ザ・コミュニスト

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(37)

2015-09-20 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(下)

コミュニスト:いよいよこの対論も最終回を迎えます。最後は「革命の社会学的可能性」がテーマですか。

リベラリスト:一番肝心なことでしょうからね。早速私の結論を言えば、少なくともあなたが提唱されるような共産主義革命の可能性はほぼゼロだろうということになります。

コミュニスト:おおむね予想された回答です。それにしても、そこまで悲観的な理由を改めてお聞かせください。

リベラリスト:そもそも革命というものが、すでに歴史の中の政治現象になっているという事実があります。たしかに、20世紀前半ぐらいまでは様々な革命が世界各地で見られました。我がアメリカ合衆国の成り立ちも革命によっていますし、あなたがたの近代日本を造った明治維新も青年サムライたちが主導した一種の革命でした。ロシア革命も、その名のとおり革命です。しかし、これらはすべて過去の出来事で、二度と繰り返されるものではありません。

コミュニスト:なぜ、そう決め付けられるのでしょう。たしかに、今挙げられたような「武装革命」は過去のものだとしても、私が提唱するような「非武装(非暴力)平和革命」は新たな時代の新たな革命の形態だと思うのですが。

リベラリスト:政治経済の機構が整備されてきた20世紀後半以降の世界において、革命という政治行動は、どのような「形態」のものであれ、ほとんどの人にとって想定外のこととなっているのです。もちろん特定の政権に対する抗議行動なら今も見られ、時に政権崩壊を結果するプチ革命的な行動は見られますが、それはいわゆる革命ではないし、まして共産主義革命などではありません。

コミュニスト:それは事実ですが、しかし今後とも人類は資本主義・市場経済の限界に気づかず、革命的に覚醒することはないと断言できますか。あなたは先ほど、共産主義革命の可能性は「ほぼゼロ」と言われましたが、裏を返せばわずかながら可能性はあるようにも聞こえますが。

リベラリスト:たしかに「資本主義・市場経済の限界」は見えても、一方でその利点についても認識されていて、それは人類にとっての基本路線だというのが地球的な規模での世論ではないでしょうか。もちろん世論は変化しますから、永遠に同じとは言いませんが。

コミュニスト:私は「世論」のような社会心理学的な要素よりも、先ほど指摘された政治経済的な機構の整備という社会物理学的な要素を重視します。たしかに、そうした「機構的整備」が革命の可能性を狭めているのは事実と認めますが、この「機構」はますます地球環境の持続可能性を危うくし、自身の存立基盤をも壊そうとしているのですから、「機構」を根底から変革する必要があるのです。

リベラリスト:私は、地球環境問題を契機に共産主義革命が起こるだろうという予測には否定的です。環境問題は抗議デモの旗印にはなっても、革命には結びつかないでしょう。そもそも自然環境と社会経済とを結びつけて考えるという発想自体が専門家的で、一般大衆はなかなかそのように発想しないものです。

コミュニスト:だとすれば、自然環境は人間の社会経済のあり方とは無関係だという宣伝が資本やそのイデオローグによってなされていることも影響しているでしょう。

リベラリスト:「資本主義経済が地球環境の持続可能性を害している」という命題が大衆にも容易にわかるほどに証明されれば、事情は変化するかもしれませんが、その命題は未証明の仮説の域を出ていません。それが証明されない間は、「機構」を根こそぎ変革しようという動きは出ないでしょう。たとえ証明されたとしても、「全世界での連続革命」などというものは、マルクス以来の机上論です。

コミュニスト:たしかに、マルクスの同時代である19世紀には机上論的であったでしょう。しかし、インターネットを通じたソーシャルネットワークの時代にはどうでしょう。

リベラリスト:私は一般的にソーシャルネットワークの価値は過大評価されていると思っています。インターネット草創期にも「ネットで世界とつながる」なんて言われていましたが、実際はどうだったでしょう。情報言語は世界共通ですが、ネットでも使用される人間の日常言語は世界共通化できず、ソーシャルネットワークでつながっているのは同じ言語を共有する国内にほぼ限られているのではありませんか。むしろソーシャルネットワークを通じて閉鎖的なナショナリズムが力を持つような逆説的現象すら見られるところです。

コミュニスト:たしかにインターネットは言語的障壁を完全には克服できていませんが、その点は多言語による即時翻訳ソフトの開発によって技術的に克服可能だと思います。また理想的とは言えませんが、英語のグローバルな普及はかなりの程度、言語的障壁を補っていると考えられます。

リベラリスト:また悲観的予測で申し訳ないですが、私はラングとパロールに分化する言語の性質上、完璧な翻訳ソフトの開発は困難と見ています。いちおう規則的に規範化されたラングの側面はともかく、個人的な言語運用にかかるパロールの側面でコンピュータは変換不能に陥ってしまうのです。ただし、英語の普及はたしかに言語的障壁の克服に一定役だちますが、英語の運用能力は教育程度によるところが大きく、大衆が自在に英語で世界中とやり取りし、世界連続革命を実行するという構図は空想的に思えます。

コミュニスト:この対論全体を通じて、リベラリズムとは革命的ペシミズムだと改めて認識致しました。

リベラリスト:決して「反革命的」と受け止めていただきたくないのですが、リベラリズムは「革命の前にできることはある」と考える点では、楽観主義なのです。それでうまくいかなければ革命の可能性も検討しようということで、保守主義のように「革命とは国家社会の秩序を破壊する犯罪である」と決め付けて、革命についての議論自体を封じようとするものでありません。ですから、反共主義でもなく、共産主義に関する議論に対しても開かれています。

コミュニスト:その意味では、「自由な共産主義」をめぐる議論は本来最終のないものという趣旨から、最後の「総括的対論」の回には無限記号∞を付しておきました。お相手ありがとうございました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

〔注記〕
当連載で引用されている拙稿『共産論』は、旧版の内容を前提としています。最新版はこちらからご覧いただけます。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(36)

2015-09-12 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(中)

コミュニスト:前回、私が提唱するような貨幣経済を廃した共産主義が現実に成り立つかどうかは、果たして人類が本性とも言える強欲さを放棄できるかどうかという人類学的問いにかかってくると言われました。

リベラリスト:それに関する私の答えは、「放棄できない」です。この点であなたとは大きく意見が分かれるでしょうが、人類の強欲さは後天的あるいは政策的に体得されたものではなく、生来のもので、まだ証明はされていないものの、強欲さに関する共通遺伝子を持っているのではなかろうかと推測しています。

コミュニスト:実際、それは証明されていませんね。たしかに、人類は所有に対する並外れた欲望を共通して保持しているように見えます。しかし、一方でそうした欲望を抑制する精神も持ち合わせていますね。

リベラリスト:ええ。私の理解によると、資本主義とは、そうした所有欲を技術的な法や計量的な経済制度によってコントロールする巧妙な仕組みです。つまり多種多様な物や無形的なサービスに至るまで、物欲の対象となる商品化して貨幣交換によって規律しながら、生産・供給するというシステムです。このように、人類は商品という形で生存のネットワークを築く唯一の生物ですが、これをマイナスにばかり受け止めず、長所ととらえることはできませんか。

コミュニスト:私には難しいですね。必需物資まで商品化するから、貨幣の手持ちが少ない貧困者は必需物資も入手し難くなり、生命の危機さえ招来します。私は交換経済全般を否定はしませんが、物々交換と比べても、貨幣交換は生存権を脅かすシステムです。

リベラリスト:その点は、もう一つの人類的なシステムである福祉で補充すればよいと考えますが、あなたは否定的なのですよね。

コミュニスト:福祉も所有欲の前には常に制限されてしまうからです。その点、共産主義は所有欲を政策的にコントロールするのではなく、地球環境の持続可能性という大きな視座から、福祉をも本源的に包摂するような形でもってこれを昇華しようという革命的な試みだとも言えます。

リベラリスト:持続可能性も一般的に否定するつもりはありませんが、地球そのものが永遠に持続する保証はないわけです。確率として最も高いのは太陽の死滅による地球の連鎖的な死滅です。こうした外部的要因は、人間の手ではいかんともし難い。未来への責任も理念として大切ですが、人類の特性として現在という時間性を最も重視する現世的ということもありますから、遠大な持続可能性論によって所有欲を昇華しようとすることにも限界があると思います。

コミュニスト:どうも、いずれ地球は外部的要因で死滅するのだから、今のうちに搾り取れるだけ搾っておけと言っているようにも聞こえます。これはあなた方アメリカ人の本音ですか。

リベラリスト:それはいささか曲解です。アメリカ人に現世的性格が強いことは認めますが、現世的なのは人類全般の本性です。ですから理念としての環境的持続可能性を否定はしませんが、それも所有欲を規律する一つの契機ととらえるべきで、持続可能性の観点から共産主義へという流れには素直に乗れないのです。

コミュニスト:人類は現世的ではありますが、同時に未来という時間観念も持っています。私はそういう二面性に期待をかけるのですが、甘いでしょうか。

リベラリスト:甘いというか、理想主義だと思います。理想は大切ですが、物事は理想どおりにいかないものです。とりわけ、革命というような一大事になればなおさら・・・・。

コミュニスト:革命の実現可能性は社会学的な検討を要する問題ですので、最終回で議論するとして、人類の本性に関する問いについては、理想主義対現実主義という対立軸によるのではなく、先ほど指摘した人類の持つ二面的な性格をもっと直視し、そうした二面性を止揚するような視座を開拓すれば、資本主義を既定化する狭い観念から脱することができるのでないかと考えるものです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(35)

2015-09-05 | 〆リベラリストとの対話

∞:総括的対論(上)

コミュニスト:本対論もいよいよ終盤に達しましたが、最後にまとめの意味で、総論的な問題について対論してみたいと思います。

リベラリスト:そうですね。今日は中でもかなりメタ・レベルの問題になりますが、あなたの共産論に関する全体的な感想として、意識とか意志のような精神的な要素を重視する唯心論的な傾向を感じます。これは、唯物論のチャンピオンであったマルクス主義とはやや異なる一面のように思え、私も一定共感できなくはない部分なのです。

コミュニスト:いわゆるマルクス主義と直接に比較すれば、たしかに精神的な要素により着目はしています。ですが、唯心論かと言われると、答えはノーということになります。これは『共産論』よりも『世界歴史鳥瞰』序論のほうで「物心複合史観」としてまとめたことなのですが、私見は物質的な要素と精神的な要素の両方を複合的にとらえる総合的な視座に基づいております。

リベラリスト:言ってみれば、折衷説のようなものですが、二つの対立物を折衷する場合、どちらを基盤と考えるかという問題が生じます。あなたの場合は、物質的な要素と精神的な要素といずれを基盤と考えるのでしょうか。

コミュニスト:「折衷説」という理解のされ方は本意ではありません。物心複合論は物と心とを単純につなぎ合わせようというのではなく、そもそも人間存在自体、物質的なものと精神的なものが弁証法的な関係でもって複合された「物心複合体:material-spiritual complex」であるという人間観に基づいているのです。

リベラリスト:たしかに、人間は大半を水分が占める肉体という物質的な要素と脳というそれ自体も物質的な基礎を伴う精神という要素から成っていますから、まさしくおっしゃるような「物心複合体」ですが、人間の場合は、他の動物に比べても精神的要素の比重が高いと思われます。

コミュニスト:精神の発達度にかけて、人間は最も高度な生物であるという限りではそのとおりです。ただ、精神も物質的な基礎なくしては存立し得ない一方で、物質は精神によって作り変えることもできるという意味では、両者の関係は複合的であり、単純な上下/優劣関係にはありません。

リベラリスト:そうですか。しかし、あなたも言われるように歴史=文明の履歴と考えれば、歴史とはある意味で人間の精神史なのです。歴史を物質史に作り変えようとした―そうした改変もまた精神の作用ですが―マルクス主義の誤りは明らかと思われます。

コミュニスト:マルクス主義を自称した後世の論者はともかく、マルクス自身は歴史=物質史というような単純な史観に立っておらず、むしろ生産様式の歴史という経済史を開拓したのですが、時代ごとの生産様式は地球環境や地域の地理的条件といった物質的な条件と生産方法に関する人間の発明という精神的な要素の絡み合いによって決定されますから、経済史はまさに物心複合史観によって初めて正確に俯瞰できるのです。

リベラリスト:その点、あなたの予言によれば、これから始まるであろう人類後半史は富の追求を第一義とするような「所有の歴史」から、よりよく在ること(better-being)・充足が目的となるような「存在の歴史」に変わるであろうというのですが、この点には異論があります。

コミュニスト:つまり「所有の歴史」は今後とも変わらないであろうということですか。

リベラリスト:ええ。これはもはや哲学だけでは解けない問題で、人類学に引き寄せなければならないと思いますが、しばしば強欲と自己批判されるような富の蓄積を追求しようとする人間精神は今後も不変であり、その意味で人類史には前半史も後半史もないというのが私見になります。

コミュニスト:それは大変に悲観的ですが、そもそもリベラリズムという思想はそうした悲観論のうえに立って、経済的な自由―それは資本主義として到達点に達しました―を保持しつつ、それによって生じる不平等・貧困といった弊害は福祉政策で補填するほかはないというペシミズムにほかなりませんから、特に驚くには当たりませんが。

リベラリスト:それだけではなく、伝統的な共産主義者がしばしば軽視してきた言論の自由をはじめとする精神的な自由の擁護もリベラリズムの重要な柱であることは忘れないでください。

コミュニスト:リベラリズムが精神的自由をことさらに強調してみせるのは、一方で人間の強欲さを経済的自由の名の下に擁護しようとすることを隠すイチジクの葉ではないかと思うのですが。

リベラリスト:経済的自由を偏重するいわゆるネオ・リベラリズムと、精神的自由を擁護する本来のリベラリズムとは明確に区別してください。ともあれ、開き直った言い方をするなら、あなたが提唱するような貨幣経済を廃した共産主義が現実に成り立つかどうかは、果たして人類が本性とも言える強欲さを放棄できるかどうかという人類学的問いにかかってきますので、次回はこの問題を取り上げましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(34)

2015-08-29 | 〆リベラリストとの対話

32:本源的福祉社会について⑤

リベラリスト:本源的福祉社会をめぐる対論の最後に、住宅問題を取り上げたいと思います。あなたは、『共産論』の中で従来、住宅問題は福祉の問題ではなく、所有とステータスの問題として認識されており、そうした「住宅階級構造」においては、家賃やローンを通じて「持てる者も持たざる者も、「住む」という人間の生の根幹部分を巡り、債務者という受動的な地位に立たされ、呻吟しているのだ。」と指摘されています。この部分は名言だと思っています。

コミュニスト:そう持ち上げておいて、やはりどこか異論がおありなのでしょう。

リベラリスト:家賃やローンから解放される社会は、誰もが望むところだと思います。これはお世辞抜きで、本源的福祉社会の真骨頂だと思っていますよ。しかし・・・

コミュニスト:しかし?

リベラリスト:はい。本源的福祉社会では、住宅は地方自治体が運営する公営住宅に収斂されるとのことですが、このような住宅政策は「自由な共産主義」というより、「統制的な社会主義」に近いものだと言えないでしょうか。

コミュニスト:どういうことでしょうか。

リベラリスト:貨幣経済から解放される本源的福祉というのなら、住宅を個人で建設するにも金はかからないはずですから、お仕着せの公営住宅に頼らなくとも、マイホームを自由自在に建てられるのではないですか。

コミュニスト:たしかに理念的にはそうも言えますが、一方で土地は誰の所有にも属しない無主物となり、領域圏の公的管理下に移されますから、自由自在に住宅建設ができるわけではないのです。

リベラリスト:私から逆提案するのもなんですが、土地については管理公社から宅地を区分的に貸し出すなりして、個人に提供できるのでは?この場合、理論上は借地も無償のはずです。

コミュニスト:そういう形で、私有住宅を建てることも認められます。しかし環境計画経済のもとでは、資本主義的な大規模宅地開発は行なわれません。特に日本のように山林が多い地理的条件では、いっそう環境計画的な宅地造成が必要です。そのため、一見「統制的」ではありますが、計画的に供給される公営住宅が中心とならざるを得ないのです。

リベラリスト:なるほど、そうなりますと、「自由な共産主義」なるものも、我々アメリカ人の心には今ひとつ届きにくいようですね。

コミュニスト:住宅政策は世界一律である必要はないので、アメリカのような広大な大陸型国家では、ご提案のように管理公社を通じた区分借地権の分与という形で、私有住宅を中心にすえることは可能かもしれません。

リベラリスト:もう一つは疑問というより質問です。あなたの共産主義的公営住宅では「環境‐福祉住宅」という理念のもと、環境的配慮とバリアフリーは行き届くようですが、かつてアメリカで実験されたような共有制に基づく協同体住宅の試みは導入されないのですか。

コミュニスト:共産主義的住宅の運営に関しては、初めから制度化するのでなく、自然に委ねたいと考えています。つまり運営事務だけを協同する管理組合のようなものが発生するか、もっと踏み込んで日常生活を共同するような慣習が生まれるかは、共産主義社会の人々の自由意志に委ねられるのです。

リベラリスト:個人的には、現代のマンション型共同住宅のように、建物だけを物理的に共用しながら、各入居者が蛸壺のような部屋に閉じこもって相互に交流もないという住環境は不健全ではないかと考え、協同体住宅の実験も再発見してみては?と思っていたのですがね。

コミュニスト:たしかに蛸壺型共同住宅は資本主義的な病理現象と見ることもできますが、一方で住宅には他人から干渉されずにくつろげる場所という意義もあり、そうしたプライバシーの観点も無視はできませんから、そのあたりはそれこそ自由に委ねてよいと思うのです。

リベラリスト:どうやら、リベラリストが協同体住宅を志向し、コミュニストがプライバシーを尊重するというねじれが起きたようですね。とはいえ、住宅問題を福祉の問題としてとらえ直すという視点は共有できたと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(33)

2015-08-22 | 〆リベラリストとの対話

31:本源的福祉社会について④

コミュニスト:本源的福祉社会における無償医療制度にご懸念をお持ちのリベラリストさんならば、無償介護制度にも同様のご懸念をお持ちでしょう。

リベラリスト:もちろんそれもありますが、介護に関しては「脱社会化」という理念に疑問を覚えます。つまり施設を廃して、在宅介護中心に変革するというのですが、それではかえって介護は家庭の任務とされた介護の個人化の時代への逆戻りになるのではないでしょうか。

コミュニスト:私が「脱社会化」と言ったのは、やや特殊な意味においてです。このキャッチフレーズは日本で介護を社会保険制度を通して営利を含む民間事業に丸投げしている現状へのアンチテーゼとして述べたもので、普遍性はないのです。言わば、『共産論』日本語版固有の記述ですね。

リベラリスト:それにしても、共産主義的福祉ならば、介護を含めた「福祉の社会化」を素直に打ち出したほうが分かりやすいと思いますがね。あなたは教育に関しては、「子どもたちは社会が育てる」という理念を打ち出していたはずです。

コミュニスト:たしかに教育に関しては親任せにできないので、「社会化」を大胆に進めるべきだと思いますが、福祉に関してはすべてを社会化するのは無理で、やはり日常生活場としての家庭を中心に、しかし介護負担を嫁/娘に押し付けるのでなく、公的介護ステーションのような無償の社会的サービスでサポートするという体制になるのです。

リベラリスト:となると、相当多くの人員を介護に投入しなければならないでしょうが、ここで、冒頭投げかけられたような無償の問題性が出てきますね。介護のようにある意味汚れ仕事や雑用を含む仕事が無償で成り立つかどうかです。

コミュニスト:それは医療に関して述べたのと同じく、志の問題です。無償でもそうした奉仕的仕事に就きたいという人のほうが、単に生活手段として介護職を選んだ人よりも信頼できるでしょう。

リベラリスト:ですが、そんな奇特の人がサービス提供に必要なだけ集まるかどうかですね。私の意見では、人間という生き物は利益志向的であって、報酬なしでは成り立たない職はかなりあると思うのです。

コミュニスト:それは人間観の相違ですね。共産主義的人間観によれば、人間は本質的にあなたの言われる利益志向的なのではなく、利益志向性は貨幣経済・資本主義という経済社会の構造が生み出した仮の姿なのです。

リベラリスト:非常に楽観的な人間観ではあると思いますが、私の考えでは、あなたが提唱されるような純粋の共産主義が現実の社会として実現し難い理由の一つは、そうした楽観主義的人間観にありそうです。

コミュニスト:福祉の問題に戻すと、福祉もやはり利益志向的に営利化したほうがうまくいくだろうとお考えですか。

リベラリスト:ここでも、私はアメリカ人としては少数派の社会保険制度の支持者でして、ドイツ、日本のような介護保険制度は社会性と営利性を組み合わせた巧みな仕組みだと思います。全面無償ではサービス供給不足は否定できないでしょう。

コミュニスト:ドイツでは要介護認定や給付サービスを相当限定しているそうですが、その点で比較的寛大な日本では現行介護保険制度の下ですでにサービス供給不足が生じてきています。サービス供給は基本的に民間任せで計画性がないのですから、当然の結果です。

リベラリスト:介護と医療とを結合させて計画性を持たせるというご提案は高い理想だとは思いますが、理想どおりにいかないのは、やはり人間の利益志向性のゆえかと。またしても、人間観の相違になってしまいますが。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(32)

2015-08-15 | 〆リベラリストとの対話

30:本源的福祉社会について③

リベラリスト:ご推奨の本源的福祉社会に関して一つ懸念されるのは、福祉サービスがすべて無償ということで、果たして質を担保できるかどうかです。これは特に医療サービスに関しては、かなり深刻な問題になると思われるのですが。

コミュニスト:つまり、タダだと質の悪い医療しか提供されないのではないかというご懸念ですね。では、逆に有償であることが質の担保になっているでしょうか。もしそういう法則が成り立つとするなら、医療は全額自己負担制としたときに最も高い質が確保できることになるでしょうが、そうなのですか。

リベラリスト:我々アメリカ人はそう考える傾向にあります。アメリカでは医療費を公的に補助する公的医療保険制度への反対・懐疑が少なくないのも、一つにはそのためなのです。

コミュニスト:あらゆるものは有償の商品として売買されることで質が担保されるというまさしくアメリカ的な商品神話ですね。しかし現実には、貧困者はそもそも医療へアクセスすることが難しいという途上国的状況に陥る一方で、質は二の次の営利主義が横行しているのではないでしょうか。

リベラリスト:私個人は公的医療保険制度に基本的に賛成の立場です。自己負担をゼロとすべきではなく、一定額は個人負担の有償とすることで、質と平等の両立が可能になるという考えです。

コミュニスト:社会保険制度の教科書的には、それが正論でしょう。しかし日本では特にそうなのですが、実際のところ、社会保険サービスと営利サービスとが雑居することによって、営利主義の部分が隠蔽されている観もあります。

リベラリスト:英国の公的医療制度のように税財源を使って実質無償化する方式では、やはり質の担保が難しいという実証もあります。本源的福祉社会だとして全面無償化されれば、そうした問題はいっそう深刻化するでしょう。

コミュニスト:私の考えでは、医療の質は医療者の資質によって人的にコントロールすべき問題で、有償・無償という物的な側面とは無関係です。共産主義社会では無償でも医療に従事したいという志の高い人が医療者となるので、質の人的担保は高度に保証されるでしょう。

リベラリスト:その点は解決するとしても、医師の計画配置や診療予約原則など、サービスの量的コントロールも容易ではなさそうです。

コミュニスト:本来、医療には計画経済が適しており、市場経済によって適切にコントロールすることこそ困難であることは、公的医療保険制度がありながら民間病院中心かつ医師の計画配置なしの日本で医療サービスの地域格差が著しいことにも示されています。

リベラリスト:私自身は、公私のサービスを別建てにして、民営医療は市場経済に委ね、公営医療ではある程度計画経済的な手法を導入するという混合主義を支持します。

コミュニスト:混合医療とは、つまり階級医療のことですね。富裕層は民営医療、一般大衆は公営医療という階級的住み分けが生じるでしょう。英国でそうなっているように。

リベラリスト:私の予測では、本源的福祉社会ではそもそも病院が激減し、最寄の病院は隣の隣の市の病院というような始末になりかねないと思うのですが。

コミュニスト:医師の計画配置=病院の計画設置ですから、そういう事態はあり得ません。むしろ、そのような病院過疎現象は市場経済の下で倒産する病院が続出することによって起こり得るでしょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(31)

2015-08-09 | 〆リベラリストとの対話

29:本源的福祉社会について②

リベラリスト:年金も生活保護も必要ないという本源的福祉社会はたしかに魅力的ですが、その秘訣は労働と消費が分離されていることにあるわけですね。端的に言えば、働かなくとも食べていける社会。人によっては楽園と思えるでしょうが、それでは社会の生産活動が著しく停滞する危険と隣り合わせです。この問題は以前にも少し議論しましたが、改めてここで正面から議論しておきたい論点です。

コミュニスト:働かない=怠惰という図式をお持ちなら、まさしく資本主義的価値観だと思います。働かないのではなく、病気・障碍等で働けない場合のことを念頭に置いてみましょう。そういう状態は誰にも起こり得ることです。

リベラリスト:そういう場合は、それこそ社会保障によって支えていけばよいわけで、働けるなら、働いた報酬で食べていくのはいけないことですか。

コミュニスト:いけないとは言っていません。ただ、生活保護の受給条件でよく問題となるように、働ないのか、働ないのかの線引きはあいまいで、時に行政訴訟になるほど恣意的なものです。そういう無理な切り分けをするぐらいなら、労働と消費は初めから分離したほうがいいのです。

リベラリスト:そのうえで、労働は職業教育と労働配分によってコントロールしていくという構想だったと思いますが、一方で、本源的福祉社会では定年制も撤廃され、何歳でリタイアするかも自分で決定できるということでしたね。しかし、老年者がなかなか退職しない社会では、労働配分も困難にならないでしょうか。

コミュニスト:むしろ労働と消費が結合されている資本主義社会で、老年労働者がなかなか退職してくれなければ、代替の若年労働者の補充は困難となり、若年者の就労困難・貧困化が深刻になるでしょう。共産主義社会では計画的な人員補充が適宜行なえるので、そのような労働渋滞現象は起きません。

リベラリスト:理屈ではそうなのかもしれませんが、実際のところ、社会保障なくして、労働経済的なコントロールだけで人々の生活保障が成り立つという想定で大丈夫なのかという懸念が残ります。

コミュニスト:言い換えれば、福祉国家モデルは本当に消費期限切れなのかどうかという問いかけですね。たしかにそれは遅ればせながら福祉国家モデルに傾斜してきているアメリカを含め、世界が革命に流れるかどうかの分かれ道になるかもしれません。

リベラリスト:日本の共産党のように、企業課税強化による福祉国家再生論も根強いですね。

コミュニスト:企業課税強化論には実現可能性がありません。「近代的国家権力は、単に全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会にすぎない」(マルクス‐エンゲルス『共産党宣言』)のですから、そのような「ブルジョワ委員会」である国家がなぜ、ブルジョワの城塞である企業に重税をかけようとするでしょうか!共産党はどの政党よりもこの理を理解していなくてはならないはずです。

リベラリスト:アメリカについて言えば、アメリカ人は福祉国家でも、本源的福祉社会でもなく、自分で自分の世話をする「自己福祉社会」をいまだ支持しているようです。かれらは若きIT長者が体現しているような「アメリカン・ドリーム」から覚めていないのです。

コミュニスト:なるほど。しかし長期的に見て、出生率が高いヒスパニック系が人口構成上多数派になったときには、アメリカ社会全体がラテン化していきます。そうなれば、価値観も変化するでしょう。

リベラリスト:ヒスパニック系は本源的福祉社会を望むと?

コミュニスト:かれらは「ドリーム」とはあまり縁のない層ですし、文化的にも働き蜂ではなさそうですからね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(30)

2015-08-01 | 〆リベラリストとの対話

28:本源的福祉社会について①

リベラリスト:今回からは、医療も含めた広い意味での福祉の問題を取り上げてみたいと思います。あなたによると、共産主義社会は年金も生活保護も必要としない安心社会だとのことですね。

コミュニスト:はい。私はそれを「本源的福祉社会」とも呼んでおります。すなわち、共産主義社会は特段の福祉政策も必要としない、本来的な福祉社会だということです。

リベラリスト:その秘訣が貨幣経済の廃止にあるというわけですが、たしかに貨幣経済を前提としないのだから、ある意味全員平等に無一文でも十分暮らしていけると。

コミュニスト:アメリカ人は、国家が国民の福利厚生に手厚く支出する福祉国家の理念に強いアレルギー反応を示しますね。ならば、本源的福祉社会の共産主義はまさに福祉国家の対極にある究極の福祉社会としてアメリカ人にも受け入れられるのでは?というのが、私の考えなのですが。

リベラリスト:アメリカ人は全員無一文の平等を求めているのではなく、個人の努力の結晶である稼得に応じた暮らしができるこそ平等だと考えたがるのです。その意味では、貨幣経済の廃止ということがすでに受け入れ難い前提なのです。

コミュニスト:稼得というものがすべて個人の「努力」の結晶だという幻想が相当病的なレベルにまで社会に浸透しているようですね。だから、貧困者=怠惰というネガティブな見方が根強いのでしょう。しかし、そうした観念から脱却することは不可能なのですか。

リベラリスト:オバマ政権の中途半端な“民間皆保険政策”でさえ激しい巻き返しにあっています。一度染み込んだ社会通念は容易に抜けないようです。むしろ、本源的福祉社会は日本の風土のほうが適合しやすいのではありませんか。

コミュニスト:たしかに、日本はアメリカよりは適合しやすいかもしれませんが、一概には言えません。日本でも、稼得=努力の結晶という観念は結構根強いものがあり、とりわけ生活保護制度の運用においてそうした観念が前面化し、受給者叩きのような社会現象がある種のキャンペーンのように行なわれています。

リベラリスト:あなたは国家を前提としない共産主義的福祉社会は、アメリカ的な自助と共助の社会には適合するのでは?とも言われていますが、これはいささか不相応な高評価のようです。アメリカではたしかに慈善活動のような民間の福祉活動は盛んなのですが、それ自体がある種のビジネスや企業・富豪の宣伝活動になっている面もあります。

コミュニスト:それは資本主義的な歪みですが、根底に流れる共助の精神は認められてよいと思います。

リベラリスト:共助をいうなら、私自身は、いわゆるベーシック・インカムのような形で制度化したほうがよいと思っています。自助努力主義を放棄しない限度で、このような税の社会還元制度を創設することは可能ではないでしょうか。あなたはこの制度にネガティブなようですが。

コミュニスト:国が税を引き当てに個人所得を給付するベーシック・インカムはまさにアメリカ人的な稼得=努力結晶論に反するでしょう。自助努力主義の放棄そのものです。それをおいても、ベーシック・インカムの財源捻出は事実上不可能です。

リベラリスト:頭数に応じて課税した旧人頭税とは真逆に、頭数に応じて所得の一部補填をすることは、税の社会還元作用としてあってよいことだと思いますし、財源捻出も可能ではないでしょうか。

コミュニスト:私は『共産論』の第一章で、資本主義の内科的治療と外科的治療という医療モデルになぞらえた視座を提示しましたが、ベーシック・インカムとは福祉国家モデル以上に副作用の強い薬物治療のようなものです。

リベラリスト:どうしても本源的福祉社会にこだわりますか。私の考えでは、そのほうがよほどハイリスクな大手術のように思えるのですがね。

コミュニスト:たしかにリスクはありますから、すでに対論したように慎重な革命的プロセスを踏む必要があるわけですが、根本的な変革をためらってはなりません。

リベラリスト:神の手を持つ外科医のような革命家集団の出現に期待しなくてはならないですね。救世主の思想にどこか接近していきそうです。

コミュニスト:救世主の出現を空しく待つのではなく、すべての人が金の心配をしなくても暮らしていける本源的福祉社会の実現に向けたプロセスを民衆が開始することこそ、まさしく革命なのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(29)

2015-07-19 | 〆リベラリストとの対話

27:共産主義的教育について⑤

リベラリスト:あなたは『共産論』の教育に関する章の最後に、「共産主義社会は人生やり直しをいつでも可能とする自由なライフ・リセット社会であり、これこそが「ポスト近代」社会の要件である。」とまとめています。名言だと思うのですが、これも我々リベラリストのお株を奪われた感があります。

コミュニスト:コミュニストならぬパクリストというわけですか・・・。しかし、こうした人生設計の自由は資本主義社会の下で得られるものでしょうか。

リベラリスト:たしかに、コミュニストさんもご指摘のように、資本主義社会ではライフ・サイクルによる制約がかなりあります。しかし、そうした制約は国によって相違もあり、おそらくあなたの日本社会は制約が強いのだと思います。しかし、グローバル化の時代にはライフ・サイクルにとらわれないより自由なライフ・コースが開拓されるでしょう。

コミュニスト:私はそれほど楽観的ではありません。たしかにライフ・サイクル的制約は国により異なりますが、この制約は文化的要因だけでは説明がつかず、人間を労働力として生産活動に動員することを中心に組み立てられた資本主義社会ならではの制約です。あえて言えば、人間は役畜と同じで、労働力としての適齢というものが決まっているのです。

リベラリスト:それはたしかに悲観的な見方ですね。しかし、特に若い世代には学校を修了した後、モラトリアム期間をしばらく保障するようなゆとりを持った社会を構築することは可能ではないでしょうか。

コミュニスト:それは結構なことですが、モラトリアム期間にも自ずと限界があるはずです。一方で、方向付けがないままの放任型モラトリアムでは社会的な「迷子」―いわゆるニート―を作ってしまう恐れもあります。

リベラリスト:その点ですが、あなたによると、共産主義社会では職業教育が重視され、義務教育に相当する一貫制基礎教育を修了すると、「原則として全員がひとまずは就職する体制」を作るとのですね。私にはこのほうがほよほど画一的な社会のように思えますが。

コミュニスト:人生設計の自由を抽象的にとらえると、「人生放任」の社会になって、先ほど述べたような「迷子」を増やすことになります。ですから、まずは全員をいったんは社会に送り出す。問題はその後の人生です。そこで、リセットができるかどうかなのです。

リベラリスト:あなたは労働に関する章で、「職業配分」という提案をしていましたね。これはやや統制的な印象を受けますが。

コミュニスト:「職業配分」は「労働統制」でも「労働市場」でもなく、教育ともリンクしたまさに人生リセットの具体的な支援制度なのです。

リベラリスト:教育に話を戻しますと、職業教育のような実践教育は資本主義とも矛盾しませんし、大いにやるべきだと思います。

コミュニスト:「やるべき」といっても、資本主義的教育は選別的ですから、職業教育コースと教養教育コースに早期選別されていくのが一般です。しょせんは、階級別教育システムなのです。

リベラリスト:そうした教育制度の不平等を正すべきだという一点では、意見の一致があります。

コミュニスト:「正すべき」といっても、資本主義社会では正しようがないというのが、私の意見です。本気で正したければ、社会のあり方を土台ごと入れ替える必要があるのです。ですから、はじめに戻って、私はリベラリストさんのお株を奪ったのではなく、リベラリストさんのお株を正しい土壌に植え替えようとしているだけなのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(28)

2015-07-12 | 〆リベラリストとの対話

26:共産主義的教育について④

リベラリスト:今回は、「大学の解体」をめぐって対論してみたいと思います。「大学の解体」とは言い換えれば、「高等教育の機会均等」ではなく、高等教育そのものを抹消しようという企てですね。

コミュニスト:非常に単純化すれば、そうなりますね。「機会均等」という標語はすべてそうなのですが、空論に終わることがほとんどです。なぜなら、「機会」は均等だが、「結果」の均等は問わないというのが「機会均等」論ですから、鰻の匂いだけは全員均等に嗅がせてやるが、実際に食べられる者は限られるという議論なのです。

リベラリスト:そうでしょうか。鰻を食べるために必要な努力をする限り、鰻を食べるという結果もついてくるというのが、機会均等論の真意です。あなたの議論は、鰻などどうせ食べさせてくれないのだから、鰻そのものを死滅させてしまえと言うに等しいものです。

コミュニスト:しかし、現実に大学という鰻を食するための努力をすることができる環境とそうでない環境は階層的に決定されています。いくら奨学金等の支援策をもってしても、これは埋め切れない階級格差です。かといって、大学全入を認めれば、今度は大卒学歴の価値下落を生じ、学位は紙切れと化します。

リベラリスト:そこで、あなたによれば、「知識階級制の牙城」である大学は解体されなければならないわけですが、解体といっても単純に潰すのではなく、一方では生涯教育機関としての「多目的大学校」、他方では研究専業の「学術研究センター」に分割されるとのことです。この区別は、実は新たな知識階級制を生みだす元となりませんか。

コミュニスト:少し誤解があるようです。大学を単純に多目的大学校と学術研究センターとに分割するのではなく、両者は全く別物です。前者は教育機関ですが、後者は研究機関であり、研究機関としては、数ある就職先の一つに過ぎません。

リベラリスト:しかし、学術研究センターは独自に研究生を選抜養成すると説明されています。これは、一種の学生のエリート選抜ではありませんか。

コミュニスト:学術研究センターの研究生は学生ではなく、センターの職員です。ですから、これは大学への入学とは根本的に異なり、研究所への就職ととらえればよいのです。共産主義社会では研究職も特別なエリートではなく、数ある就職コースの一つです。

リベラリスト:学術研究センターは研究者を教育の負担から解放するメリットはありますが、一切教育しない研究専業機関というものが学術のあり方として健全かどうかという問題もあります。

コミュニスト:学術の社会還元ということなら、学術研究センターは現行大学以上に一般向け学術講演会などを主催する余裕が増えますし、センターの研究員が多目的大学校の講師として講義するといった形で、多目的大学校との連携も取れますから、ご懸念には及ばないものと考えます。

リベラリスト:なるほど。何となく分かってきました。とはいえ、私自身は高等教育の意義をなお信じています。あなたのように、教育は基礎教育で完結し、あとは就職後の生涯教育に委ねればよいということでは、市民社会の知的レベルを維持できるかどうか、不安を拭えません。

コミュニスト:共産主義社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるという趣旨のことを書きましたが、まさに共産主義社会は経験主義的社会なのです。そこで求められる知は高等教育を通じて上から知識体系として与えられるものではなく、日常の生活経験から得られる経験知です。

リベラリスト:経験知の大切さは理解します。ただ、経験に偏るあまりに、理性を信頼する近代的な合理主義の成果面まで失われないかという疑念は残ります。お節介になりますが、「共産主義的高等教育」というものがあり得ないのかどうかも一度検討されてみてはどうでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(27)

2015-07-05 | 〆リベラリストとの対話

25:共産主義的教育について③

リベラリスト:あなたの教育論でもう一つ気になる点は、「子どもたちは社会が育てる」という標語です。私はこの標語の具体的な意味が今ひとつ飲み込めていないのですが、これは共同保育のような制度を想定しているのでしょうか。

コミュニスト:このテーゼは、主語が「子どもたち」と複数形になっていることからわかるように、個々の子どもではなく、集合としての子どもたちは社会が責任をもって育成するといった趣意です。言い換えれば、日々の育児は親権者が担いますが、それは個々の子どもの言わば製造元として、社会から委託されての任務なのです。

リベラリスト:となると、そのことは資本主義社会でも幼児教育や義務教育の制度を通じて実現されているのではないでしょうか。

コミュニスト:とは限りません。たしかに、大半の資本主義国で教育は制度化されていますが、子どもの教育は基本的に親任せにするのが資本主義です。ですから、子どもの将来はほぼ出自した経済階層によって決まってしまいます。共産主義社会には経済階層は存在しないとはいえ、親の育児能力の格差までは是正し切れないので、そうしたばらつきを均すためにも、子どもたちの育成は社会が第一次的に責めを負うのです。

リベラリスト:それならば、やはり共同保育や寄宿制のような制度があってしかるべきですが、『共産論』ではそうした具体的な提案がありませんね。

コミュニスト:実は、執筆に際して、義務教育に相当する13年一貫制の基礎教育課程を寄宿制とすべきかどうか迷ったのですが、全面寄宿制の設備的限界や濃密過ぎる人間関係がもたらす弊害などを考慮し、提案しなかったのです。

リベラリスト:そうなると、「子どもたちは社会が育てる」という標語は、かなり内容希薄になりますね。

コミュニスト:そうでもありません。例えば、義務保育制とか地域少年団などの提案は資本主義社会では見られない独自のものです。

リベラリスト:そうした子どもの政策的集団化は、旧ソ連におけるピオネールのような全体主義的制度を想起させます。

コミュニスト:決してそうではありません。真の共産主義社会は全体主義とは無縁です。義務保育制や地域少年団は、子どもの社会性を涵養することを目的とした中立的集団教育の手法であり、政治的な底意を隠した選抜的集団教育ではありませんので、ご安心ください。

リベラリスト:個々の子どもがそうした制度に参加しない自由は留保されるのでしょうか。

コミュニスト:疾病その他の正当な理由に基づき参加しない自由は留保されますし、参加できない原因を除去するための努力もなされます。

リベラリスト:それにしても、日々の養育は親権者が行なうことに変わりないなら、やはり虐待や養育放棄などの問題は完全には克服できないでしょうね。

コミュニスト:先ほど述べたように、親による日々の養育は、社会からの委託に基づくものですから、親の養育態度に対する社会的な監督はより厳正になります。といっても、警察的監視の強化ではなく、むしろ保健所や児童福祉機関を通じた育児の手引きや援助などを通じたサポーティブな監督が強化されるでしょう。

リベラリスト:とはいえ、共産主義的教育はやはり統制的な印象を否めず、自由度に欠ける印象を受けますね。

コミュニスト:「自由」の名のもとに、児童虐待や教育格差が放置される社会よりも、社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の責任を社会が最後まで負う社会のほうが、子どもたちにとっては得るところがずっと大きいはずです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(26)

2015-06-28 | 〆リベラリストとの対話

24:共産主義的教育について②

コミュニスト:前回の対論で、私の教育論には「資本主義社会=知識階級制」という先入見があるようだと指摘されましたね。

リベラリスト:はい。実際、『共産論』の中で、「発達した資本主義社会の実情はと言えば、それは高度の知識分業化を前提に、各界に各種スペシャリストが配され、こうした知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードするという形で成り立っている。ここから、一種の知識階級制のようなものが発展してくる。すなわち知識獲得競争に勝ち残った者が社会の指導エリート階級となり、負けた者は被指導階級となる」というドグマを立てておられますね。

コミュニスト:たしかにそうです。しかし、それは私の観念的なドグマでなく、真実ではありませんか。

リベラリスト:「知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードする」というのは「知識人・専門家」に対する過大評価だと思います。あるいは一般大衆の間にそういう意識があるかもしれませんが、それは真実ではありません。

コミュニスト:そうでしょうか。では、無学歴者が社会をリードすることができていますか。

リベラリスト:残念ながら、私の祖国アメリカではそうなっていません。ただ、これはアメリカ社会特有の知識格差問題でもありますので、資本主義社会全般には妥当しないでしょう。

コミュニスト:私はそのように地域限局的には考えません。日本も含め、形は違えど、資本主義社会は資本制企業経営陣を含めた知識人・専門家主導社会です。だからこそ、親たちも子に学歴をつけさせようと必死になるのです。

リベラリスト:だからといって、大学制度を「知識階級制」の牙城とみなして解体するというあなたの議論は極端過ぎます。むしろ、大学の門戸開放をこそ図るべきです。

コミュニスト:世界一を誇るアメリカのエリート教育を修了したあなたにとって、大学は人生そのものかもしれません。しかし大学の門戸開放は無理です。大学は、特別に選抜された者だけが入学を許される高等教育―階級教育―の場だからです。

リベラリスト:それは悲観的に過ぎますね。もっとも、あなたは大学に代えて多目的大学校なる制度を提案しておいでです。私の感じでは、この制度はアメリカにあるコミュニティー・カレッジを想起させますが、これは大学とは本質的に異なる教養的なカレッジです。

コミュニスト:それこそ、共産主義的教育の萌芽だと思います。全員に等しく開かれた生涯教育機関として、大いに参考になります。

リベラリスト:あなたはその一方で、高度専門職学院なる制度も提案され、医療者や法曹等の高度専門職の養成機関にしようとしています。これは、ある種のエリート教育の場になるのではないでしょうか。

コミュニスト:高度専門職=エリートではありません。実際、専門職学院に進学できるのは、芸術やスポーツの分野を除き、一定期間の就労経験を持つ者、日本流に言えば「社会人」です。学業成績だけに依拠した特別選抜教育の場ではないのです。

リベラリスト:その制度も、アメリカのメディカルスクールやロースクールにやや似ているようですが、これらは四年制大学を修了していることが入学要件です。労働者から医師へ、というコースは現実的にも無理ではないでしょうか。

コミュニスト:よくぞ言ってくれました。まさに、それこそ知識階級制と知識共産制の分かれ目なのです。知識共産制に基づく教育は、労働者から医師へのコースを普通に可能とします。

リベラリスト:揚げ足を取られましたか。たしかに、そういう華麗な転進が可能な社会は一つの理想ではあるでしょう。知識人・専門家の出身階層を広げる努力は資本主義社会の下でも怠るべきではないという限りでは、同意することができます。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(25)

2015-06-14 | 〆リベラリストとの対話

23:共産主義的教育について①

コミュニスト:今回から、個別政策をめぐる各論的な対論に入りますが、まず教育政策から始めたいというご要望でした。これは、いったいなぜですか。

リベラリスト:あなたの『共産論』における政策論で一番論争的なのは、教育の部分だと考えるからです。リベラリストから見て、承服しかねるところが多々あります。なかでも「(共産主義的教育においては)構想力と独創性が重視される」という言辞ですね。これは、まさに私どもが主唱する自由主義的教育の理念を横取りされたようなものです。

コミュニスト:つまり、共産主義的教育は統制的であり、構想力や独創性をむしろ奪うものだと理解されているわけですね。そうした誤解、と言って悪ければ先入見は世界中に行き渡っています。おそらく、旧ソ連や旧ソ連圏で行われていたような教育―十分検証されているとは言えませんが―を想定してのことでしょう。しかし、私が提唱する共産主義的教育はそれとは全く異なるものであることは、『共産論』に書きました。

リベラリスト:「知識資本制から知識共産制へ」というドグマティックな図式も提出されていますが、「知識共産制」という用語からは、構想力や独創性などはなかなかイメージできませんね。

コミュニスト:知識共産制というのは、簡単に言えば知識を独り占めしないという意味です。すなわち、知的財産権というような観念の対極にあるものです。一人一人が各自の構想力と独創性をもって産出した知的生産物を持ち寄って社会で共有し合うというような知のあり方であって、何らかの公式的な知識体系を画一的に教授するというようなものではないのです。

リベラリスト:「何らかの公式的な知識体系を画一的に教授する」ような教育法には、私も反対です。ただ、知的財産権は決して知の独占権ではなく、特定の知的生産物の創案者に優先権を与えつつ、それを社会で共用し合うというすぐれて実際的な観念ではないでしょうか。

コミュニスト:なぜ、創案者に優先権が与えられなければならないのでしょう。そもそも特定の知的生産物の創案者が誰なのか、明確に特定できるものでしょうか。その特定をめぐり、しばしば泥沼の法廷合戦が生じますが、大きな社会的ロスです。それはともかく、知識共産制は知的統制とは無縁のものだということは、何度でも強調します。

リベラリスト:まだよく腑に落ちないのですが、仮にそうだとして、あなたの言われる「知識資本制」はそれほど統制的でしょうか。

コミュニスト:統制という言い方はよくないかもしれませんが、知識資本制下の教育は、既成知識体系、それも資本にとって「役に立つ」知識の伝授に偏っていることは事実です。ありていに言えば、金儲けに関係する知識だけが仕込まれるわけで、その本質は資本主義・市場主義のイデオロギー統制教育なのです。

リベラリスト:その点、私も資本や市場を絶対視するような教育法の蔓延には懸念を持ちます。しかし、構想力や独創性は決して「知識共産制」のそれこそ特許ではなく、むしろ本来は自由主義的教育論のオリジナルだということは、言わせてもらいます。

コミュニスト:知的財産権の侵害というわけですか・・・。あなたの言われる自由主義的教育とは、おそらく伝統的なリベラルアーツ教育を念頭に置いているのでしょうが、私が言う意味での構想力や独創性は、そういう古典的な西洋エリート教育の理念とも異なります。

リベラリスト:どう異なりますか。

コミュニスト:それは『共産論』にも書いた「この(共産主義)社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。」という箇所を引用して、回答としましょう。

リベラリスト:その箇所は、ある種の「名言」だと思いますが、その前提には「資本主義社会=知識階級制」というあなたなりの先入見があるようですので、次回、これについて討論してみましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(24)

2015-06-07 | 〆リベラリストとの対話

22:非暴力平和革命について⑤

リベラリスト:あなたがしばしば参照するマルクスは、「資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める労働者階級が発達してくる」と指摘していますね。私はある意味、名言だと思います。21世紀の労働者階級は、相当過酷な労働条件に置かれている人たちですら、今や資本主義を「自明の自然法則」として受容し、暴力・非暴力を問わず、もはや共産主義革命など想定外のことと考えているのでは?

コミュニスト:私も、マルクスのその予言は出色だと思っています。ですが、だからといってマルクスは資本主義が永遠不滅なりとは考えず、労働者階級の革命的覚醒を確信していました。私も、マルクスの革命論とは違いますが、労働者階級を含めた民衆の革命的覚醒を控えめに確信しています。

リベラリスト:私は、そこまで楽観的にはなれないですね。いったいどのようなきっかけで「民衆」―私も含まれるのでしょうか―が革命的に覚醒するというのか、ちょっと想像がつきません。

コミュニスト:それは『共産論』でも書いたことですが、資本主義がもたらす社会的苦痛が持続し、限界に達した時です。具体的には、「環境危機の深刻化による健康不安や食糧難、生活難に加え、雇用不安・年金不安に伴う生活不安の恒常化、人間の社会性喪失の進行による地域コミュニティーの解体や家庭崩壊、それらを背景とする犯罪の増加といった状況が慢性化すること」と指摘しました。

リベラリスト:あなたは「2008年からの世界大不況のゆくえが一つの鍵を握るであろう」とも指摘されていますが、そうすると、今のところ、世界大不況を経ても、あなたの言われる「社会的苦痛」はまだ限界には達していないとお考えですか。

コミュニスト:どこまで苦痛の限界に耐え抜けるかという苦痛耐性は、身体の痛みと同様、個人差及び国民差がありますので、一概には言えないのですが、アメリカや日本では表見上・統計上の「景気回復」にもかかわらず、相当深刻になってきていると見ています。

リベラリスト:つまり、格差社会の進行ということですか。

コミュニスト:単なる「格差」の問題ではなく、「豊かさの中の貧困」が深く進行しています。意外に見落とされがちな指標に、子供の貧困率があります。将来の社会を担う子供の多くが貧困状態にあることは、将来の社会崩壊を導きます。アメリカと日本という資本主義の象徴国で子供の貧困率が高いことは、まさに象徴的なのです。

リベラリスト:すると、貧困の中で育った子供たちが、将来米日で共産主義革命の担い手となると?

コミュニスト:それほど単線的ではありませんが、かれらが根源的に覚醒すれば、革命の主要な担い手となる潜在的可能性はあるでしょう。

リベラリスト:でも、マルクスが言うように、かれらもまた「教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める」ようになるかもしれませんよ。私にはその可能性のほうが高いように思われます。

コミュニスト:かれらが資本主義的な「教育」を受けて、資本主義的な「伝統」や「慣習」を体得できれば、の話ですが、教育と貧困は反比例しますので、あなたが想定するほどうまくいくかどうかですね。

リベラリスト:なるほど、革命家にとっては、教育から脱落した青年たちは「オルグ」しやすいというわけですな。でも、マルクスをはじめ、歴史上の革命家たちは皆なぜか立派に高等教育を受けた知識人で、民衆からは遊離した存在ですよね。

コミュニスト:それはまさに共産党その他の政党組織を通じた従来型革命運動の限界性です。そもそも政党というブルジョワ・エリート政治の産物を再利用しても、別の形のエリート政治になってしまうのです。だからこそ、私は政党組織によらない民衆会議運動というものを提唱しています。

リベラリスト:なるほど、それなら教育のない青年たちを呼び込めると計算なさっているのですね。しかし、今日、学校教育の外にも、享楽という楽しいある種“教育”の場があり、革命よりそちらへ誘引されていく可能性もありますよね。

コミュニスト:たしかに、広い意味での娯楽産業資本は今日、資本主義の大きな産業部門を構成しており、大衆を革命より娯楽へ誘引していくある種の反革命機能を果たしていることはたしかです。これをどう乗り越えるかは、大きな課題ですが、一つの方法として革命運動自体に娯楽的要素を取り込むということが考えられます。

リベラリスト:「革命的テーマパーク」とか、「革命的アイドルグループ」の誕生ですか・・・。何だか、私も参加してみたくなってきました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(23)

2015-05-31 | 〆リベラリストとの対話

21:非暴力平和革命について④

コミュニスト:前回、私の世界同時革命論について、空想あるいは机上の空論だというきついご指摘をされましたね。

リベラリスト:言葉が過ぎたかもしれません。でも、狭いようで広い地上に、現時点でも70億の人口が200近い国に分散する惑星上での同時革命など想像もつかないと感じるのは私だけではないと思います。

コミュニスト:同時革命というとき、「同時」を文字通りに取る必要はありません。ここで言う「同時」とは、5年くらいの幅を持たせた時間概念なのです。そういう一定期間内に、次々とドミノ倒しのように革命が継起するようなイメージですね。

リベラリスト:5年で世界が変わるというのは、私からすると、一夜で世界が変わるというのに等しい感覚です。私はそのような事態を想像できませんが。

コミュニスト:それは「世界は変わり得ない」という物理的な不能論ではなく、「世界は所詮変わらない」という諦念が、あなたの革命的想像力を奪っているのです。「世界は変われる」とポジティブにとらえてみてはどうでしょうか。

リベラリスト:問題はどう変わるかですね。歴史上、多くの人が世界を変えると称して、革命に身を投じたものの、かえって以前よりひどい体制を作り出したことは珍しくありません。私はむしろガンジーに従って、自分が世界によって変えられないために何かしたいと思う立場ですね。

コミュニスト:世界によって悪い方向ではなく、良い方向に変えられるならば、あなたも反対はしないでしょう。民衆会議インターナショナルは、あなたを悪い方向に変えようとしている現存世界に対するアンチテーゼであり、そのような世界革命運動なのです。

リベラリスト:あなたの言うことが、教祖みたいに聞こえてきました。民衆会議運動は、少し宗教がかってはいませんか。

コミュニスト:そう受け取られたなら、非は私にあります。私は決して教祖的であろうとは思っていません。私の役割は、民衆会議運動の先駆的な提唱者にとどまります。あえて宗教になぞらえるなら、教祖より預言者に近いかもしれません。

リベラリスト:実際、あなたは我がアメリカ合衆国が世界ドミノ革命のスタート地点になると預言しておいでですが、アメリカで共産主義革命が起こるだろうと確信できるあなたの才能に感服しています。

コミュニスト:確信というより、希望も混じった預言なのです。真の共産主義革命はロシアでも中国でもなく、アメリカで起こるべきであろうという・・・。それは、まさに世界を変える動因となるでしょう。

リベラリスト:その預言は、次期大統領選挙のレース予想に夢中になっているアメリカ人同胞たちの頭を冷やすためには、たしかに革命的に効くかもしれませんね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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