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近代革命の社会力学(連載第42回)

2019-11-18 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(1)概観
 フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけて、フランス軍は兵站基地への利用目的で、周辺諸国を侵略・占領したが、フランス軍の支援と影響下に、フランス革命に共鳴する各国共和派が蜂起し、フランス革命の理念に沿った共和国を建国する動きが生じた。
 その結果、30近いミニ共和国がフランス周辺に樹立された。この動きは、表面上はフランス革命を契機とする連続革命のように見えるが、実態としてほとんどはフランスの衛星国もしくは傀儡国(いわゆる姉妹共和国)に終始しており、独自の革命とはみなし難いものであった。
 ただ、1795年に今日のオランダの原型となるネーデルラント連邦共和国で起きた革命とその結果誕生したバタヴィア共和国はいささか例外的である。
 そもそも、ネーデルラントは、16世紀末、それまで宗主国であったスペインによるプロテスタント弾圧への抗議として北部七州が独立して成立した連邦共和制国家であった。連邦共和制という点では、アメリカ合衆国に先行するが、ネーデルラントではオラニエ‐ナッサウ家が元首たる統領を世襲する準君主制の政体が採られていた。
 当初は州ごとに置かれた統領は専制支配者ではなかったが、その権限は大きく、最大州ホラント州統領のウィレム4世以降、オラニエ本家が全州の統領を兼ね、専制君主化の兆しが見えていた。そうした中、オラニエ家支配への不満が鬱積、反乱も起きていた。
 不穏な情勢下、フランス軍の侵攻を奇貨として、フランス軍の支援を受けつつ革命派が決起したのであった。その結果、オラニエ家の統領を追放し、君主制的共和制という旧体制を廃し、非世襲型の共和国が成立した。これがいわゆるバタヴィア共和国であった。
 この共和国は、統領世襲制のみならず、七州の連合という分権的な体制をも廃して、フランスにならった集権体制を目指した点でも革命的ではあったが、従来の連邦制を維持しようとする勢力との主導権争いというフランス革命では見られない固有の対立軸が現れることになった。
 こうしたバタヴィア共和国も、通常は「姉妹共和国」の一つとみなされることが多いが、フランスからは一定自立して共和政を運営した点で、他の「姉妹共和国」にはない独自性を示したことから、これをフランス革命とは別途、「18世紀オランダ革命」と位置付けることができる。 
 とはいえ、バタヴィア共和国においても、フランス革命の転変するプロセスからの影響は避けられず、かつ上述したような集権派と連邦派の対立も加わり、クーデターが相次ぐ政情不安が恒常化した。
 最終的には、オランダを傀儡化したいナポレオンの干渉を受け、まさに傀儡総督が任命された1805年にバタヴィア共和国は事実上崩壊し、翌年にはナポレオンの実弟ルイを君主とするホラント王国として、正式にナポレオン帝政に編入されていった。


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