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近代革命の社会力学(連載第93回)

2020-04-14 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐2〉立憲革命の展開
 トルコ立憲革命の発端は、「統一と進歩委員会」に集う青年将校らの武装蜂起として、1908年に始まった。きっかけとしては、大きな潮流としてロシア、イランで先行していた立憲革命からの触発ということが考えられる。
 ロシア、イランとトルコは地政学的な対立・緊張関係にあり、トルコの革命は先行する革命と直接連動してはいないが、いずれも近代的な立憲思想に基づく専制への抵抗と蜂起という点では、共通の思想的基盤のもとに連続した革命であると言える。
 より直接的には、イギリスとロシアの間で独立運動が起きていたマケドニアの問題が協議され、オスマン帝国がカージャール朝イランのように両大国により干渉される恐れが生じたこともあったと見られる。革命派青年将校は、前回見たように、マケドニア駐留第三軍団を基盤としており、マケドニア問題に敏感だったのである。
 これに対し、30年あまりにわたって専制政治を続けていたアブデュルハミト2世は、当然の反応として、反乱の武力鎮圧に出たが、軍の将兵には反乱将兵への共感も強く、ミイラ取りがミイラになるのたとえ通りの寝返りが起き、武力鎮圧の限界を悟るや、アブデュルハミト2世は一転、憲法の復活を宣言し、妥協した。
 これにより、1876年憲法が30年ぶりに復活施行され、帝国史上初の議会選挙も実施された。通常、ここまでの経過を、革命の担い手の総称にちなんで「青年トルコ人革命」と呼ぶ慣習があるが、実際のところ、これは武装反乱とその結果としてのスルタンの妥協による憲法復活であり、真の意味での革命ではない。
 むしろ、立憲革命は、翌年1909年、アブデュルハミト2世が廃位された時点で、さしあたり完成するとみなすべきであろう。スルタンが廃位される契機となったのは、同年3月31日に発生した反革命クーデター事件であった。
 この事件は、保守的なイスラーム神学生や「統一と進歩委員会」のエリート将校に反発する兵卒、「統一と進歩委員会」内部の非主流派など雑多な不満分子が起こした反革命行動であったが、規模は大きく、「統一と進歩委員会」主流派の多くがいったんは首都イスタンブルを脱出する事態となった。
 とはいえ、雑多な不満分子に統一的な理念はなく、反革命政権を樹立することには失敗し、首都は事実上の無政府状態の混乱に陥った。ここで第三軍団が介入し、首都に進軍して、反革命クーデターを鎮圧した。この鎮圧作戦では、後の共和革命指導者ムスタファ・ケマルも参謀として貢献し、最初の名を上げることにもなった。
 ところで、アブデュルハミト2世がこの3月31日クーデターに関与したという明確な証拠はなかったが、議会は関与を認定し、議会の決議により、廃位されることとなった。しかし、そのまま共和制移行とはならず、アブデュルハミト2世の弟メフメト5世が新たに即位した。
 このような議会によるスルタン追放・交代劇は、17世紀英国の名誉革命のプロセスとも類似するところがあり、いわば近代トルコにおける名誉革命と呼び得るものかもしれない。ただ、その背後で革命派将校の力が大きく働いていたことは、確かである。
 近代トルコの諸革命では、最終的にオスマン帝国を廃した十数年後の共和革命も含め、革命派職業軍人の寄与が大きい反面、文民知識人や民衆の参加は限られており、軍事革命としての性格が強いことが特徴である。このような特徴は、20世紀以降の中近東地域で継起する諸革命にも共通する。


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