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近代革命の社会力学(連載第150回)

2020-09-30 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(4)第一次世界大戦から独立革命へ
 前回見たように、1906年のデンシャワイ事件は地方での偶発的な出来事とはいえ、イギリス支配下の近代エジプトにおける大きな転機となる。ムスタファ・カミルの創始した民族運動は、翌年、ワタニ党として政党化された。もっとも、同党は反英的であったが、革命的ではなく、基本的に立憲君主制を支持する穏健な政党として自己規定していた。
 とはいえ、1910年には、ワタニ党員が親英的とみなされた時のブトロス・ガリ首相を暗殺する大事件を起こすなど、ナショナリズムの先鋭化が進む中、第一次世界大戦を迎える。
 イギリスは、大戦渦中、エジプトに戒厳令を敷き、正式に保護領とすることを宣言した。これにより、エジプトは名目上のオスマン帝国領を脱し、名実ともにイギリスのものとなったが、それは戦時下で大量のエジプト人を生産動員、徴兵動員する狙いと結びついていた。
 こうしたイギリスの帝国主義むき出しのやり方は、それまで知識人層主導だった民族運動を階級横断的なものへと拡大させる契機となった。それに加え、大戦を通じて浮上してきた民族自決の原則も、エジプト人に独立への希求を強めることとなった。
 そうした中で、新たなナショナリズムの波動が生じてきた。ワタニ党は、創設者カミルが結党直後に急死したのに続き、カミルの跡を継いだ盟友モハンマド・ファリードも1919年に死去する不幸に見舞われ、とみに党勢が衰えていた。代わって台頭してきたのは、サアド・ザグルールが創設したワフド党である。
 ザグルールも、カミルと同様、近代法律家であり、イギリス支配下で教育相や法相も歴任した熟練政治家でもあった。党名のワフドは「代表」を意味するように、この党はナショナリストを統合し、エジプト人の代表組織となることを初めから志向していた。
 そうした政略の下、ワフド党はイギリスによるエジプト支配の終了とパリ講和会議にエジプト人代表団も出席させることを要求した。これに対し、イギリスは1919年3月、ザグルールらを逮捕し、マルタ島へ流刑に処する抑圧策に出た。
 これは、かつてのウラービ運動への対処を踏襲したものであるが、今度は成功しなかった。ウラービ運動当時とは異なり、皮肉にもイギリス支配下で教育やメディアが発達していたこともあり、エジプト社会各層が大同し、独立を求めるデモ行動が発生していたからである。それは、当時まだ新しい抗議手法であった市民的不服従の方法によっていた。
 ちなみに、ザグルールの妻サフィヤは、夫の流刑中、党を預かり、女性グループを組織してデモに参加するなど、イスラーム圏で活動が制約されがちな女性の革命参加の中心となった。
 ザグルールの流刑は、こうした社会総体の抗議行動を先鋭化させ、デモやゼネストから暴動にも発展していった。これに対し、イギリスは武力弾圧で応じつつ、ザグルールを釈放した。その結果、ワフド党代表団はパリ講和会議出席を果たすも、民族自決を列強植民地には適用しない連合国の方針に阻まれ、会議を通じて独立を勝ち取ることはできなかった。
 しかし、ワフド党は粘り強く運動を続け、イギリス当局はザグルール再逮捕・再流刑で抑圧を図るも、エジプト民衆の抗議行動を阻止することはできなかった。最終的に、1922年、イギリスはエジプト(スーダン領域を含む)におけるイギリス権益の護持を条件に、独立を認めたのである。
 この交渉はまだ流刑中だったザグルールとの協議を通じて進められ、ザグルールも翌23年になって釈放された。交渉成立までザグルールを釈放しなかったのはイギリス有利に事を進める狙いであり、実際、条件付き独立という妥協を引き出したのであった。
 こうして、ひとまず括弧つきながら、エジプトの「独立」はワフド党の運動と民衆革命の微妙な結合の中で達成されたことになる。一方、イギリスも譲歩せざるを得なかったのは、戦勝国側とはいえ、総力戦となり、国力を消耗する中、ウラービ運動当時のように軍事的な手段によりエジプト支配を完全な形で維持するだけの余力がなかったという事情による。


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