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近代革命の社会力学(連載補遺27)

2022-10-07 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(1)概観
 中国最後の王朝体制である清朝を打倒した辛亥革命は清朝の北部及び西部の辺境版図に独立へ向けた蠕動をもたらしたが、その中心はモンゴルとチベットであった。
 この両者は地理的には離隔しているが、中世のモンゴル帝国(元朝)以来、共にチベット仏教を精神的基盤として共有する間柄として、かねて緊密な関係にあり、独立革命に際しても協調的行動を取ったので、ここでは両事象を包括して扱う。
 先行したのはモンゴル(蒙古)であり、1911年10月に辛亥革命が勃発するや、同年12月には外蒙古(現モンゴル国領域に相当)の王公貴族層が決起し、チベット人のモンゴル活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主ボグド・ハーンに推戴し、独立を宣言した。
 このように辛亥革命とほぼ同時的に発生した経緯から、この独立革命は辛亥革命の一部とみなすこともできるが、革命の性格としてはモンゴル人の民族革命であり、また革命の方向性としても活仏を推戴する神権君主制を志向したことから、辛亥革命を契機とする別個の革命事象と見るべきものである。
 他方、チベット独立革命は1912年、清朝崩壊後にチベットの民兵組織が蜂起して清朝のチベット駐留軍を駆逐したうえ、インドに亡命していた活仏ダライ・ラマ13世を帰還させることで成立した。
 こうしてモンゴルとチベットの独立革命は別個に発生したが、辛亥革命で成立した中華民国政府は直ちに清朝の旧辺境版図の独立を承認する立場になく、モンゴル・チベットの独立はなお未確定であったことから、1913年、両国は相互承認条約を締結し、独立の地位を中華民国にも認めさせようとした。しかし、この後の経過では、両国の進路は分かれる。
 チベットは中国大陸革命で成立した中国共産党政権の人民解放軍が進攻・征圧した1950年まで独立を保持したが、モンゴルは独立に難色を示す中華民国と極東進出を狙う帝政ロシアの思惑から、1915年の条約で外蒙古のみが中華民国の宗主権下で自治権を保持するという妥協策に収斂した。
 こうして、モンゴルの独立は大きく制約される結果となり、完全な独立はロシア革命後の1921年、ソヴィエト政府の支援の下、改めてボグド・ハーンを君主とする立憲君主国を樹立するまで待つことになる。
 その意味で、1911年のモンゴル革命は完全な独立を獲得した1921年の再革命に対して、第一次独立革命―実態としては未遂―とみなすことができる。


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