この時はさすがに党内から反発が出て大いに紛糾を来たしたことはすでに見たとおりだが、それでも彼は異論派をねじ伏せて自らの「テーゼ」を貫徹したのである。
 このような手法は為政者となっても本質的に変わらなかったが、それは必然的に側近政治につながり、レーニンと彼の取り巻きで構成された党指導部の専制が党の基本的な運営スタイルとして定着していく。
 レーニンが確立し、その後世界の共産党の党運営の鉄則となったいわゆる民主集中制も、所詮は党指導部独裁、それも多くの場合、最高指導者の個人的独裁のイチジクの葉として機能してきたにすぎない。その点では、ブルジョワ保守系政党の方がより民主的な党運営を行っていることも珍しくない。
 レーニンは従来、あまり「独裁者」と呼ばれてこなかったが、彼はまぎれもなく独裁者であり、こう言ってよければ社会主義の衣を着た新ツァーリですらあった。にもかかわらず、彼が独裁者呼ばわりされることを免れているのは、その統治期間が短かったことに加え、後継者スターリンの長期にわたった独裁ぶりが度外れに悪名高いがために、前任者の独裁が霞んでしまったからにすぎなかった。
 その二代目スターリンは能吏タイプの党専従活動家としてレーニンの信任を得、若くしてレーニン側近となってその統治スタイルを着実に“学習”し、身につけていったのである。ただ、彼が党内権力を掌握するためには、レーニンの発病というチャンスがめぐってこなければならなかった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第60回)

2013-02-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として(続き)

無原則主義
 政策決定者としてのレーニンを特徴づけるのは、その時々の情勢に応じて施策を使い分ける状況判断であった。
 この特徴は革命家時代には臨機応変な情勢判断に基づき10月革命を成功させるうえで大きな力となったものであるが、為政者としてはまさに「一度握った権力は手放さない」と誓ったとおり、権力を保持するうえで極めて有効であった。
 このようなレーニンの流儀は確固とした原則を持たない無原則主義の現れにほかならなかった。これは、一定の原則を持ちつつも状況次第で動揺し、軸がぶれていく動揺分子的な立場とも、またおよそ態度表明せず、状況に応じて自己の利益に適う立場を選択する日和見主義とも異なる、まさに「レーニン主義」独自の特質であった。
 こうした無原則主義も、個別具体的なケースごとに対処法を選択していく法律家的な発想と手法に由来するものと取れないことはない。それは善解すれば「柔軟」ということになろうが、民衆の生活に直結する基本的な経済政策があまりに「柔軟」に変動すると、社会的な混乱のもととなる。
 レーニン政権の経済政策は当初、「戦時統制経済から社会主義へ」というテーゼに沿って「戦時共産主義」と称される統制経済からスタートするが、その結果、各種工場や銀行の急激な国有化のために経済が大混乱に陥ると、内戦・干渉戦終結後、今度は中小企業の私的営業の容認や独立採算制の導入まで含んだ「新経済政策(NEP)」に転換する。
 しかし、事実上資本主義原理を容認し、社会主義に逆行するようなネップが党内で批判されると、レーニンはプロレタリア国家の統制と規制の下に置かれた「国家資本主義」なるマルクスにはない新概念を持ち出して正当化を図った。
 一方では、社会主義とも辻褄を合わせるため、ネップへの政策転換と同時に経済計画の立案・実施機関となる国家計画委員会(ゴスプラン)をも設立した。さらに、まだネップ期にあった死の直前の頃にまとめて書いた五論文の一つでは、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を「文化革命」と呼んで後世に託してもいる。
 こうしたレーニン流無原則主義は経済問題のみならず、民族問題や宗教問題といったよリデリケートな領域でも発揮されている。
 特に民族問題に関わる彼の無原則主義が大きな政争に発展したのは、ソ連邦結成に際して生じた「グルジア問題」であった。グルジアのソ連邦への参加方法をめぐっては、独立してソ連邦に参加することを主張する民族派と、「自治共和国」という形式で参加することを主張するスターリンらロシア寄りグループの対立があったが、レーニンはそのどちらも支持せず、カフカス地域を包括するザカフカス共和国に編入して参加させる方式を提案し、党に認めさせたのである。
 彼はスターリン案を「大ロシア主義」と批判しながら、自らの案もグルジア人の民族自決を認めず、ロシア中心の連邦構成を目指したものにすぎなかった。レーニンはソ連邦を構築するに当たっては、かつてローザとの論争で高調した民族自決云々よりも、明らかに資源をはじめとする帝政ロシア以来の経済的権益の方を優先していたのだ。
 宗教問題に関する無原則主義もまた鮮明であった。レーニンの宗教認識が最も鮮明に現れているのは、第一次革命の渦中で書かれた1905年の「社会主義と宗教」という論文である。そこでの彼は宗教を人民の阿片とみなすマルクスの認識を継承しつつも、宗教に対しては「穏やかで、自制力のある、寛容なプロレタリア連帯性と科学的世界観の宣伝を対置する」との指針を示していた。
 ところが為政者としては、レーニン政権がコミンテルンの活動資金に充てるため、ロシア正教会の財産の没収を強化していたことに抗議する信徒らの暴動を契機に、1922年にはロシア正教会の弾圧に乗り出し、聖職者の処刑を断行したのであった。その20年近く前の論文における「寛容」な宗教対抗策は、現実の宗教暴動の鎮圧と帝政ロシアの精神的支柱であった正教会の打倒という政権課題の前では棚上げにされたのだ。
 レーニンの死の三年後に自ら命を絶つ芥川龍之介が遺作「或阿呆の一生」の中に書き付けた次のような詩的なレーニン評は、レーニンのしたたかな二枚舌、三枚舌の無原則主義を鋭い文学的直観で的確にとらえていたように思える。

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第59回)

2013-02-22 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として

抑圧と収奪
 10月革命後の為政者としてのレーニンの統治期間は6年余りにすぎず、彼の履歴においては革命家としての活動期間が圧倒的に長いことから、従来為政者としてのレーニンの特質についてはあまり正面から検証されてこなかった。
 しかし、レーニンはまぎれもなく10月革命後のロシア及びソ連時代の最高権力者であった。そういう最高権力者としてのレーニンの特質として目を引くのは、抑圧と収奪とに対するためらいのなさである。
 レーニン政権による抑圧は10月革命の直後から始まっている。前にも述べたように、10月革命の三日後に革命を強く批判する声明を出したプレハーノフは早速翌日ボリシェヴィキ系武装部隊の家宅捜索を受け、フィンランドへの亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキの指導者マルトフは反ボリシェヴィキの活動を続けて秘密警察チェ・カーの追及を受けた。しかし、レーニンも若き日の友を逮捕・処刑することはさすがに気が引けたと見え、マルトフには人を介して亡命を勧めている。レーニンは今や敵となったかつての師や友まで亡命に追いやったのである。
 この点、カール・シュミットは政治的なるものの本質として、敵/味方の峻別という有名な定義を提出したが、革命運動の時代以来、為政者としても敵/味方の峻別に厳格であったレーニンは、まさにシュミット的な意味での政治的なものの実践者であり、このことも敵への報復という形で抑圧を導きやすかったと考えられる。
 こうしたレーニン政権の抑圧はかのエス・エルによるレーニン暗殺未遂事件の後に最高潮に達した。党は「赤色テロ」でもって報復することを宣言し、チェ・カーをフル動員してエス・エルに限らずおよそ反体制分子全般に対する大規模な抑圧に乗り出す。その基本は裁判なしの、または略式裁判による投獄・処刑であった。暗殺未遂後の「赤色テロ」だけでも1万ないし1万5千人が裁判なしに処刑されたと推定されている。
 ソ連時代末期以降の情報公開政策の中で次第にその実態が明るみに出され始めたこうした抑圧は内戦が本格化するとむしろ常態化して恐怖政治の手段となり、内戦が終息し社会が安定化しても、体制の体質として残されたのである。
 こうした点で、レーニンはマルクスよりもフランス革命時のジャコバン派指導者ロベスピエールの方に似ていたし、彼自身それを意識していた形跡もある。
 ここで、レーニンもロベスピエールも法曹(弁護士)であったのになぜかくも法を軽視することができたのかという疑念も浮かぶが、実のところ、彼らは法律家であったからこそ、法を軽視できたのである。
 彼らはともに「緊急は法を持たず」という法格言の忠実な実践者であった。国家権力は法に基づいて行使されなければならないという「法治」とは平時の原則であって、緊急時の国家は法を超越して行動することが許される━。これが上記格言の趣旨である。前皇帝一家に対する裁判なしの銃殺処分も赤色テロも、その観点からしてレーニンにとっては少しも良心のとがめるところではなかったのである。
 もう少し政治的な観点から眺めると、例外状況に関して決定を下す者をもって主権者と定義した前出カール・シュミット的な意味において、レーニンはまさしく主権者=最高権力者だったのであり、彼の体制において人民は主権者ではなかったのである。
 レーニンは抑圧に加え、すでに言及した農村の食糧割当徴発制のような収奪もためらわなかった。ここでも農民が対抗手段として食糧隠匿に走ると、人民の敵たる「富農」との烙印が押され、抑圧の対象とされた。この政策は内戦前に導入されたものではあったが、内戦が本格すると「戦時共産主義」という例外状況の中で、いよいよ大っぴらに抵抗勢力に対するテロルを伴いつつ展開されていった。
 この間、レーニンの傍にあって、冷徹な彼の抑圧と収奪の手段を逐一“学習”していたのが、かのスターリンなのであった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第58回)

2013-02-13 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」(続き)

苦い「勝利」
 レーニンのマルクス主義の師であったプレハーノフは、10月革命の三日後にザスーリチらと共同で発表した公開状の中で、10月革命を「史上最大の厄災」と論難し、それは結果として内戦を誘発し、2月革命の到達点よりもはるかに後方へ後退するだろうと警告したが、この警告は的中した。
 第一次大戦の終結から間もなく勃発した内戦・干渉戦は、大戦とそれに続く革命の激動の中にあってただでさえ疲弊していたロシア経済にダブル・パンチ的な打撃を与えたのだった。
 内戦・干渉戦が終息に向かった1920年には大工業生産高は戦前の七分の一、農業生産高も同二分の一に低下していた。燃料不足も深刻で、出炭量は戦前の三分の一、石油採取量は同五分の二という惨状の下、多くの工場が稼動停止に追い込まれていた。20年初夏にヴォルガ河流域で発生した飢餓では数百万人に上る死者を出した。
 こうした苦い結果を伴いながらも、レーニンとボリシェヴィキ党は「勝利」した。まずは日本を除く連合国の干渉軍が19年末から20年にかけて順次撤退していくと、元来まとまりを欠く地方軍閥勢力の寄せ集めにすぎなかった白衛軍の勢力も退潮していき、最後までクリミア半島を拠点としていた勢力が国外へ放逐されると、ほぼ内戦も終息したのである。
 しかし、それで落着ではなかった。内戦・干渉戦を勝ち抜くためにレーニン政権が導入していた「戦時共産主義」という名の統制経済、中でも内戦突入のきっかけとなった18年の左翼エス・エル反乱の原因でもあった食糧割当徴発制に対する農民の不満が20年から21年にかけてタムボフ県で爆発した。
 かつて10月革命を下支えした農民革命の原点の地で起きたこの反乱にはまたしてもエス・エルが絡んでおり、5万人の武装した農民たちが決起し、農村の共産党員らを殺害した。
 これに続く21年2月末から3月中旬にかけては、「共産党独裁」を公然批判し、社会主義への道を開く労働者階級自身による「第三革命」を呼号するクロンシュタット要塞の水兵反乱が発生した。
 こうした大規模な武装反乱を容赦なく鎮圧しながらも、レーニンはクロンシュタット反乱の渦中に開かれた第十回党大会で、食糧割当徴集制に代えて、農産物の市場取引を認め現物税を導入することを柱とする新経済政策(NEP)への移行を決定したのである。
 「我々はひとたび権力を握ったら、手放すことはしない」と誓ったとおり、レーニンと彼の党の特質は政治生命力の強さにあった。しかも、かれらは破局的な内戦・干渉戦を通じて権力を単に守り通したばかりでなく、焼け太り的に増強さえしてみせたのだった。
 まさに内戦・干渉戦最中の19年3月に開かれた第八回党大会で、党はソヴィエトにおいて「自らの完全な政治支配を達成する」という野心的な宣言が採択され、これに基づきソヴィエトの骨抜きと党への従属化が徹底されていく。実は先のクロンシュタットも最後まで残っていた自立的な地方ソヴィエトの拠点だったのである。
 同時に、レーニンと党は革命以降旧ロシア帝国領内で進行していた民族独立の動きにも歯止めをかけていった。その手始めは10月革命直後ウクライナ人民共和国を宣言していたウクライナの独立運動を武力で鎮圧したことであった。そして、各地に傀儡的に設立された民族別共産党をすべてロシア共産党中央委員会の支部として回収していった。
 その仕上げが22年の連邦条約をもって創設されたロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカスの四共和国で構成するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)であった。この連邦体において構成共和国相互は対等の関係にあると説明されていたが、どう見ても中心にあるのはロシア共和国であり、ソ連邦は社会主義の衣を着たロシア帝国にほかならなかったであろう。
 民族問題の観点からながめると、ロシア内戦とはレーニンとボリシェヴィキ党がロシア革命のもう一つの底流を成していた民族独立革命を抑圧し、分離しかけていた周辺諸民族を再征服してロシアの帝国的統一を回復・維持する戦いであったとさえ言えるのである。
 最後に、内戦・干渉戦という国家的非常事態は、レーニンと党指導部に超法規的な万能権力を与えた。18年7月16日には、エカチェリンブルクで囚われの身となっていた前皇帝ニコライ・ロマノフと未成年子を含むその家族6人が白衛軍による身柄の奪還を防ぐとの名目で、党中央委員会の指令に基づき銃殺された。これは正式な司法手続きなしの超法規的処刑、要するに政治的虐殺にほかならなかった。しかし、この重大な一件は、ボリシェヴィキ的万能権力の作動のほんの手始めにすぎなかったのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第57回)

2013-02-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」(続き)

コミンテルンの設立
 レーニンがドイツとの講和問題に際して「革命戦争」に否定的であったのは、相手方ドイツにおける革命の可能性に対して悲観的であったからである。
 ドイツ社民党主流は改良主義化していたし、古代ローマで奴隷反乱を起こしたスパルタクスにちなんで「スパルタクス団」という勇ましい名称を持つ分派を形成していたローザのような革命的左派も、前述したように大衆の自発性を神秘化する受動的な立場に終始しており、ボリシェヴィキに相当する勢力はドイツに見当たらなかった。
 ところが、そのドイツで1918年11月、水兵反乱をきっかけに革命が起き、帝政が倒れる。兵士と労働者はソヴィエトにならってレーテ(評議会)を結成し革命の拠点としていた。臨時政府はブルジョワジーと妥協する社民党右派の手中にあったが、カール・リープクネヒトやローザらスパルタクス団のメンバーも釈放され、19年1月にはドイツ共産党を立ち上げた。ここまではロシア2月革命と似ていた。
 レーニンはドイツ革命の報に接した時、エス・エルによる暗殺未遂事件で負った怪我の療養中であったが、予想外の出来事に欣喜雀躍し、ドイツ革命を支援するため赤軍(新政府軍)の増強方針を打ち出した。
 同時に当時内戦・干渉戦に直面していたロシアの国際的孤立状態を打開するため、世界の共産主義政党の国際組織として共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立を推進した。
 ただ、ドイツ革命は前にも触れたように、反革命化した社民党政府が1月、ローザらドイツ共産党指導者を虐殺してブルジョワ革命の限度で収束したため、19年3月にモスクワで開かれたコミンテルン第一回大会はローザらへの追悼大会を兼ねたものとなった。
 コミンテルンは第一次大戦を機に解散していた第二インターに続く第三インターと通称されることもあるが、レーニンが参加資格を限定したため、結局はレーニンと18年3月にボリシェヴィキから改称されたロシア共産党とを支持する各国政党の連合組織にすぎなかった。
 それはカウツキーに代表される第二インターの理念はもちろん、「労働者階級は労働者階級自身の手で闘い取られねばならない」というマルクスのテーゼを基本として組織された元祖第一インターの理念からも遠く隔たったレーニン主義党の指導による世界革命のセンターとなるべきものなのであった。
 実際、レーニンはコミンテルン第一回大会ではカウツキーから寄せられていた「独裁」批判に対する痛烈な反論書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』をベースに、彼の理解によるプロレタリアート独裁の理論―その概要については第1部第5章(4)で先取りしてある―に基づく「ブルジョワ民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼと報告」を全会一致で承認させた。
 続いて20年7‐8月にコミンテルン第二回大会向けのテクストとして執筆した著作『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、レーニンは改めて故ローザらドイツ共産党の誤りを取り上げ、かれらが「大衆の党」か「指導者の党」か、「大衆の独裁」か「指導者の独裁」かという問いを立て、自然発生的に下から盛り上がる大衆の革命に期待する「大衆の党」「大衆の独裁」という自己規定によって結局敗北していったと分析する。
 彼はこうした傾向を「プチブル革命性」と呼んで批判したうえで、革命的プロレタリアートの団結を保持し、ブルジョワジーとの闘争に勝ち抜くためには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が基本的条件であることを力説し、10月革命に勝利したボリシェヴィキの「鉄の規律」と自らの指導の正しさとを自画自賛するのであった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第56回)

2013-02-07 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エルの女性テロリストが銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初は事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米国軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年10月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。

コメント