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近代革命の社会力学(連載第5回)

2019-08-12 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命

(4)一向宗革命体制の構造  
 越中‐加賀の一向宗革命は、数ある一向一揆の中で最も持続的な成功を収め、守護領主の追放と自前の自治政権の樹立にまで及んだ点で異例であった。そのため、特に革命の中心となった加賀は「百姓の持ちたる国」と称されるようになる。  
 しかし、ここで言う「百姓」とは農民を指すのではなく、文字どおり諸々の民衆といった意味合いである。これは、前回も見たとおり、一向宗革命の本質が単純な農民革命ではなくして、浄土真宗信仰を共有しつつ、地元の国人や土豪などが主導したある種のブルジョワ革命の性質を有したことによる。  
 巧妙だったのは、守護の富樫氏を打倒しつつも、時の当主正親に代えて正親の大叔父泰高を名目的な守護として擁立したことである。富樫氏の内訌を利用しつつ、言わば象徴的な領主として富樫氏傍流を立てたのである。これにより、完全な共和政体ではなく、形式上は従来の封建政体を維持したことになる。  
 そうした形式的な領主支配の下で、革命体制最初期は戦闘指揮で功績のあった国人層が集団指導したが、体制がある程度安定化した後、実権を握ったのは、蓮如の子がそれぞれ住職として配置された本願寺系の三つの寺院(賀州三ヶ寺)であった。特に蓮如の三男蓮綱と七男蓮悟が、父蓮如の威光を背景に国主として二頭体制を築き、政治指導した。  
 このように、一向宗革命体制は基本的に祭政一致制であったが、16世紀に入ると、周辺地域への支配力拡大を目指して守護権力への革命戦争を継続する中で、統治の体系化が進む。すなわち、在地国人層の連合組織「郡」を本願寺家臣団兼一向宗中核組織としつつ、末端の信徒集団を「組」にまとめ、軍事化したのである。  
 1518年には革命体制の憲法文書に相当するような法令を定め、ようやく統治の基本が整理される。それは武装・合戦、派閥・徒党、年貢不払いの禁止、本願寺法主の寺院統制権の強化、本願寺系寺院の家格付けを内容とするものであった。
 しかし、こうした本願寺中央主導の「整理」は、元来地方自治的な革命を変質させることにもなったため、末端信徒の反発を呼び、内紛を引き起こした。特に、本願寺中央と賀州三ヶ寺の衝突に発展した1531年の大小一揆では賀州三ヶ寺が粛清され、支配権を喪失した。  
 これを機に、本願寺中央の権力が強まり、中央派遣の代官による直轄統治に移行していく。ただし、越中は賀州三ヶ寺とは決別し、中央と融和したため、独自の自治が認められた。  
 こうして、1546年には金沢に軍事化された要塞寺院として尾山御坊が建立され、本願寺中央支配の拠点となる。これにより、革命体制は地方自治から一種の中央集権に取って代わり、北陸全体への支配権拡大を目指し、朝倉氏や上杉氏ら周辺地域の有力大名をしばしば打ち破る勢いを見せた。  
 このような支配構造の変遷により、一向宗革命は、親鸞子孫による世襲に基づく本願寺を寺院領主とするある種の封建支配に収斂したため、民衆革命としての性格は後退し、民主主義とは遠いものとして確定していったと言える。


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