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近代革命の社会力学(連載第215回)

2021-03-29 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(1)概観
 第二次世界大戦で連合国側に与した諸国と枢軸国側の日本との攻防戦が展開された東南アジアでは、大なり小なり、日本軍の侵出という言わば横槍が連合国側列強諸国の各植民地において独立運動を刺激する触媒の役割を果たしたと言える。ただ、その発現の仕方は、大戦の戦況とも絡み、植民地ごとに異なる。
 ベトナムの独立運動は元来の宗主国であるフランスとともに、新たに進攻してきた日本に対しても向けられ、抗仏=抗日運動として発現し、最終的には日本の敗戦を契機として独立革命に進展したことは、すでに見た。
 ベトナムとは正反対に、一貫して日本軍による支援と協働の下に独立運動が展開され、最終的に独立革命に至ったのが、インドネシアであった。
 インドネシアは大航海時代以来、オランダのアジア侵出の拠点として植民地化されており、東南アジアでも最も強固に植民地支配が確立されていた場所であった。インドネシアにおける民族主義の目覚めは20世紀初頭から見られたが、オランダ当局は強権をもってこれを弾圧したため、独立運動は閉塞していた。
 この状況を大きく変えたのが、オランダが日本に対し宣戦布告した後、1942年の日本軍によるインドネシア侵攻であった。この侵攻作戦は短期決戦をもって成功し、オランダ軍が全面降伏したため、これ以後、インドネシアは日本の支配下に移行した。
 日本はインドネシアを東南アジア支配の拠点とするべく、それまで抑圧されていた民族主義を積極的に解放・刺激することで、親日派人材を養成するという策を採った。その結果として、日本軍政下の民兵組織として郷土防衛義勇軍(略称ペタ)が誕生し、この集団から独立革命の担い手の多くが育っていくことになる。
 日本は当初、軍政を敷いていたが、戦局の悪化に伴い、インドネシア独立を容認する方向に舵を切り、後に初代大統領となるスカルノら有力な民族主義者らに独立準備委員会を組織させるも、日本の無条件降伏によって頓挫、植民地奪回を狙うオランダとの間で独立戦争に発展する。
 こうした流れはベトナムとも重なるが、ベトナムではフランスとの間で1954年にまで至る長期戦となったのに対し、インドネシアでは一足早い1949年末には停戦となり、独立が成った。
 その間、戦争と並行して、オランダ支配下で築かれた社会経済構造の転換が急進的に行われたことから、インドネシア独立革命は独立そのものより、独立戦争を通じた社会革命としての性格が強かったとも言える。
 同時に、独立戦争を通じて一等先に連合国側植民地からの独立を果たしたインドネシアは、アジア・アフリカの同様の植民地にも精神的な影響を及ぼし、スカルノはそうした独立運動の象徴的な存在として、後に第三世界運動の指導者の一人ともなった。
 ちなみに、大戦当時は英領インドに編入される形で英国植民地となっていたビルマ(現ミャンマー)では、当初こそ日本軍の協力下で反英独立運動が展開され、一度は日本軍のビルマ攻略にも協力したが、間もなく抗日運動に転化、最終的には連合国側と協力し、英国との交渉により独立を達成している。


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